フランスの貴族 - 爵位・称号など

フランスの貴族 - 爵位・称号など(1)

さて、フランスの貴族制は貴族の本場だけあって複雑だ。

その起源はメロビング朝まで遡れ、フランク王国の役職が分裂後の戦乱の9-10世紀に世襲化して封建貴族となり、中世終期に爵位化したと言う点で、西欧の貴族のモデルケースとも言える。

しかし、13世紀以降に王権が強化し始めると、王は官僚機構を整備し法服貴族*1を作ると共に新規の爵位を授与したが、後には爵位や官職は売買されるようになり、絶対王政になると貴族の序列は王との親しさで決まり、爵位による名目的なランクは余り意味を持たず、僭称も半ば公然と行われた。

*1 封建制から来る帯剣貴族に対する呼称だが、役職者はその役職を示す制服のような物を着ていたからで、別に法律家、司法関係者に限った訳ではない。

その後、革命を経て、ナポレオン帝政、復古王政と新たな貴族が作られ、混乱の後に共和制が定着すると平等の名の下に特権もなくなり、家の由緒を示す自称のようになっている。

中世の身分と称号で述べたように、フランスの爵位はフランク王国の役職が世襲化したもので、軍政官(Duc)、辺境長官(Marquis)、地方長官及びその他の長官(Comte)、副伯(Vicomte)、王の直臣(Baron)*2が、フランク王国分割後の9-10世紀の戦乱の中で、中央の統治が失われると世襲化して、領主として半独立の存在となった。

*2 これらを五爵に当てはめると、公、侯、伯、子、男爵となる。

フランク王国の有力者が争う中で中央政府の統治が失われると、それに付け込んで山賊やサラセン海賊が略奪を繰り返し、特に北欧からのヴァイキングは海岸地帯から川を遡って内陸部にまで侵入して荒らし回った結果、地方の有力者は中央政府の支援を当てにせず、それぞれ城砦*3を作って非常時に篭れるようにし、その保護を受ける者が領民となったのである。

*3 木造の粗末な物が多かったが、ヴァイキングのように少数で略奪が目的の相手なら、時間の掛かる城攻めはせず素通りすることが多い。

しかし本格的に領土を狙っての城攻めだと、一定期間は持ちこたえられても、援軍がなければいずれ降伏することになる。公的な援助を期待できない領主たちは、その地方の実力者の伯や副伯と私的な封建契約を結び、軍役を果たす代わりに非常時の救援を期待したのが封建制度である。

こうして、地域では敵が侵入すると領主は城に篭って封建主君に救援を要請し、封建主君は配下の領主たちを召集*4して援軍を送ると、難戦を避ける敵は引き上げるというシステムが確立し、ヴァイキングの脅威は減少し、王、公、伯の各レベルで封建関係を結ぶことで一定の秩序が得られるようになった。

*4 それぞれの領主は自分の城が襲われた時に援軍を期待する為、お互い様なのである。そのような地域共同防衛機構の名目的な長が封建主君だとも言える。

しかしフランスの封建制はあくまで、非常時の互助組織的な体制であり、11世紀に入って危機が去ると、すぐに封建関係は名目のみとなり、王、公、伯といった地位に関わらず、封建主君も封建臣下も同列の領主として互いに領土争いを行うようになった*5。

*5 しかし、外部からの襲撃とは違い、同じ価値観を持つ者同士の争いの為、後に騎士道と呼ばれる一定のルールが形成され、無秩序な乱世でもなかった。

西フランク王国だったフランスでは、カロリング朝の王に代わって、パリ伯=フランス公だったユーグ・カペーが王となり、世襲化を果たしてカペー朝を開いたが、実質はイル・ド・フランスの大諸侯に過ぎず、他の大諸侯の領土の内政にはほとんど影響力を持たなかった。

つまりフランス王国は大諸侯の公国の緩やかな連邦であり、それらの公国は伯領の緩やかな連邦で、それぞれの伯領は領主による緩やかな連邦だった訳で、まさに城1つで治める小さな国が寄せ集まった*6のがフランス王国だった。

*6 封建制は大なり小なり、その傾向を持つが、フランス王国においては特に顕著だった。

しかし、王権はようやく12世紀に入ってルイ6世肥満王の代でイル・ド・フランスの統治が進み、ルイ7世とアキテーヌ公の相続人アリエノール・ダキテーヌとの婚姻により飛躍するかと思われたが、その後、アンジュー伯だったプランタジネット家の大躍進により、フランスは二大勢力の冷戦時代に入った*7。

*7 この辺は、アンジュー帝国の誕生の他、ノルマン朝・アンジュー帝国のトピックで色々、書いている。

その後、ジョン王の失策によりプランタジネット家の大陸領土をギエンヌ(アキテーヌ、ガスコーニュの一部)以外、奪い、アルビジョワ十字軍でトゥールズ伯領を併合し、フィリップ4世の時には、アヴィニョン教皇教皇権を押さえ込み、フランドルやギエンヌも併合して統一したかに見えたが、大陸領土奪回に燃えるイングランド王・プランタジネット家の反撃を呼び、百年戦争で泥沼の争いを続けることになる。

