コーラ革命 in ローマ

言うまでもなくペプシコーラがコカコーラより革命的に美味くなったという話ではなく、14世紀のアヴィニョン教皇庁時代にローマでコーラ・ディ・リエンツォという一介の庶民がその理想と弁舌で市民の支持を得て市政を担ったことをこう呼んでいるのである*1。

*1 単に反乱(revolt)と書かれることもあるが、市民の支持を得て、あまり武力闘争を経ずに政権を握ったという点で革命(revolution)と記されることも多い。

以前にアヴィニョン教皇庁を調べていた時にコーラの名前は聞いており、サヴォナローラのような民衆扇動者なんだろうと思っていたが、狂信者やカリスマ的民衆指導者というより、ドンキホーテ的誇大妄想狂だったのが何だか可笑しく、日本語版Wikipediaに項目がないこともあり、簡単に紹介してみようと思う。

教皇庁がアヴィニョンに移ってからは、永遠の都ローマもすっかり寂れ荒廃が進んでおり、市政を牛耳る貴族達への市民の不満は募り、1343年に代表者をアヴィニョンに派遣して教皇にローマへの帰還と5年毎の聖年の実施を直訴することにし、見栄えが良く、古典を好む夢想的な雄弁家だった公証人コーラ*1が選ばれた。

*1 本名はニコラで、父はロレンツォだったため、ニコラ・ディ・ロレンツォだったが、愛称としてコーラ・ディ・リエンツォと呼ばれていた。

教皇クレンメンス6世は未だローマに帰る気はなかったが、ローマがコロンナ一族*2の手から離れて自分の支持者が統治することに異存はなく、この雄弁家に教皇庁の役職を与えてローマに帰還させた。

*2 オルシーニと並ぶローマの有力な一族であり、伝統的にギベリン(皇帝派)で枢機卿も輩出しており、強力な敵対者だった。

コーラは1344年にローマに帰ると教皇の権威を利用して支持者を集め、蜂起の準備を進めた。1347年5月に市民集会を開き、教皇代理人を連れて人々の前に甲冑で現れたコーラは弁舌を振るい、ローマの再興を訴えて圧倒的な支持を得て全権を委任された。貴族達は戦わず逃亡し、コーラは護民官を名乗ってローマの統治を始めた。

コーラは近年の無秩序とは正反対にローマに公正な秩序をもたらし、ペトラルカ*3はコーラへの手紙の中でその業績を賞賛し、カミルス(マルクス・フリウス・カミルス)、ブルトゥス(ルキウス・ユニウス・ブルトゥス)、ロムルス*4に例えている。

*3 ルネッサンスの先駆者と言われる詩人。イタリアへの愛国心の提唱でも知られる。
*4 いずれもローマ建国の功労者

しかし、ここから、彼の夢想的暴走が始まる。偉大なるローマの栄光の復活を目指し、7月にはローマが全イタリアの首都であることを宣言し、8月にイタリアの各地から代表者を集めて厳粛な式を開き、再びローマを世界の都にすべく、自ら独裁官として、当時、神聖ローマ皇帝位を争っていたヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世とルクセンブルク家のカール(4世)や選帝侯など関係者に自分の裁定を仰ぐように呼びかけた。

さらには護民官として戴冠もし、カール大帝を想起した華麗なものだったそうだが、称号には世界のインペラートルや尊厳たる(アウグスタス)護民官など皇帝を連想させるものを用いており、最終的には皇帝になるつもりだっとすら思われる。

彼の仰々しい儀式や誇大妄想的な行動は多額の費用を必要とし、それを増税で賄おうとした為に市民の支持を失い、また市民が有するローマ帝国*5を提唱して、その高慢な態度で教皇や皇帝の怒りを買っていた。追放されていた貴族達は軍勢を集めて侵攻し、10月にはクレメンス6世が教皇教書で彼を異端の犯罪者として非難したため、コーラは密かにローマを逃亡して山中のフランシスコ会の修道院に隠れ暮らした。

*5 共和制ローマや初期の帝政ローマのような本来のローマ帝国

全くの偶然であるが、1347年10月からヨーロッパでは黒死病(ペスト)の大流行が始まっており、彼は自分を追放したことによる神の怒りと感じたかもしれない。

1350年にプラハに現れ、教皇の世俗権を否定して皇帝によるイタリアの解放を説いてカール4世の保護を求めたが、カール4世はコーラを投獄し、1352年にアヴィニョンに引き渡した。ペトラルカの弁護もあり、8月にクレメンス6世が亡くなると、次のイノケンティウス6世はローマをコロンナら貴族達から取り戻すためにコーラを利用することを考え、彼を恩赦してローマに送り込んだ。

枢機卿と若干の傭兵を付けられ、元老院議員の称号を与えられたコーラは1354年にローマに入り、貴族間の争いによる無秩序に嫌気をさしていた民衆に非常に歓迎されて政権を握った。

しかし、この時点でコーラは既に少しおかしくなっていたらしい。太った飲んだくれとなっており、非常に感情的で、金持ちを捕らえて身代金を取り、気侭に処罰したり課税したため、わずか60日で人々は反乱し、衛兵にも見放されたコーラは人々を鎮めようと演説を始めたが、民衆はブーイングで彼の演説を妨害し火を着けた為、彼は変装して逃亡しようとしたが捕まって身体中を穴だらけにされて殺されたそうである。

ちなみに、この後の1355年にカール4世がローマに来て枢機卿の手で戴冠したが、クレメンス6世との約束に従い何もせずに帰り、ペトラルカを大いに失望させている。

コーラをただの自己肥大した詐欺師と呼ぶわけには行かない。彼の言動はペトラルカが賞賛するようにルネッサンスに目覚め始めた進歩的イタリア人の願いでもあったのである。しかし、あまりにも一足飛びに理想を求めており現実離れしていたことは否めない。

しかし熱狂して支持したかと思えば、熱が冷めると掌を返してリンチで殺すというのは如何にもイタリア人気質で、後のサヴォナローラも同じ運命を辿っている*6。

*6 考えてみれば、ムッソリーニも同じ結末を辿ったと言えるかもしれない。

ダンテは神曲の中で、「痛い苦しいと寝返りをうち、それをベッドのせいにする我儘な病人」のように政体を替えてきたとフィレンツェの政治を批判しているが、これはイタリア全体に当てはまるようである。

フィレンツェお前もだ。・・・正義正義と騒ぎ立て、裁き、追い出し、うまく行かねば新たな法。我儘な病人と同じだ。痛い苦しいと寝返りをうち、それをベッドのせいにする。治すべきはお前の体だ by ダンテ in 神曲


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