ジャックリーとワット・タイラー - 民衆反乱

ジャックリーとワット・タイラー - 民衆反乱(1)

フランスのジャックリーの乱とイングランドのワット・タイラーの乱は、どちらも百年戦争中に起きた民衆反乱として知られているが、その内容はかなり異なっている。

後者は日本ではワット・タイラーの乱で知られるが、現在の英国ではピーザント・リボルト(農民反乱)と呼ばれることが多い。ケントで蜂起した群集がロンドンに向かう途中で選んだ指導者がワット・タイラーであり、彼が計画したり始めた訳ではなく、またイングランドの半分に及ぶ地域で別々に多くの蜂起が発生しているため、乱全体をワット・タイラーの乱と呼ぶのはあまり実態を表していないからである。しかし、ピーザントは農奴・零細農民を意味するが、乱には自営農民や都市の職人・労働者、そして地域の指導者階層も加わっており、より広い意味で「イングランド民衆反乱」あるいは単に「大反乱」と呼ぶ方が適切に思える。

一方、前者のジャックリーの乱は、農民の蔑称がジャックリーだったという説と、指導者がジャックと言う名だったため乱の参加者がジャックリーと呼ばれ、後に農民一般を指すようになったという説もあり、どちらが先か明確ではないが、とにかく農奴*1を中心とした反乱・暴動だった。

*1 非自由身分の農民を指す用語で農業奴隷の略ではない。法的な権利が少なく労役を課せられることを強調して農奴と表現されるが普通の村人であり、裕福な者も貧しい者もいて実態は様々である。単に農民と書いた方が誤解が少ないかもしれない。

ジャックリーの乱は、日頃の苦しみや不満が些細な切っ掛けで暴発し、集団心理に動かされ、ひたすら暴力的、破壊的に荒れ狂った典型的な暴動型民衆反乱で、何らかのビジョンや展望はなく、最終的には体勢を立て直した貴族達に討伐される運命にあった。

これは当時のフランスの状況と社会体制に原因がある。

フランスでは貴族と農奴の差は大きく*2、農奴は抑圧される存在だったが、元々農業生産性が高く本質的に豊かな世界だったため生活できていたのだが、14世紀の危機の寒冷化による凶作と黒死病の流行に加えて、百年戦争中に荒れ狂ったイングランド軍による略奪騎行や略奪傭兵団*3により、経済的にも生命の安全上からも非常な被害を受けているのに、王や貴族は適切な保護を与えられないばかりか、戦費のための税負担は増えるばかり*4で我慢の限界に達しようとしていた。

*2 それに対してイングランドでは、自営農(ヨーマン)や平民身分の地主(ジェントリ)が比較的多く、その間を埋めている。
*3 ガスコーニュ、ブルターニュ、ナバラ、ブラバント、ドイツ等の傭兵も加わっている。
*4 フランスでは農奴制が厳しく残り、様々な労役や使用料、臨時徴収と言ったものを荘園領主が恣意的に課すことができ、百年戦争の状況の悪化で財政的に苦しくなった貴族達は一層、農奴から搾取しなければならなくなっていた。

これらの不満が「ポワティエの戦い」の敗戦により決定的に高まり、何か小さなキッカケがあれば発火する状態にあったと言える。これはフランス全体に当てはまることだが、比較的パリに近い地域で起こっているのは、1358年2月のエティエンヌ・マルセルらによるパリの市民蜂起の影響かもしれない。あるいは王太子シャルル(5世)と決定的に敵対し、貴族層の離反により孤立したパリが、意図的に農民反乱を呼びかけ工作していた可能性もある*5。