フランスの貴族制 - 爵位・称号など(2)

百年戦争では戦功者に恩賞を与える必要があったが、領土には限りがあり、力も同時に与えることになるため、名誉だけ与える、特許(Patent)による爵位の授与や騎士団への叙任*8(勲章の受章)が英仏共に行われるようになった。

*8 ガーター騎士団(勲章)が有名。フランスでもいくつか作ったが負け戦が続いた為にあまり流行らず、現在、有名なレジオン・ドヌールはナポレオンが作ったもの。

特許による授爵で重要なのが、イングランドでは土地と切り離された爵位が与えられたのに対して、フランスでは従来の封建爵位同様に当人の持つ封土に爵位を与えた*9ことである。従って、封土の相続により爵位を相続するだけでなく、封土の贈与(売買)により他人が爵位を得ることも可能なのだ*10。複数の爵位付き封土を持つ者は子供達に分配することも可能だった。

*9 アンジュー伯領をアンジュー公領にしたり、爵位無し貴族の封土を伯爵領に変えたりする。
*10 本来、特許には継承条件や譲渡条件などが記載されているのだが、色々手続きする(金を払う)ことで、変えることができたようである。購入した者が貴族なら問題なく爵位を得られた。

一方、14世紀ごろからフランス王は官僚機構の整備を始めたが、役職者は貴族からだけでなく平民からも採用し、一定期間、高級な役職を占めた者は貴族に列せられることになった(法服貴族)。

役職の重要性によって、貴族になるには、一代20年間とか二代に渡ってとか規定があったが、すぐに役職は事実上、世襲化し*11、その役職も売買することができた*12。

*11 税を払うことで世襲できた。やがてそれが財産として売買されるのは、日本の御家人株などと同じである。
*12 買って役職に就き、一定の年数を勤めれば貴族と成れる。一方、売っても貴族の地位は保てるため、貴族に成った後、売却されることも多かった。

平民が貴族に成る方法は、1) 高級な役職に就き規定の年数勤める、2) 王の特許を受ける、3) 貴族の封土を入手する*13の3通りあったが、いずれも金銭での購入が可能だった為、富裕なブルジョワは貴族に成れたが、貴族には職業の制限*14があり、必ずしも誰もが成りたいものではなかった。

*13 16世紀までは4世代に渡って貴族の封土を所有することで、平民が貴族に成れた。
*14 商業や肉体労働など貴族らしくない職業は禁止されており、生活様式にも色々、制限があった。

百年戦争後の公益同盟や宗教戦争、フロンドの乱により貴族の権力は抑えられ、17世紀には絶対王政が確立したが、フランス王は既に多く作られてしまい、事実上売買*15もされている爵位で貴族のランクを管理することはせず、王族、上級貴族(pair)*16、公爵、爵位貴族、非爵位貴族*17のような序列があるだけで、爵位は公爵は別格として侯爵から男爵まではほぼ同格で、他の要素の方が重要だった。

一般的に役職の重要性、家の由緒、縁戚、勲功など、さらに王との親しさ、騎士団(勲章)の有無などでランクがつけられた。

*15 というか、元々、常に資金不足の王自身が爵位や貴族の地位、そして役職を金銭で売っているのだが。
*16 王の同僚と言う意味で、イギリスでは貴族全体がpeerなのだが、フランスでは最上級の貴族のみが該当し、むしろドイツの選帝侯に近い。当初は聖俗合わせて12名で、シャルルマーニュの12名のパラディンや円卓の騎士を意識したのだろう。
*17 騎士(chevalier)か従士 (ecuyer)かのランクがあった。

貴族の嫡子は全員、貴族であるが、爵位付き封土を持つ者以外は、儀礼称号*18を名乗るか非爵位貴族となる。

また、貴族を意味するとされるドは法制化はされておらず、ドを付けた家名の半ば以上は貴族ではなかったようだ*19。一方、貴族の大部分はドを付けており、非爵位貴族はドで判断される訳だが、小数ながら付けていない家もあった。

*18 儀礼称号にはイギリスのような厳密な規則はなく、本称号より低い爵位を適当に名乗って良いようだ。
*19 但し、ドを付けていると、それ相応の暮らしでなければ恥ずかしい。

フランスの貴族制はイギリスやドイツとも似ている*20のであるが、何でも売買するなど、真面目なゲルマン系と比べると緩いな~との印象がある。また、イギリスではバロンである貴族院議員、ドイツでは帝国議会の等族が諸侯だが、フランスでは明確で法的な諸侯の定義が無い。

*20 イギリスとは互いに影響し有っているし、ドイツとは元がフランク王国で共通点がある。

結局、絶対王政では王の前では平等であり、王の好意だけが人のランクを作るのに対して、その対極となったドイツでは貴族たちが特権を守るために血統を重視した厳しいランクを作り、イギリスでは王が貴族を統制するために爵位を管理したと言えよう。

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