ホーエンシュタウフェンの落日

ホーエンシュタウフェンの落日(1) - フリードリヒ2世

フリードリヒ2世を考える時はホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝というより、ノルマン家のシチリア王と見た方が分かり易いが、むしろ、多神教時代の万能人型ローマ皇帝だと考えると理解し易い。

フリードリヒ2世を表す言葉には「世界の驚異」、「玉座の近代人」、「反キリスト」というのがある。合理主義、実証主義者であり、宗教には寛容というか無関心であり、シチリア王国において欧州中世最初の成文法典「リベル・アウグスタリス」に基づいた統治をしたが、このような特徴は近代人*1と共通であり、中世に存在したことは驚異であり、宗教的な無関心と他宗教への寛容はローマ教皇から見れば反キリストだった。

*1 しかし、中世においては、未来(近代)がどうなるか分からないため、ルネッサンスや近代人の先駆けというより、彼等の意識ではローマ人だろう。

彼は学者型の近眼の小男であり、早熟の天才で、6か国(ラテン、シチリア、フランス、ドイツ、アラビア、ギリシア)語を操り、医学、法学、天文学、鷹狩り、詩文など、あらゆる面に造詣が深かった。

死刑囚を使って医学的な実験を行い、人間の自然の言語は何かを調べるために赤子に言葉をかけずに育てたり*2、法典では神明裁判や決闘裁判を廃して*3、尋問と証人による裁判を推奨している。彼の宮廷には学者や文化人が集まり一大サロンを形成しており、イタリア文学はこの地から発祥したとも言われる。鷹狩りについての研究書を著作しているが、これは近代の論文としても通用するという。

*2 人体実験であるが、囚人には苦痛は与えておらず、赤子は全て死んだと言われるが、それは予想できなかっただろう。
*3 合理的なフリードリヒ2世は、神明裁判は馬鹿げた方法だと思っており、決闘裁判は強い者が勝つに決まっていると述べたそうである。

近臣にイスラム教徒やユダヤ教徒をおき、後宮(ハーレム)に多くの女性を抱え、アイユーブ朝のサルタンとも親しく書簡を交わした。これらをローマ教皇はビザンティン皇帝のような異端的態度と非難したが、フリードリヒ2世の念頭にあったのは、キリスト教が国教となる前のローマ皇帝だったろう。

彼のこのような特質は、2歳で父ハインリッヒ6世を亡くし、母コンスタンツェがドイツにおける相続権を放棄してフリードリヒを連れてシチリアに逃れたことが大きいだろう。これにより、ドイツのホーエンシュタウフェン家の当主は叔父のフィリップになり、後見人となった教皇イノケンティウス3世は神聖ローマ帝国との分離を望んで、彼にシチリア王のみとなることを求めた。フリードリヒ2世はイタリアで生まれて、物心が付く頃にはシチリアで育っており、ドイツに対する思い入れは少なかったようだ。

ノルマン人が作ったシチリア王国は、最初から他民族文化、宗教的無関心&寛容、ビザンティン・東地中海への関心を特徴としており、フリードリヒ2世はまさにその後継者だったといえる。北イタリアを支配下に収めようとしたのは祖父フリードリヒ1世を受け継いでいるともいえるが、これもシチリアを含めたイタリア王国、ローマ帝国の復活を主眼としていたようで、フリードリヒ2世にとってはドイツは蛮人の住むゲルマニアであり、帝国諸侯が反乱を起こさない限り干渉せず、その自治に任せる方針だったようだ。

ホーエンシュタウフェンの落日(2) - 破門

彼の人生は十字軍、北イタリア支配のための戦い、教皇との争いで占められている。

誕生してすぐに父を亡くし、ヴェルフとホーエンシュタウフェンの争いに巻き込まれたが、シチリアに避難することで、ライバル(フィリップ、オットー4世)が勝手に自滅した形となり、1212年にドイツ王に選出されてドイツに入り、1215年に唯一のドイツ王になったまでは順調だった。

