ヴラド・ドラキュラ(串刺し公)

ヴラド・ドラキュラまたはヴラド・ツェペシュと呼ばれ、そのイメージは、吸血鬼ドラキュラのモデルか、あるいはオスマン帝国と戦い、敵を串刺しにするなど残虐なところもあったルーマニアの英雄といったところだろうか。

まず、この時代においては、名前はヴラドだけで、これに個人毎に仇名、領地などをベースにしたサーネームが付く。父ヴラド2世がハンガリーのドラゴン騎士団*1の一員に叙せられドラクル*2と呼ばれたため、その子供という意味でドラキュラを当時、当人自身が名乗っていたそうだ。ツェペシュは串刺しという意味で、彼の行為から付けられた仇名である。

*1 当時のルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントがガーター騎士団などを真似て作ったもの。
*2 ドラコ(draco)というのはドラゴン(dragon)の元となった怪物で、同一ではないのだが、ラテン語ではどちらもドラコと呼んでいる。ドラゴンは悪魔の化身と見られることも多いため悪魔公と解釈されたこともある。

現代のルーマニアは中世のワラキア、モルダビア、トランシルヴァニアの3つの公国を含んでいるが、ヴラドそのワラキアの君主である。称号はスラブ系に多いヴォイヴォダで、これは大きな国では地方総督や軍指揮官の称号だったりするが、ワラキア、モルダビア級の国では、大きな国の宗主下にあることが多いとはいえ君主である。これは英語ではプリンスとされることが多く、従って日本語では公または侯と訳される。

ヴラドの家はワラキアの君主の家系なのだが、彼の祖父の代にその兄弟との相続争いがあり、それ以来、2つの家系が君主の座を争って定常的に不安定だった。さらに南からはオスマントルコの勢力が拡大し、西からはハンガリーの勢力の影響が増しており、まさに内憂外患の状態だった。

ヴラドは1431年頃に生まれている。従って、以前に紹介したジル・ド・レと同時代に生きていた訳だ。ちなみにオルレアンの乙女が火刑になった年でもある。生まれ変わり?と言ったら大抗議を受けるであろう。

その中で彼の父は、1436年に兄の死により公の地位に就いたが、1442年にライバルのダネシュティ家に取って代わられた。そこで、ヴラドとその弟ラドウの兄弟をオスマントルコに人質として預け、オスマントルコの支援を受けて公の地位に返り咲いた。

従って、ヴラドは少年期をオスマントルコで過ごし、その教育を受けている。ただし、その影響は兄弟で正反対だったようで、ヴラドはトルコ・イスラム教に反発*3を持ったのに対し、弟のラドウはそれを受け入れ、後にイスラム教に改宗している。

*3 おそらくトルコや弟と戦っていた時のヴラドの説明で、必ずしも信用できない。明らかに反抗的であれば、トルコは最初からヴラドでなくラドウを公に就けただろう。

ハンガリー、ポーランド等の連合軍がオスマントルコと戦った1444年のバルナの戦いには、ヴラド2世の長子ミルチャが参加したが惨敗で、ヴラド2世とミルチャは指揮したハンガリー摂政ヤーノシュ・フニャディを非難したが、これを根に持ったのか、フニャディは、1447年にワラキアの貴族たちを煽動し、ヴラド2世とミルチャを殺害させ、ダネシュティ家を君主に戻した。

これに対して、ワラキアがハンガリーの支配下に入ることを恐れたオスマントルコは、ワラキアに侵攻してヴラドを君主の座につけた。しかし、まもなくフニャディのハンガリー軍が侵攻して、ヴラドは追放される。一旦、モルドヴァに亡命したものの、やがてハンガリーに行ってフニャディと和解した。1453年にオスマントルコがコンスタンティノープルを陥落させたため、ハンガリーの危機感が強まったからであろう。1456年にワラキアに戻り、ダネシュティ家の対立君主を倒して、本格的に君主として治世を始める。

この時期に対オスマン戦争を行うと共に、反対派貴族の大粛清を行い、トルコ兵や貴族を大量に串刺しの刑にしたことで、その名が知られるようになった。1459年にメフメト2世が貢納金(ジズヤ=人頭税)を求めてくるとこれを拒否し、本格的なトルコの侵攻を招いたが、ヴラドは奇襲や夜襲で良くこれに抵抗したため、メフメト2世はラドウをワラキアのベイ(トルコにおける将軍・君侯)に任命してヴラドに対抗させた。

ヴラドの善戦はローマ教皇やベネチア、ジェノヴァには高く評価されたが、ハンガリーの新王マチアス・コルウス(フニャディの子)からは警戒されていた。相次ぐ戦いで疲弊したヴラドは、1462年にハンガリーへ行きマチアスに援助を頼んだが、マチアスはヴラドをトルコへの内通の容疑で逮捕し、以降、12年間幽閉する。証拠であるトルコへの手紙はマチアスの偽造だとも言われるが、大国に挟まれた小君主として両天秤をかけた可能性は充分にある*4。

*4 オスマントルコと戦うのが善で、それに協力するのは悪とするのは、十字軍を掲げるカトリックや近代的なナショナリズム的観点であり、正教徒の1君主としては自分や臣下の安全や利益になる方と組むのが当然で、ハンガリーとトルコのどちらがよりマシかの問題である。

ラドウが死んだ翌年の1476年にハンガリーの支援を受けて再度、ワラキアに返り咲くが、わずか2ヶ月で反対派の貴族たちに暗殺される(あるいは敗死)。

既に彼の生きているころから、彼の串刺しは有名で、文章や挿絵が作られたらしい。1463年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の宮廷で、狂人ワラキアのドラキュラという詩が詠まれたそうだ。ただ、これらの悪評は主にドイツに出回っており、マチアス・コルウスが意図的に宣伝したものとの見方もある*5。

*5 彼が王の血統ではないのに王に就けたのは、父と共に、対トルコ戦を評価されてのことで、その点ではヴラドとライバルとも言える。

この辺の血まみれ的評判を元に、後にアイルランド人作家のブラム・ストーカが、ハンガリーの流血女伯爵エリザベート・バートリーと合わせ、アイルランドとスラブの吸血鬼伝説に結びつけて、吸血鬼ドラキュラを作り出したのだろう。

ドラキュラ作品の経典と言える「吸血鬼ドラキュラ」では、セーケイ人*5のトランシルバニアの伯爵とされており、名前のドラキュラ以外の類似点はないが、弟に裏切られたと述べる部分があり、この点がヴラドと一致している*6。イスラム教徒のオスマントルコと戦って、ローマ教皇から称賛されたヴラドが神に敵対する存在である吸血鬼とされたことは皮肉な話である。

*5 現代ではハンガリー人に同化している。
*6 歴史上、弟と抗争した王侯貴族は星の数ほどいるが。

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