シチリアの晩鐘

シチリアの晩鐘(1)

この事件は、中世ヨーロッパにおける初の成功した民衆反乱と見られることがあり、フランス人の支配を追い払ったという点で、イタリアのナショナリズムにも影響を与えているが*1、それ以上に、ヨーロッパの歴史の大きな変化を止めた事件だったかもしれない。

*1 そもそもシチリアはイタリアか?という問題があるのだが。

シチリア王国は、ノルマン人のオートヴィル家がシチリア島とイタリア半島南部を所有し、ローマ教皇の宗主下で作ったものだが、女系継承により神聖ローマ皇帝のホーエンシュタウフェン家が継承していた。フリードリヒ2世はシチリア王国を本拠地として、教会政策やイタリア政策でローマ教皇と激しく対立したため、ローマ教皇はフリードリヒ2世を破門し、対立王を立てていた。フリードリヒ2世の跡を継いだコンラート4世が短命で亡くなり、幼いコンラディンが残ると、神聖ローマ帝国では、所謂、大空位時代となり、シチリア王国はフリードリヒ2世の庶子であるマンフレーディが摂政となり、後にコンラディンが亡くなったという誤報を受けてシチリア王に即位した。

ホーエンシュタウフェン家の支配を覆すことを望むローマ教皇*2は、各王家にシチリア王位を打診し、これにフランス王ルイ9世(聖王)の弟、アンジュー伯シャルルが応じた。

この時代、王族という身分は特になく、王の子供であっても、その身分は彼の持つ所領で決まる。シャルル・ダンジューはフランス親王領(アパネージュ)として、アンジュー伯領を受け、また豊かなプロバンス伯領をその娘との結婚で相続*3していた。しかし、彼の野心はそれに留まらず、神聖ローマ帝国、フランスに次ぐ強国であったシチリア王位は彼にとって絶好のチャンスだった。

*2 神聖ローマ皇位はイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを押し、シチリア王位は当初、ヘンリー3世の息子エドマンドに打診したが、シモン・ド・モンフォールらのバロンの乱の兆しにより破談となった。

*3 彼女は4姉妹の四女なのだが、姉3人が、フランス王ルイ9世、イングランド王ヘンリー3世、ドイツ王(コーンウォール伯)リチャードと結婚しているため、相続人に選ばれている。但し、姉たちやその母は不満であり、争いが起きている。

ローマ教皇の手で戴冠しても、それでシチリアが手に入るわけでなく、当然、現在の王マンフレーディと戦ってシチリアを征服しなければならない。彼はプロバンスの兵を中心に、フランス全土から領土を望む騎士の次男以下や傭兵を募り、1266年にベネヴェントの戦いでマンフレーディ軍を破ってシチリアを征服した。さらに、本来の継承者であるコンラディンがドイツから進撃してくると、これをタリアコッツォの戦いで破り、コンラディンを処刑し、ホーエンシュタウフェン家を完全に滅亡させてシチリア王国の支配を固めた。

しかし、彼の活動はここに留まらなかった。教皇派(ゲルフ)の旗頭として北イタリアに影響力を及ぼすだけでなく、代々のシチリア王が望んできたビザンティン帝国*4の征服と、フランスと共に西欧挙げての十字軍を起こし、エルサレム王国を再興することを本気で計画し始めたのである。シャルルの野心を警戒し始めていた教皇も十字軍とエルサレム回復には無条件で賛同するはずだった。

*4 第4回十字軍の際に立てられたカトリックの東ローマ帝国であるラテン帝国は既に消滅しており、亡命政権だったニカイア帝国がコンスタンティノープルを回復してビザンティン帝国を再興していた。

そのための準備も怠りなく、ラテン帝国、エルサレム王国、アカイア公国の継承権などを婚姻や買収により得て、さらに、息子のシャルル2世をハンガリー王女と結婚させ、歴史的にビザンティンとの関係が深い中欧の大国ハンガリーと同盟した。

シチリアの晩鐘(2)

しかし、十分な準備は敵にとっても対応する時間を与えることになった。狙われたビザンティンは元々、陰謀がお家芸であり、皇帝ミカエル8世は、東西教会合同を餌にローマ教皇に阻止を働きかけると共に、王妃がマンフレーディの娘でシチリア王位を主張するアラゴン王ペドロ3世やビザンティンに利権を持つ海運都市ジェノヴァと組み、シチリアに対する工作を進めた。