*5 当然、パリには周辺の村から来た人間も多く住んでおり、連絡を取るのは容易かっただろう。

5月にオイセ川沿いの小さな村で農民が領主の館を襲ったのを皮切りに、蜂起はノルマンディ、ピカルディ、シャンパーニュの各地に飛び火し、叛徒達は襲撃を続けながら移動し、やがて大きな集団を作り始めた。地方の小城や館では為す術もなく、150人以上の貴族の館が襲われ、当主のみならず家族、従者に至るまで、女性や子供も無差別に非常に残虐な方法*6で殺害された。

*6 中世は残虐な時代だったが、その基準から見ても酷かった。

やがて5000人以上の集団となりギョーム・カレ*7を首領に選び、6月にメロでシャルル悪王の貴族軍と対峙した。農民軍は略奪により得られた武具を除いて、斧、鎌、鋤と言った農具やナイフを武器にし、粗末な防具しか付けておらず、訓練も指揮系統もない烏合の衆だった。

*7 ジャック・ボノム(正直者)という仇名でも知られる。

それでも数的有利だったため、カレは交渉を持ちかけた悪王の意図を疑わず、相手陣営に出向いたが、捕まり残虐な方法で処刑された*8。指導者を失って混乱する農民軍は貴族軍に容易に蹴散らされ皆殺しとなり、貴族軍は蜂起が起きた村はもちろん、農民軍に好意的だった村や町を襲って略奪、殺戮を行った。

*8 ワット・タイラーも自分で交渉に出向いて殺害されている。代理人を立てれば良さそうだが、急拵えの集団のため信頼できる人間が居ないのだろう。

一方、モー(Meaux)の城塞には多くの避難した貴族達が立て篭もっており、パリ市民などからなる比較的、統制の取れた集団が攻撃していたが、ドイツ騎士団の北方十字軍から帰還したフォア伯とジャン・ド・グライーが城砦の貴族と呼応して挟撃し、民衆軍は総崩れとなって壊走した。

ジャックリーの乱は終結したが、貴族側の報復は、王太子が恩赦を出す8月まで続き、乱の起きた地域は破壊や報復を恐れた農民の逃亡などで荒廃し、生産力を回復するには数年を要した。貴族側にとっても、ジャックリーの乱は悪夢として残り、民衆の不穏な動きに対する警戒が強まることになった。

ジャックリーとワット・タイラー - 民衆反乱(2)

一方、1381年のイングランドは、相次ぐ敗戦に加えて戦費調達のために人頭税が課され、それが次第に重くなっていくことに不満は強まっていたが、時折、海岸部が襲撃される位で戦場になる訳でなく、ジャックリーの乱のフランスのような絶望的な状態ではなかった。

むしろ生活の向上を目指す都市の労働者や農民などの下層階級にとって、黒死病などで労働力不足となり賃金が上っていたのを政令によって一定価格に統制したことが強い不満を与えていた。

また、都市市民や自営農民などの中流層においては、幼年のリチャード2世を補佐するジョン・オブ・ゴーントとカンタベリ大司教サドバリーなどの側近や王の役人が無能で誤った政策を取って敗戦に導いた上、腐敗し私腹を肥やして豪勢な生活を送っているとの非難が高まっていた。

最初の蜂起は、5月30日にエセックスで徴税人に対して住民の代表がこれ以上の税は払えないと拒否したことに対して、逮捕しようとしたことから発生した。反乱の報は速やかに周辺に広がり、イングランド南東部の各地で蜂起が発生している。

彼等は只の暴徒ではなく、ロンドンに行軍して、腐敗した王の取り巻きを排除し*9、幼年の王を助けるという、強訴、政権改革、革命的思考を有していた。イングランドの農民は自営農民層(ヨーマン)が比較的多く、ロングボウ兵として従軍した者もいるため、単なる烏合の衆ではなかった。

*9 フランスでは中央集権化されていないため、農民の不満は荘園領主に向かうが、イングランドでは政策を司る王の側近・役人に向かうのである。

エセックスの集団の一部は直接ロンドンに向かい、一部はケントに寄り同志を募ろうとしたようだ。既にケントでも蜂起は発生しており、各地の牢獄が襲われ、過激な発言でしばしば逮捕されていた聖職者のジョン・ボール*10が解放されて加わり、ケントの集団はワット・タイラー*11を指導者に選んだ。