しかしローマ教皇としては、教皇領が神聖ローマ帝国とシチリア王国に挟まれる形になるため、同君連合となることを認めておらず、彼の関心をイタリアから引き離すためにも十字軍への参加を強要した。当時、十字軍運動は最高潮に達していたが、第4回十字軍がビザンティンを攻略するなど、エルサレム奪回は果たしておらず、ヨーロッパ最大の君主であるフリードリヒ2世に期待がかかってもいた。

一方、フリードリヒ2世にすれば、元々、十字軍の宗教的意義には興味がなく、ドイツ統治を開始したばかりで十字軍遠征などに行く余裕はなく、教皇の手前、十字軍への誓いはしたものの出立の引き延ばしを繰り返していた。

1217年から始まった第5回十字軍にはフリードリヒ2世の参加が期待されていたが、バイエルン公ルートビッヒを送っただけで、自身は出発せず、彼の到着を期待して和睦案も蹴っていたダミエッタの十字軍は、1221年にカイロに進撃して大敗を喫し、フリードリヒ2世はその責任を非難されることになった。

1216年から教皇になったホノリウス3世は、かってフリードリヒ2世の教育係であり、強硬な態度は取らず根強く説得を続けていた。フリードリヒ2世は、宗教的には十字軍に興味はないのだが、シチリア王としてレバントと地中海の覇権には利害があり、また神聖ローマ皇帝と並んで聖地エルサレムの王の称号はローマ教皇に対抗する聖的な権威として意味が在った。

このため1225年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの娘ヨランドと結婚して準備を進め、1227年までに出立することを約束した。実際に出発したのだが、ブリンジッシュで軍に疫病が流行り、皇帝自身も罹患したため引き返したが、これまでの引き延ばしのせいで、仮病と見る者も多かった。折り悪くホノリウス3世は同年に亡くなっており、強硬派の新教皇グレゴリウス9世は十字軍の誓約違反として直ちにフリードリヒ2世を破門してしまった。

これに対して翌年、フリードリヒ2世が破門されたまま十字軍に出発したことが、教皇の怒りを決定的にしてしまった。十字軍から引き返して破門されたのだから、十字軍に参加すれば取り消されると考えたのか*4、意図的に当てつけたものかは分からないが、教皇にとっては大変なことだった。

というのは十字軍は、エルサレムの回復やカトリック圏の拡大と同時に、教皇の権威を高め、世俗諸侯に動員命令を下す*5機会を与えているのだが、破門された者が十字軍に行くのであれば、十字軍は教皇の意図とは関係なしに行うことができることになり、十字軍への号令権を取り戻す、皇帝による十字軍の乗っ取りとも言えた*6。

*4 実際、教会から叱責を受けたり破門された者が赦しを得るために十字軍に出かけることは良くあった。フリードリヒ2世の場合は教会への謝罪を行っていないため当てつけと思われたのだろう。
*5 既に異端に対するアルビジョワ十字軍は始まっており、この後、フリードリヒ2世、マンフレート、アラゴン王など単に教皇に反抗する王侯に対しても十字軍が呼びかけられるようになっている。
*6 実際、この後には教皇の呼びかけによる大規模十字軍はなくなっている。第7、8の2回の十字軍は教皇の呼びかけではなく、ルイ9世の自主的なものであった。

ホーエンシュタウフェンの落日(3) - 第6回十字軍

第6回十字軍は最初から八百長とも言えた。エジプトのアイユーブ朝のサルタン、アル・カーミルからすると大規模十字軍を招くエルサレムは返還したいのが本音で、第5回十字軍時にもダミエッタを攻略された時点でエルサレム返還による和睦を提案していたのだが、フリードリヒ2世の到着を期待していた十字軍はそれを拒否している。

当初はシリアの兄弟との争いがあり、十字軍との無血でのエルサレムの返還と和睦を考えていたが、ちょうど、その兄弟が亡くなり状況が変わっていた。熱心なイスラム教徒であれば、第3とは言え、イスラムの聖地でもあるエルサレムをキリスト教徒に渡すことは反対であり、アイユーブ朝もジハードを名目に勢力を拡大していたため安易に妥協することは不味かった。このため、当初の予想より交渉は長引いたが、フリードリヒ2世とアル・カーミルの話し合いは友人のような睦まじさだったという。

