ニコポリス十字軍

ニコポリス十字軍(1) - オスマン十字軍

十字軍は13世紀で終わったように見えるが、実はそれ以降も常に十字軍は呼びかけられていたのだが、個人単位でキプロス王やロードス島騎士団(聖ヨハネ騎士団、ホスピタル騎士団)に加わってエジプトのマムルーク朝と戦うか、ドイツ騎士団に加わってリトアニアと戦うことは有っても、大規模な遠征軍がヨーロッパから発せられることはなかった。

1396年のニコポリス十字軍は十字軍時代以降に欧州が行った最初で最後の大規模十字軍だった*1。この時期に十字軍を実行した理由には次の点が挙げられる。

・1389年に「コソボの戦い」でセルビアがオスマン帝国の臣従国となり、ハンガリー国境までオスマン勢力が伸びてきた。
・1390年からコンスタンティノープルの包囲が始まり、皇帝マヌエル2世が救援を求めていた。
・1389年からフランスはイングランドと休戦して余裕ができ、フィリップ豪胆公などフランスの騎士は戦いを欲していた。
・1395年にブルガリア君主の1人イヴァン・シシュマンのニコポリスが陥落して、ブルガリア、ワラキアに緊張が高まっていた。
・1395年5月に妻マリー*2が死去し、妻の権利でハンガリー王だったジギスムントは功績を欲していた。

*1 十字軍の本場のフランス騎士が多数参加し、多くの国から参加者があり、相手が異端ではなくイスラム教徒という点で。これ以降の対オスマン十字軍は関係する東欧の国が中心だった。
*2 ラヨッシュ大王の長女でハンガリー女王。ジギスムントはその夫として王位に就いていたが、ナポリ王ラジスローがハンガリー王位を主張していた(黄昏のナポリ王国 参照)。

こして1395年8月にハンガリー王ジギスムントの使者がフランス王シャルル6世の宮廷を訪れ、正式に援助を要請した*3。フィリップ豪胆公は当初は自分が参加するつもりだったが、オルレアン公ルイとの主導権争い(ブルゴーニュ公国 参照)でフランスを離れられず、嫡男のヌヴェール伯ジャン(無怖公)を代理として参加させた。王軍総司令官ウー伯フィリップ・ダルトワ*4も将軍ジャン・ブシコー*5も35歳以下と若いことを危惧して、老練のクシー卿*6を顧問として付けたが、ウー伯フィリップの競争心を煽り、指揮系統に混乱を招くことになる。

*3 その前にフィリップ豪胆公とジギスムントの間で下交渉されていた。
*4 百年戦争の原因の1つとなったロベール・ダルトワの孫で父の代で許されてウー伯を与えられた。オリビエ・ド・クリソンの後に王軍総司令官になったのは、ブルターニュ人が続いたためフランス貴族の就任が望まれたからで、王家の男系であることが大きい。
*5 遍歴の騎士として知られた歴戦の勇者で、戦士としての能力は高いが、軍団の指揮能力には疑問があり、アジャンクールでも敗戦している。日本で言えば可児才蔵や塙団右衛門と言ったところか。
*6 フランス貴族だが、エドワード3世の長女イザベラを妻とし、一時はベドフォード伯やソワッソン伯となり軍事・政治に活躍した。

フランス騎士の十字軍の意図は壮大*7であり、バルカンからトルコ人を追い払い、コンスタンティノープル包囲を終わらせ、アナトリアからシリアに入り、エルサレムを奪回するというものだった。

*7 誇大妄想とも言う・・・

1396年3月にブルゴーニュのデジョンに集結し、5月に出立し、ドナウ川沿いに、途中の貴族たちから宴会の饗応を受けながら、緩やかにバイエルン、ウィーンを経て、7月にハンガリーの首都ブダに到達した。

ブダでの戦略会議では、フランス勢にハンガリー王ジギスムント、ロードス騎士団総長*8、ベネチア艦隊司令官が加わった。ジギスムントら現地勢はオスマン軍が遠路襲来するのを待ち受けることを提案したが、フランス勢は進撃を強く主張し、支援を受ける立場のジギスムントは了承せざるを得なかった。

*8 ロードス騎士団はベネチア艦隊と共にマルマラ海、黒海を通ってドナウ川を上ってきた。

ニコポリス十字軍(2) - ニコポリスの戦い

最初の目標は、ブルガリアのもう1人の君主イヴァン・スラツィミルの首都ヴィディンだが、オスマン帝国に臣従したとは言え、オスマンのために戦う気はなく、戦わずに自主的に降伏し、少数のトルコ兵は捕らえられて処刑された。戦闘が無かったことにフランス騎士たちは不満を持ち、戦いを避けたオスマン兵*8を軽侮しはじめた。