*10 ジョン・ウィクリフの教えに従うロラード派の聖職者で、「アダムが耕し、イブが紡いだ時に、ジェントリ(大地主)はいたか?」という説教で有名だが、この乱は必ずしもジェントリ一般を敵視するわけではなく、王の側近・役人が敵意の対象だった。
*11 首謀者として乱の名前になっているが、その正体ははっきりせず、サーネームからタイル職人と推測されている程度である。

ワット・タイラーらはカンタベリーに向かい、大司教サドバリーの宮殿を襲って、彼の廃位を宣言している。一行は、明確に王の役人とその関係者の家屋・財産のみを襲っており、牢獄なども襲撃しているが、要求に従う限り無用の乱暴・狼藉は行っていない。自分達も一般大衆の多くも反乱という感覚はなく、世直しと思っていたようで、カンタベリーもロンドンも抵抗せずに彼等を迎え入れている*12。途中で、リチャード2世の母ジョーン*13に出会っているが、特に乱暴はせず通している。

*12 むろん、その数を恐れてと言うのもあるが、城壁都市は本気で防衛するつもりなら、相手が多数でも相当の日数、防衛は可能である。
*13 エドワード黒太子の妻だったジョーン・オブ・ケント。ガータ勲章伝説のガータを落とした貴婦人と目されることもある。

この行進の途中で戦いが起こらなかったのは、彼等が貴族などを無差別に襲わず目的を明確にしたため、目標とされた人間は逃げ、それ以外の者は抵抗せずに通したからであり*14、さらに百年戦争のため多くの兵と指揮官がフランスにおり、加えて、イングランドの法では王の明確な命令がない限り、兵を集めて戦闘行為を行えないからだった*15。

*14 都市市民も好意的であり、下層が中心だが参加する者も多かった。
*15 従って、自分の屋敷や城が襲われない限り、王の命令が発せられるまで手出しはできなかった。貴族の私戦権が明確に残っていたフランスとは対称的である。

民衆がロンドンに向かってくるのを知り、6月10日にリチャード2世とカンタベリ大司教サドバリー(大法官)、財務長官ロバート・ヘイルズら王の役人、アランデル伯、ソールズベリ伯、ウォーリック伯等の側近たちはロンドン塔に立て篭もり、12日にケント、エッセクス、ノフォーク、サフォークの各地の民衆が大きな抵抗を受けずにロンドンに入ってきた。

この時にジョン・ボールの有名な演説が行われ、あくまで王のために君側の奸を除き、彼等の「正当な要求」を認めてもらうのが目的であると大義名分を掲げた。彼等は犯罪人になるつもりはなかったようである。

ロンドンでも牢獄、役所、聖ヨハネ騎士団のロンドン本部の修道院*16などが襲われ破壊され、さらに特に憎まれていたジョン・オブ・ゴーントの宮殿が焼き払われた。1万ポンド相当の財産が失われたが、反徒たちはこれを所有せず、破壊してテムズ川に沈め、自分達は泥棒ではなく正義を行使する者だと宣言している。

*16 その長が財務長官ヘイルズだったためと思われるが、外国の修道院だからと言うのもあるかもしれない。

ロンドンでは定住している毛織物関係のフランドルの商人・職人を虐殺しているが*17、彼等を敵視しているロンドンの同業者が主導したと思われる。

*17 一般的に王の特別の保護を受けている外国人への反発は強いが、特に島国イングランドでは外国人への敵意は強かった。

ジャックリーとワット・タイラー - 民衆反乱(3)

この状態にショックを受けて、6月14日に王が自ら会見して打開することになり、カンタベリ大司教や財務長官をロンドン塔に残して*18、テムズ川を下り、ロンドン東部のマイル・エンドで民衆の代表と会談した。