概ね当初の予定通りで、エルサレムと海岸部一帯のエルサレム王国への返還、岩のドームなどはイスラム教徒の管理下に残すこと、エルサレムの城壁を再建しないことを条件に10年の休戦が結ばれた。この成果は現実主義者や教皇の世俗への干渉を苦々しく思っている人々からは支持されたが、半ば以上の人々は聖地回復を喜びながらも十字軍としては違和感を感じており、教皇派は皇帝の行動を欺瞞・詐欺として全否定した。彼等からすれば、これまでの十字軍の努力を嘲笑っているかのように感じただろう*7。

*7 何かイソップの「太陽と北風」の寓話を想起させる。

聖地エルサレムでもエルサレム総司教を始めとする聖職者と現地諸侯の多くは反対の立場であり、皇帝派と教皇派の争いが聖地にもたらされる結果となった。戴冠式にも反対派は顔を出さず、聖地騎士団ではドイツ騎士団総長*8のみが出席する中で、フリードリヒ2世は自らの手で戴冠した。

*8 ドイツ騎士団にはドイツ東方征服の権利を与えて懐柔しており、総長のヘルマン・フォン・ザルツァは助言者の1人でもあった。

現地諸侯は教皇派という訳ではなかったが、中世の王権で述べたように、この時代の貴族は強力な王を好まなかった。ギー・ド・ルジニャンやジャン・ド・ブリエンヌのような、これまでのエルサレム王はいずれも中程度の貴族で、聖地に基盤を持っておらず、傭兵隊長のようなものだったが、フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝、シチリア王で当時の最大の君主であった。

フリードリヒ2世がエルサレム滞在中に、教皇グレゴリウス9世が前エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌを使って南部イタリアを攻撃させたため、皇帝は急遽帰国*9してこれを破り、1230年に教皇と和睦して破門も解かれた。

*9 エルサレム王国における皇帝の代官と現地諸侯の争いは1230年代の半ばに代官が退去するまで続いた。休戦期間終了後の1239年に、エルサレムは一旦、アイユーブ朝の支配下に入り、シャンパーニュ伯ティボーとコーンウォール伯リチャードの十字軍により再び交渉で取り戻したが、1244年にホラズムの残党に奪われている。

ホーエンシュタウフェンの落日(4) - ハインリッヒ王

フリードリヒ2世はドイツに対しては諸侯の自由にやらせて反乱を防ぎ、教皇とはできるだけ融和することを目指していたようであるが*10、ドイツ王となっていた長男のハインリッヒは、その方針に不満だったようで、王権の強化を図って諸侯と対立し、かえって1231年にウォルムスで諸侯の権利を拡大する「諸侯の利益のための協定」を呑まされていた。フリードリヒ2世は無用な対立をした上、諸侯に大きな譲歩をさせられたハインリッヒを叱責している。

*10 聡明なフリードリヒ2世は教皇と対立しても益がないことを理解しており、彼にとって重要でないことは譲歩してたようである。

一旦、謝ったハインリッヒだが、1234年に再び諸侯と対立し、父を怒らせているが、どうもそれだけではないようである。教皇グレゴリウス9世は異端審問に熱心で、ドイツにはコンラート・フォン・マールブルクを任命しているが、コンラートは非常に狂信的で異端審問を乱用し、恐れられ反発を受けていた。ついに有力な貴族ハインリヒ・フォン・ザインを告発したが、フォン・ザインはハインリッヒの下での裁きを求めて無罪となり、その後、コンラートはフォン・ザインの部下と思われる騎士達に暗殺されている。

これにより、1234年7月にハインリッヒは破門されており、教皇との和睦を図っていたフリードリヒ2世は、これに激怒して廃嫡しようとしたため、ハインリッヒはロンバルディア都市同盟などと組んで反乱したが、ドイツ諸侯の支持を得られず、1235年に父に屈服し、その後、1242年に死去する*11まで幽閉生活を送っている。ドイツ王位は弟のコンラート(4世)に渡された。ちなみに、この際にヴェルフ家にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を与えて最終的に和解している。

