「カノッサの屈辱」事件は日本では妙に有名である。中学校の歴史教科書にもしっかり載っており、出題され易い部分でもある。「カノッサの屈辱」という人気番組のタイトルに使用されたのも一般人に強い印象を残している証拠であろう。
カノッサの屈辱という言葉は中立的ではないとして、現在の欧米の歴史学や教育においては、あまり使われておらず、「カノッサへの道」(road to canossa、カノッサ事件までの経緯)の名称が使用されるが、「叙任権闘争」問題がメインであり、カノッサ事件はその中の1事件としてあまり大きくは扱われていない。
叙任権闘争というのは、単に司教・聖職者職の任命権を争ったものではなく、地上におけるキリスト教の頂点、神の代理人の座を争っているのである。宗教上の頂点は当然、ローマ教皇のように思えるが、神聖ローマ皇帝も聖別された存在とされていた。
ローマ帝国では皇帝がローマ教会を支配下に入れていたことは明らかであり、カール大帝もオットー大帝も同様に考えていたと思われる。実際、ハインリヒ4世以前の神聖ローマ皇帝は実質的にローマ教皇の任命・解任に大きな影響力を行使しており、帝国諸侯でもある司教職の任命権を握ることにより、諸侯の力の強い帝国内において、教会組織を通じて支配力を強化していた。
ところがローマ教会におけるクリュニー改革により、皇帝・領主による聖職者の任命はシモニア(聖職売買)に当たるとして任命権をローマ教皇が握ることを要求した。既に帝国内において、多くの所領が教会に寄付されており、司教・司祭職の任命は、その教会の建立に寄与した王侯・貴族の権利と見なされていたため、皇帝は当然それを拒否したが、問題は単に聖職者の任命権のみの話ではない。
既にローマ教会の影響力は司教領のみではなく、世俗領においても教会法は強い影響力を持っており、ローマ教皇が宗教上の頂点となることは、イスラム法により統治されるイスラム世界のカリフのように政教両面における最高権威の位置に就く可能性が生じるのである。
皇帝ハインリヒ4世は強くこれを拒否し、教皇グレゴリウス7世の解任を企てたが、政治感覚に優れた教皇はドイツ諸侯を上手く煽って対立王を擁立させ、ハインリヒ4世を破門した。本来、破門はあくまで宗教上の処置であり、世俗上の皇帝の地位に影響はないはずだが、皇帝・王はキリスト教において聖別された存在であり、主君と臣下の封建契約は神への誓いとして実現されているため、破門された君主の地位と契約は全て無効になるとした。ハインリヒ4世は当初、破門の影響を軽く見ていたが、諸侯の大半は上記の教皇の理論を支持し、帝国会議において、1年内に破門が解かれない限り、ハインリヒ4世の地位は無効で対立王を立てると宣言した。
大義名分を失った者が不利な立場に追い込まれると、現在、従がっている者たちも何時背くか定かではない非常に不安定な立場となるため、この時点においてハインリヒ4世は完敗したと言える。
この完敗から起死回生を目指して打った大博打が意表をついた教皇との直談判で、ハインリヒ4世はクリスマスの後、少数の従者と共に文字通り生命を賭けて冬のアルプスを越え、無事に北イタリアのパヴィアにたどり着いた。
この時点で皇帝は賭けに勝ったと言ってよい。北イタリアの皇帝派を従えて堂々と教皇との面会を求めて行進し、意表をつかれた教皇は、捕らえられることを恐れて、自分の支持者であるトスカナ伯マチルダの居城カノッサに逃げ込んだのである。
1枚の有名な絵がある。皇帝ハインリヒ4世がクリュニー修道院長とマチルダの前で跪いているのである。初めてこの絵を見た時、左の僧服がグレゴリウス7世でそちらに跪いているのかと思っていたが、これはマチルダに取りなしを頼んでいるのだ。
皇帝はマチルダとクリュニー修道院長に仲介を頼んでおり、この4者の間で筋書きは既に作られていたと想像できる。マチルダは熱心な教皇の支持者であるが、同時に神聖ローマ帝国の貴族で皇帝の親族でもある。皇帝と教皇の全面対決は彼女としても望まないところであり、教皇には既に選択肢は少なくなっている。
皇帝は軍勢を率いており、この地における教皇側の兵力はマチルダの城兵だけである以上、マチルダの仲介を受けない訳にはいかず、また、「悔い改めれば許される」というのがキリスト教の教義であり、皇帝が懺悔するのであれば、聖職者としてこれを受け入れない訳にはいかない。一方、皇帝としても有利な立場とは言え、教皇に対して力づくで事を為せば、悪評が大きくなり、せっかくの努力が無駄になるし、カノッサ城がそう簡単に落ちるとも思えない。
その結果、一般的な印象とは逆に、パフォーマンスとして行われたのが所謂「カノッサの屈辱」であろう。つまり、これだけ皇帝が罪を悔いて懺悔の意思を示したのだから教皇としてはこれを許さざるを得ないという形を作ったのである。
後の両者の書簡によると、皇帝が3日3晩カノッサ城の門の前に立ち、悔悟者として無帽、サンダルの修道士の身繕いで許しを願ったとのことであるが、敬虔なクリスチャン君主*にとって修道士の恰好は不名誉なものではない。また、門の前で立ち尽くしていた訳でもなく、一日何回か門の前に立って許しを請うたということであろう。冬のアルプスを越えてきた皇帝にとってそれくらいのパフォーマンスは何でもないはずである。
* 教皇と対立したからといって敬虔でないとは限らず、宗教的に強い信念を持っている人も教皇と対立しやすい。
破門を解かれた皇帝は一気に巻き返しを計り、ドイツでは対立王を打ち破り、ローマでは教皇を追い込み、最終的にはイタリア南部で勢力を築いていたロベール・ジスカールの元に亡命させている。
まさに、果敢な決断によって勝利したはずだが、その後、彼が教皇に跪いて許しを請うたという事実のみが一人歩きすることになり、後に教皇の優位性の宣伝や、あるいはドイツのプロテスタントによる批判の対象となり、ビスマルクはこれをドイツの屈辱と呼んで(このような屈辱を再び受けないよう)鉄血政策を推し進めることになる。
一方、起伏はありながらも、教皇権は十字軍などにより大いに強まっていった。イノケンティウス3世はまさにこの考えの後継者であり、自らを政教両面におけるヨーロッパの事実上の頂点と見做し、実際にそう振舞った。皇帝オットー4世を破門し廃位に追い込み、後見人だったフリードリヒ2世を皇帝とし、フランス王フィリップ2世を離婚問題で屈服させ、イングランド王ジョンを破門して全面的に屈服させ、異端弾圧の命令に従わない南フランス諸侯をアルビジョワ十字軍で破滅に追い込んだ。
しかし、それらの行為は世俗の君主たちの憤慨と警戒を呼び、彼の死後にその揺り返しが始まり、それはアナーニ事件に結集して教皇権は大きく失墜することになる。