*8 ブルガリア人もセルビア人もギリシア人もオスマン軍に居ればオスマン兵である。

戦いに逸っているフランス騎士はラホヴォ(オリャホヴォ)では、緒戦の敗北で町側が生命と財産の保証を条件にジギスムントに降伏したにも係わらず、陥落を主張して略奪と虐殺をした上で町に火を掛け、住民(トルコ人、ブルガリア人)を全て捕虜とした。

1396年9月に入るとニコポリスを包囲したが、十字軍には攻城兵器がなく*9、入出路とドナウ川を封鎖・包囲して兵糧攻めとしたが、2週間ばかりで斥候がバヤジット1世のオスマン軍が近づいていることを報告した。

*9 ブシコーは勇士にはハシゴがあれば十分だと能天気なことを言ったそうだが・・・

バヤジットが怖気づいて進撃してこないと思っていたフランス騎士の多くはこれを信じず*10、クシーが偵察部隊を率いて確認に行き、敵の先発部隊と遭遇したが、戦巧者のクシーは即座に偽装敗走の計を用いて敵部隊を壊滅させた。

*10 ブシコーは包囲側の士気を挫くための敵の計略と思い、この噂が広がることを禁じた・・・

この勝利は十字軍で大いに称賛されたが、フランス騎士は自信過剰になり、また王軍総司令官ウー伯の強い嫉妬と焦りを生み出すことになった。

ワラキアのミルチャ(老公)も加わり、再び軍議が開かれた。ジギスムントらは、先鋒に拘るフランス騎士に対して、「オスマン軍は徴集兵を先頭に立てるため、オスマン軍に慣れたワラキア兵を先鋒にし、精鋭のシパーヒー(騎兵)にフランス騎士が当たり、ハンガリー兵らがその脇を固める」ことを提案したが、ウー伯らフランス騎士は「騎士が農民歩兵の後を行くのは不名誉だ」として拒否し、ヌヴェール伯も賛同したためフランス勢が先頭となった。ここで決戦を前に、ラホヴォの捕虜を皆殺しにしている*11。

*11 騒乱を起こされることを恐れたのだろうが、そもそも、ここまで連れてこなければ良かった気がするが・・・

偵察部隊の報告を待つため2時間の待機をジギスムントから要請されたが、フランス勢の軍議では、進撃を主張するウー伯と若手騎士、少なくとも後続の本隊を待つべきとするクシーや年長騎士とで意見が分かれ、ウー伯が押し切って先鋒として出撃し、ヌヴェール伯とクシーが中盤を構成した。ロードス騎士団やドイツ勢、その他の部隊はジギスムントの本隊のハンガリー軍と共に後方に残っていた。

突撃したウー伯の先鋒はオスマン軍の徴集兵を蹴散らし、次陣の熟練した歩兵に突撃したが、弓兵の矢を大量に受け、馬防ぎの杭に阻まれ半数が馬を失い、下馬して杭を取り除き何とか歩兵を撃退した。ここで、クシーらは休息して後続を待つことを提案したが、血気に逸る若手騎士は聞かずに進撃し*12、丘をよじ登ったが、そこに待ち構えていたのは精鋭のシパーヒー部隊だった。

*12 西欧の常識では先鋒を打ち破れば勝利で、相手に立て直す間を与えず、突撃を続けて戦果を拡大すべきだった。

フランス騎士は「猪や狼のごとく」奮戦したが、フランス提督*13や名のある騎士が戦死し、ヌヴェール伯も危うくなると護衛の騎士たちは、ブルゴーニュ公の後継者の命を守るために降伏し*14、それを見たフランス騎士達も見習って降伏してしまった*15。

*13 ジャン・ド・ビエンヌ。提督職ではあるが、普通に騎士として部隊を率いていた。
*14 くれぐれも大事な跡継ぎを戦死させないよう、フィリップ豪胆公に命じられていたのだろう。
*15 騎士は武勇を誇る割には降伏を恥とは思わない。逃げずに最後まで戦った証拠と見るからで、名誉を持って扱われ身代金で解放される慣習のせいだろう。ポワティエでのジャン2世やナヘラでのゲクランも捕虜になったことを、むしろ称賛されている。

これを見て、敗戦を知ったワラキア、トランシルバニア兵は退却し、残されたジギスムントのハンガリー兵とロードス騎士団、ドイツ兵などは死闘したが、セルビア騎士隊の参戦*16により敗北は決定的になり、ジギスムントとロードス騎士団総長は漁船で命からがら脱出し、同様に逃げ延びた部隊もあったが、残りは降伏した。