*11 自殺とも言われる。

フリードリヒ2世のハインリッヒへの態度は厳しすぎるように思える*12。ハインリッヒは父に反乱したというより、ドイツ王としてドイツを統治しようとして諸侯との対立を招いているのであり、悪評の高かった異端審問官コンラートを抑えたことは、むしろ評価されるべきことである*13。

フリードリヒ2世の基本方針に反したせいもあるが、この時点では、フリードリヒ2世は東地中海の覇権を諦めておらず、そのためにはエルサレム王の権利を持つコンラート4世が後継者の方が都合が良かったからかもしれない*14。

*12 プランタジネット家は言うに及ばず、中世において息子が父に反乱した例は数限りなくあるが、廃嫡されることはごく稀である。
*13 フリードリヒ2世は、当然、異端審問などは好まなかっただろうが、教皇のやることを諌める義務もなく、これにより教皇への悪感情が強まることは構わないというマキャベリ的冷酷さはあっただろう。
*14 後知恵ではあるが、ホーエンシュタウフェン家の末路を考えると大きな誤りだったと言える。

これ程までして、教皇との融和を図り、ローマで反乱を起こされ追放されたグレゴリウス9世を援助したが、フリードリヒ2世がロンバルディア同盟に対して勝利を収めると、フリードリヒの南北イタリアの中に教皇領が封じ込められることを恐れて、1239年に教皇は再びフリードリヒ2世を破門した。教皇は教会議を呼びかけ皇帝を異端として糾弾しようとしたが、フリードリヒ2世は皇帝派のピサと協力してローマに向かう聖職者を足止めした。さらにローマに進撃したが、1241年にグレゴリウス9世が亡くなったため、自分の行為はグレゴリウス9世との個人的な争いであり、ローマ教会に敵対するものではないとして引き上げた。

ホーエンシュタウフェンの落日(5) - 時代の終焉

次の教皇ケレスティヌス4世はわずか15日で亡くなったため、その次の教皇の選出は紛糾し、1243年にようやくイノケンティウス4世が選出された。彼は枢機卿時代はフリードリヒ2世と親しく*15、関係改善が期待されたが、イノケンティウス4世はグレゴリウス9世の方針を踏襲した。

*15 皇帝に対する強硬派と融和派の対立の中で妥協点として選ばれたのだろう。

皇帝は北イタリア、教皇領における反教皇勢力を煽動したため、身の危険を感じたイノケンティウス4世は1244年にリヨンに逃れ、1245年に公会議を召集した。参加者は主にフランスとスペインの司教で、ドイツ、イタリアなどの司教はフリードリヒ2世を恐れて参加しなかった(できなかった)が、かえって教皇の主張が通り易く、フリードリヒ2世の破門と廃位が決定され、その臣下は封臣関係を解かれることが宣言された。

これを受けて、ドイツにおいてコンラート4世の摂政だったテューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが対立ドイツ王に選ばれ、ニッダの戦いでコンラート4世を破ったが、1247年に亡くなり、ホラント伯ウィレムが次の対立王に選ばれた。

フリードリヒ2世はドイツにコンラート4世、北イタリアに庶子のエンツオ、シチリアに庶子のマンフレートを置いて体制を固めた。

1248年に教皇派に転じたパルマ攻めの失敗により、形勢は教皇派に傾き、ロマーニャ、マルケ、スポレートが失われ、反乱や陰謀が相次ぎ、1249年にはエンツオが捕虜となった。しかし、その後の戦況は一進一退であり、北イタリアの状況は好転しており、ドイツではコンラート4世がホラント伯ウィレムを破っている。

