フランス王妃は決して再婚しない

フィリップ6世妃だったブランシュ・デヴルーが王の死後にカスティラのペドロ残酷王との縁談が起きた際に述べた言葉だそうで、聞いた瞬間、「そうだっけ?」と疑問が湧いた。

まず、すぐに思い出すのが、フランス王ルイ7世妃でアンジュー帝国ヘンリー2世妃になったアリエノール・ダキテーヌだが、中世の欧州において離婚は全て「婚姻の無効」で最初から結婚していないことになるため再婚とは見なされない。従って、夫と死別した場合のみ再婚となるのである。

ちょっと興味を持って以前調べたことがあるのだが、カペー朝初期のアンリ1世妃だったキエフ公女アンヌが1062年に再婚している。しかし、相手のバロワ伯の離婚が教会に認めらず、教皇アレキサンデル2世から破門されているため正式に結婚したと認識されていないのかもしれない。

ちなみにアンヌの子がフィリップ1世で、ギリシアの名前であるフィリップが西欧に入った始めとされる。また、アンヌが実家のキエフ公にあてた手紙ではフランス人の野蛮さ、不潔さ、貧しさ、教養の無さを嘆いており、当時のフランスがビザンティン帝国の影響が強かったキエフよりもかなり遅れていたことが分かる*1。

*1 「タタールのくびき」後のロシアは西欧から見ると随分、アジア的で後進的と見られていた。

中国とは違い*2、西欧では王妃といえども、若くして夫を亡くした女性が再婚するのは普通だった。その中でフランス王妃に再婚が少ないのは、それだけフランス王の格式が高いと見なされていたからだろう。まあ、そう思っているのはフランス人だけで、外国人なら気にしなかったかもしれない。中世のフランス王妃は同じフランス文化圏*3の女性が多いのが特徴であり、明確な外国人は少ない。ブランシュ・デヴルーはナバラ王女とはいえ、父フィリップ・デヴルーはフランス王族エヴルー伯であり、母はルイ10世の娘のジャンヌ(ネールの塔 参照)で、百年戦争のナバラ王シャルル悪王の姉と男系、女系ともフランス王家の一員であるため、彼女自身、それを誇りにしていたのだろう*4。

*2 中国では未亡人と呼ぶように、基本的に落飾して菩提を弔うべきとされた。日本にこの風習が入ったのは江戸時代で、戦国時代までは女性の再婚は普通だった。
*3 フランス王国内、フランス語圏、フランス系の王侯などを含む。中世においてフランス王家は結婚政策によって王国内の諸侯領を併合していく方針だったため国内諸侯との婚姻が多かった。15世紀末の統一後は外国人王妃が増えている。
*4 単に結婚したくなかっただけかもしれない。通常、寡婦になった後の結婚は自分の意思で決めることができるのであるが、結婚後2年弱で20歳とまだ若かったため、最初の婚約者だったペドロ残酷王との政略結婚が再浮上していた。ちなみにペドロはまだ王になったばかりで残酷とも呼ばれていなかったため、人物を嫌った訳ではないだろう。

明確に再婚した最初のフランス王妃は、それから百数十年後のブルターニュ女公アンヌで、ブルターニュ併合を目指したシャルル8世と強制的に結婚させられたが、シャルル8世の死後に、さらに次の王ルイ12世と再婚する破目になっている。ルイ12世が妻のジャンヌと離婚してまでアンヌと結婚したのはブルターニュを何としても王領に併合したかったからであるが*5、ジャンヌとの離婚は裁判となり、時のローマ教皇アレキサンデル6世との政治取引により決定されている。これによりフランス王の支援を受けて教皇の庶子チェーザレ・ボルジアの台頭が始まる。

*5 フランス公益同盟 参照。ジャンヌに身体障害があり、たぶん不妊症だったことも原因であるが。

これで禁忌が解けたのかルイ12世の三人目の妃だったメアリー・チューダー*6も再婚している。ちなみに、フランス王妃時代にメアリーの侍女だったのが、後にヘンリー8世妃となり、エリザベス1世の母となるアン・ブーリンである。

*6 イングランド王ヘンリー8世の妹

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