*16 セルビアはオスマン帝国の臣従国となっていた(コソボの悲劇 参照)。現在のセルビア史観では、嫌々、従軍したように書かれるが、結構、オスマン軍に貢献している。もっとも、日和見をして、オスマンの勝利を確信してから、叱責を怖れて参戦したのかもしれない。

ニコポリス十字軍(3) - ニコポリスの虐殺

当初は、捕虜を生かして身代金を取るつもりだったバヤジットだが、ラホヴォの捕虜が虐殺されたことを知り、報復に捕虜の処刑を命じた*17。

*17 自軍の被害が予想より大きかったことやジギスムントを取り逃がした怒りもあったようだ。

ヌヴェール伯、ウー伯、クシーなどの高額の身代金が期待できる最高幹部は生かされたが、処刑を見守ることを要求された。また20歳以下の者は命を助けられたが奴隷とされた。何故かブシコーが一般捕虜の中にいたが*18、ヌヴェール伯が懇願して助けられた。

*18 外国での遍歴が長かったため、貴族を選別した人間が顔を知らなかったか、物腰が貴族らしくなかったためだろう。

数千人の捕虜が3~4人ずつ処刑されていったが、早朝から始まり夕方まで続いたため、疲れた(飽きた)バヤジットはキリスト教側を過度に怒らせるべきでないという助言もあってか、処刑の中止を命じた。生き残った捕虜は素足に下着姿で縄に繋がれ、ガリポリまで連れて行かれた*19。

*19 ジギスムントらがベネチア船でコンスタンティノープルに逃れるため近くを通った時に、彼等を海岸に並べて嘲笑ったそうだ。

合戦での討ち死、処刑に加えて、逃げた者も途中で行き倒れた者が多く、帰国できたのは少数だった。クシーとウー伯は捕囚中に病死し、ヌヴェール伯、ブシコーなどが20万フローリンの身代金で解放され、1398年2月にパリに帰還した。フロワサールは、ニコポリスの敗戦を778年のロンセスヴォーの戦い*20以来のキリスト教徒の大敗と述べている。

*20 「ローランの歌」で有名なシャルルマーニュとサラセンとの戦い

この敗戦によりブルガリア帝国は滅亡したが、コンスタンティノープルは持ちこたえ、1402年の「アンカラの戦い」でオスマン帝国がチムールに完敗したため、ビィザンティン帝国とバルカン諸国は一息つくことができた。

ニコポリス十字軍で如実に示されたのは、総大将のいない連合軍の弱さとフランス騎士道の実用性の欠如である。元々、フランスの騎士は格好つけで、自分達こそ騎士の本場、騎士道の権化と自惚れていたが、第1回十字軍の頃は宗教的狂信のせいもあり、まだ野蛮で実戦向けだった。

しかし、聖ルイ(9世)の頃から、教会を守り強敵から逃げず戦うと言った騎士道物語に影響され、形振り構わず勝利に拘るところが無くなった結果、聖ルイの2回の十字軍*21は大失敗に終わり、フィリップ3世のアラゴン十字軍も失敗、14世紀に入ると「金拍車の戦い」でフランドル市民軍に負ける始末だが、反省もないまま百年戦争に入り、クレシーとポワティエで続けて大敗している。さすがに反省して現実的な戦略が取られたが、シャルル戦争で活躍したのはベルトラン・デュ・ゲクランのような傭兵的な連中であり、貴族の御曹司ではなかった。

*21 第7回8回十字軍

しかし、1382年のローゼベーケの戦いでフランドル市民軍に勝利したことにより自信を取り戻してしまい、ニコポリスの戦いでは、ひたすら内輪での意地の張り合いと騎士の虚栄心に突き動かされ、再び大敗してしまった。ジギスムントは「十分な兵が居たのに、フランス騎士のプライドと虚栄心のせいで負けた」と悔やんでいる*22。

*22 もっともジギスムントも懲りない人で、十字軍の統制の無さは思い知っただろうに、後年のフス戦争では再び十字軍に頼って負け続けている。

この敗戦が、25歳のボンボンだったジャン無怖公*23(ヌヴェール伯)にどんな影響を与えたかは想像するしかないが、激情的で酷薄な性格となり、後にオルレアン公ルイを暗殺してブルゴーニュ派対アルマニャック派の争いを激化させ、最後は自分も暗殺に倒れることに繋がったのかもしれない。

*23 無怖の仇名はニコポリスの戦いの後に付いており、必ずしも良い意味とは思えない。

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