しかし、フリードリヒ2世は病に倒れており、1250年12月に亡くなった。

フリードリヒ2世の死は痛手であった。ドイツのコンラート4世はまだ22歳であり、シチリアのマンフレートとは切り離されていた。ドイツ情勢が不穏になったため、1253年に状況の打開を図ってナポリに入ったが、翌1254年に破門された直後に死去した*16。唯一の嫡子コンラディンは2歳であり、母*17と共にバイエルンにいた。ドイツ王は空位*18となり、ドイツにおけるホーエンシュタウフェン家の支配は失われてしまった。

*16 コンラート4世の早死が決定的だった。ハインリッヒ王を廃嫡していなければと悔やまれる。
*17 1246年にバイエルン公オットーの娘エリザベトと結婚している。
*18 ホラント伯ウィレムがいたが、彼をドイツ王と認める者は少なく、所謂、大空位時代となる。

マンフレートはコンラディンのシチリアにおける摂政となり、教皇との抗争の中で破門されながらも、1257年までにはシチリアの支配を確立していたが、翌年にコンラディン死亡の誤報を受けてシチリア王に戴冠した。誤報を知った後も退位はせず、フリードリヒ2世の衣鉢を継ぐシチリア王として北イタリアに再び勢力を伸ばして教皇領を脅かし、1262年には娘コンスタンツェをアラゴン王ペドロ3世と結婚させている。

マンフレートを恐れた教皇ウルバヌス4世*19は、フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューにシチリア王位を与えた。ルイ9世は正統な後継者に対する教皇の干渉を好ましく思っておらず、以前のイノケンティウス4世からの誘いは断っていたが、今回はマンフレートが庶子であるにも係わらず、正統な後継者コンラディンに代わってシチリア王になっていたため、弟の行動を了承した*20。

*19 イノケンティウス4世は1254年に亡くなっている。
*20 従って、コンラート4世が長生きするか、ハインリッヒが生きていれば、シャルル・ダンジューの侵攻は無かったかもしれない。

シャルル・ダンジューはフランス、プロヴァンスの兵を率いてイタリアに侵攻し、1266年のベネベントの戦いでマンフレートを敗死させ、シチリアを征服してシチリア王カルロ1世となった。

1262年にシュヴァーベンを継承していたコンラディンは、ベネベントの戦いの後、まだ15歳だったが、1267年にイタリアの皇帝派の誘いによりシチリア王位を奪回するためにイタリアに入った。これを受けて南北イタリアにおいて皇帝派の蜂起が起こり、カスティラ王子エンリケ、ファドリケ*21などの援助もあり、1268年には歓迎されてローマに入った。

*21 カスティラ王フェルナンド3世とホーエンシュタウフェン家フィリップ王の娘ベアトリスとの間の子供

しかし同年8月のタリアコッツォの戦いで、シチリア王カルロ1世に敗れた後に捕らえられ、盟友バーデン辺境伯フリードリヒと共に反逆罪で処刑された*22。彼も曾祖父であるハインリッヒ6世と同じく宮廷詩人(ミンネザンガー)であり、マネッセ写本ではドイツ王として皇帝ハインリッヒ6世の次に、鷹狩りする姿で掲載されている。

*22 彼は正統なシチリア王国の継承者であり、当時の慣習では捕虜となった者が処刑されることは稀なのであるが、教皇によって破門・継承権剥奪されていたため、継承権者を根絶やしにしたいカルロ1世が大義名分として利用したようである。

これによりホーエンシュタウフェン家は滅亡した。

ドイツは大空位時代であり、エルサレム王位はキプロス王家のルジニャン家に行き、シュヴァーベンは伯母のチューリンゲン方伯の系統が主張したが、実効支配できず無主状態になり、その中でハプスブルク家が台頭し、帝国直属領となったウリなど3州が後にスイス原初同盟を結成することになる。シチリアは「シチリアの晩鐘」事件の後にマンフレートの娘婿であるアラゴン王ペドロ3世がシチリア王となり、イタリア半島南部はアンジュー家のナポリ王国として分離することになる。

神聖ローマ皇帝とローマ教皇が真っ向から対立する時代は終わり、欧州におけるフランス王家の影響力が顕著となっていく。

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