*18 この2人を残したのは、民衆の憎悪の対象だったため、その保護と会談の際の反発を避けるためだったと思われる。

民衆の要求は、堕落した役人の引渡し、農奴の解放、ウィンチェスター法の遵守などで、リチャード2世は農奴を解放する憲章を発布し、役人の引渡しは拒否したが、自分で取り調べて不正があれば処罰すると回答した。

一方、この間にワット・タイラー等の反徒の一団がロンドン塔に入り込み、残っていたカンタベリ大司教と財務長官やその他の役人達を捕らえて処刑し、その首を持って市内を練り歩いた。ロンドン塔には王母ジョーンと王姉ジョーン・ホラントも居たが、彼女らには危害を加えていない。

リチャード2世はロンドン塔には戻らず、ロンドン南西部の屋敷に移り、今後の対策を検討した。エセックス等の反徒は王の回答に満足して帰郷し始めたが、ワット・タイラーとケントの集団は残留し、翌日に再び会談を要求した。

翌6月15日にスミス・フィールドで有名な会見が行われた。王の兵は200人程度で反徒は数千人だったため、ワット・タイラーは数的優位に自信を持ってか強い態度でさらなる譲歩を要求した。

その態度が横柄だったため、リチャード2世の従者と口論になり、王は逮捕を命じた*19が、ワット・タイラーが抵抗したため、結局、側に居たロンドン市長ウォルワースがワット・タイラーを切り殺した。

*19 最初から逮捕するつもりだったのか、状況により逮捕を命じたのかは不明

これを見た反徒達は混乱するが、反徒の中の弓兵達は狙いを定めてきた。しかし、王が「要求は受け入れたため、速やかに帰郷するよう」命じると気勢をくじかれ、さらにウォルワースがロンドン民兵を召集したため、三々五々に解散していった。

これで終結したように看做されることが多いが、これはロンドンの反乱が終わっただけで、乱の中心だったイングランド南東部におけるジョン・ロウを首領とするサフォークの反乱を始めとして、ノフォーク、北部、東部の広い地域で個別に蜂起が起こっていた。ロンドンの状況もすぐには伝わらないため乱は続いたが、王の討伐命令が発せられたことにより、ノーリッチ司教ヘンリー・ディスペンサーやロバート・ノルズ*20などが鎮圧に乗り出し、6月25日のノースウォルシャムの戦いでノフォークの集団が鎮圧され、7月半ばで乱は終結しジョン・ボールなどの首謀者達も逮捕され処刑された。

*20 百年戦争の主要な指揮官の一人だったが、この頃は解任されてイングランドに戻っていた。

議会は賃金の規制を維持することを支持しており、(農奴解放などの)憲章の発布は脅迫の下に行われたとして7月2日に正式に取り消された。しかし、乱に参加した者で特別な罪を犯していない者については恩赦が命じられた。

王や貴族が報復や強圧的な態度を取らなかったのは、農民の不満の原因は解決していないため再発を恐れたからである。しかし、ジョン・オブ・ゴーントの影響力は低下し、フランスと休戦することで人頭税は廃止され税は低減された。農奴制も弱まって行き、年貢の交渉でも農民側の要求が通り易くなった。

2つの乱の相違は状況の違いもさることながら、イングランドとフランスの国の体制と気質の違いによるものが多い。

イングランドは中央集権的であり法による支配と秩序が根付いており、また領主と農奴の中間に位置する自営農民が比較的多いのに対して、フランスでは分権的で、貴族である荘園領主が恣意的に農奴を支配していた。また気質としてはイングランドは堅実で現実的なゲルマン気質なのに対して、フランスは感情的で激しいラテン気質であり*21、後のイギリス革命とフランス革命の相違にも表れているようである。

*21 まあ、あまりにざっくり言いすぎだが、その傾向があることは否定できないだろう。

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