シチリア島はこれまでは首都パレルモを擁する王国の中心地であったが、新王シャルルは旧勢力の強いシチリア島を避けナポリを首都とした。王の居住地には、王国全体から税が流れ込み消費が発生するため、これまで、半島からシチリアに流れていた富が、反対にシチリアから半島に流れることになったのである。シャルルは外交的下準備と軍備増強のために大量の資金を必要としており、シチリア島はその税負担に加えて富が還元されないという二重の貧困に苦しむことになった。

この時代、コムーネ/コミューン(地域共同体)による自治という考えは広まりだしており、特に北イタリアでは各都市が大幅な自治を獲得して事実上の国家として機能し始めており、シチリア島の地域有力者たちは、ローマ教皇宗主下で同様の体制を作ることを考え始めていた。

ミカエル8世の計画では、シャルルの艦隊がシチリア島を離れた後に、蜂起を起こす予定であったが、1282年3月30日の夕べの祈りに人々が集まった際、フランス人の或る兵が地元の女性にセクハラをしたことが原因となって暴動が発生した。近代でもイタリアの島嶼の住民は気性が荒いと言われ、侮辱を感じると言葉よりまず短剣がものを言うとされるが、その女性の夫も即座にそのフランス兵を刺し殺している。当然、仲間のフランス兵はこの男を取り押さえて殺している。

いかに気性が荒い島民といえども、通常であれば支配者側の兵に公然と楯突くことはないが、すでに反乱の下地ができていたため、その場に居合わせた民衆が兵の一団を取り囲み殺戮が始まった。この時に晩鐘(ベスパー)が鳴っていたため、この事件はシチリアの晩鐘と呼ばれている。反乱は一気に全島に広がり、その対象は兵だけでなく、全てのフランス人に向けられ、ciciriを発音させ、フランス風に発音した者を問答無用に殺したといわれる*5。

*5 この話には若干疑問がある。シャルルの兵の半ばはプロバンス人であり、当時のプロバンス語はオイル語系のフランス語とは別のオック語系で、その中でもイタリア語に近いのである。とにかく、シチリア人以外の余所者を皆殺しにしたということであろう。

当初、シャルルはこれを単なる民衆反乱として軽視したため対応が遅れ、結果として全島を失い、メッシーナで準備していた遠征艦隊は焼き払われ、シャルルの遠征計画は頓挫することになった。島民たちは当初、ローマ教皇に教皇領としての保護を求めたが、フランス出身でシャルルの支持者である教皇マルティヌス4世はこれを拒絶したため、島民はアラゴン王ペドロ3世を王に迎えた。

シャルルはその後もアラゴンと戦い、シチリア島の回復を計ったが成功せず、イタリア半島のみになった王国は後にナポリ王国と呼ばれるようになる。

この事件は最初の成功した民衆反乱と見られることがある。発端は確かに民衆暴動であるが、シチリア王国の旧支配者層である有力者たちが既に賛同しており、民衆が支配者層と戦って勝った訳ではなく、指向した体制も貴族・有力者による共和制である。また外国の支配への抵抗として評価されることもあるが、その結果、やはり外国人であるアラゴン王を引き入れていることを思えば、それが問題であったとも思えない*6。とにかく、生活が苦しくなったことが原因であり、有力者たちの賛同により比較的安心して反乱を起こせたということだろう。

*6 元々、ホーエンシュタウフェン朝もノルマン朝も外国人の王朝である。

さて、シャルルの計画が成功していたら、どうなっていただろう。たまたま出来てしまった第4回十字軍とラテン帝国とは異なり、地中海中部を支配するシチリア王国と連携してビザンティンを支配下に入れれば、地中海の大半を支配下に入れることになり、その上で、フランス、イングランド*7を巻き込んだ十字軍を編成できれば、アナトリアからシリア、エルサレムを征服することも可能だったかもしれない。アナトリアはトルコ化が進まず、将来のオスマン帝国も成立しなかったかもしれない。そうであれば、大航海を目指す必要もなかったかもしれない。

一方、この事件以降、南イタリアはアラゴン、スペインの属国、植民地といった位置付けになり、ヨーロッパの発展から取り残された感がある*8が、ローマ帝国の再現とも言える地中海帝国の中心地として栄えたかもしれない。

*7 この時代のイングランドはフランスの傘下だったと言える。
*8 現在でもイタリアの南北格差は大きいが、この事件以前は南部の方が発展していたと言っても良い。

全て、仮定の話に過ぎず、むしろ反対勢力が強力になり、どこかで頓挫した可能性の方が高いが、ヨーロッパ史が全然、違ったものになったかもしれないと妄想するのは楽しいものである。

彼の入念で壮大な計画が、背後にビザンティンやアラゴンがいるとはいえ、彼の眼中にも無かった取るに足らない民衆の反乱によって妨げられるとは想像もしなかったから盲点となったのだろう。

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