一口に中世の食事といっても中世は1000年近くあり、食べ物は時代、地方、階級によって異なるため、全てを説明しようとすると総花的になり、まとまりのないものになってしまう。
そこで、基本的なことを中心に簡単に述べてみよう。
現代では欧米の主食は牛肉や羊肉で、パンは添え物のようなものであるが、そうなったのは近世以降に肉の生産量が増えてからで、中世では穀物が主食だった。
穀物はグリュエル(薄い粥)、ポリッジ(オートミールのような粗い粥)、パンにし、特に中世初期の貧しい階級では、グリュエル、ポリッジが中心だった。グリュエルは後の時代には水で薄めた中身の少ない粥として貧乏人の食べ物とされることが多いが、中世では単に作り方の違いであり、穀物を細かい粉にして水で溶いて加熱したものがグリュエルで、粗い粒(時には潰して)で水で煮たのがポリッジである。これらが特に貧しい階級に好まれたのは、作るのに手間が掛からないことと、自宅で作れたからである*1。
*1 中世ではパンのための粉挽きとパン窯は領主の物を使用することになっており、独占的に供給しているため競争原理が働かず、貧しい農民にとってはその使用料は馬鹿にならなかったが、グリュエルの場合はそこまで細かく挽く必要がないため、自宅の石臼などで挽けるのである。
穀物はその地方で採れる、ライ麦、大麦、燕麦、ソバ等あらゆるものが使用されたが、小麦は比較的高価で富裕な人間に限られた。
パンも貧しい農民は自分で挽いた粗い全粒粉を暖炉の置き火で焼いて、前述の使用料を節約したが、堅いパサパサしたものとなり、またパン釜を使う場合でも、日持ちさせるために固めのパンが作られたため、食べる時はスープに浸して食べるか、飲み物と共に食べるのが通常であった。
裕福な家では、小麦粉を使ったパンも作られたが、食事用のパンは粉、イースト、食塩、水のみで作られ、油脂、乳、あるいは砂糖などを加えたものはペイストリーとして、デザート、お菓子の部類に含まれる。
肉は豚と鶏が中心で、あらゆるところで飼われ、都市部でも残飯や排泄物を餌にしばしば放し飼いにされていた。牛は飼料から肉への変換率が低いため、労役、乳用が中心であり、羊は羊毛の生産地で飼育され、食べるのはその副産物としてで、それらの産地以外ではあまり食べられなかった。
現代の欧米では地中海沿岸部を除いて、あまり水産物は食べないが、中世では四旬節(レント)の期間中、食肉が禁止されたため、その間のタンパク源として魚介類が食べられた。欧州でカエル*2やカタツムリを食べるのもその名残りであろう。
*2 一方、日本ではカエルは四つ足であるため、あまり食べなかったのであろう。
庶民の普段の食事は単純で、塩漬けの肉をキャベツ、カブ、玉ねぎ、豆類などの野菜と煮て、それをグリュエル、ポリッジにしたり、スープとしてパンを浮かせたり、パンをスープに浸けながら食べるのが基本だった。もう少し贅沢にする場合は、厚めの塩漬けの肉を比較的少量の水と野菜で煮込み、味を整えてシチュー*3にするのである。
*3 シチューというのは、肉を柔らかく煮込んだもののことで、汁の部分を指すのではない。
もちろん貴族や金持ちは、日頃からより豪華なものを食べているが、庶民でも祝祭などの晴れの日には、家畜を屠って新鮮な肉の炙り焼き(グリル)を楽しんだ。狩猟は貴族の特権であり、獲られた鳥獣(ジビエ、ゲーム)は珍重され、特に鹿肉が好まれた。
飲み物はよほど貧しくなければ、北部ではビール(中世では常温で飲まれ、まだホップは使われていない)、南部ではワインが食事時や水代わりに飲まれた。他にリンゴで作ったシードル、蜂蜜から作るミードなども飲まれている。
中世初期では貴族、金持ちでも、肉の炙り焼きを中心とした、比較的単純な料理が多かったが、十字軍時代にビザンティン、オリエント、イスラムの料理や材料が流入し、イタリアを中心としてスパイスなどを利用した凝った料理が作られるようなっていった。
中世の食事は王侯貴族でも手づかみが基本で、野蛮*4と見なされることがあるが、パンと骨付き肉が中心であるため手づかみが合理的であり、必要に応じて各自が携帯しているナイフを使って切り取るため、スープを飲むスプーン以外は必要が無かったのである。フォークが使われるようになったのは、中世終期頃から宮廷での食事のマナーが煩くなってからで、別にその頃に発明された訳ではない*5。
*4 骨や食い残しをポンポン放り投げたりするが、これも足元に飼い犬がうろついているため、その餌となるのである。
*5 フォーク状のものは農機具(元々フォークは鋤のことである)や武器(トライデント)として古くから使用されている。
所謂、西洋料理はルネサンス期のイタリアでオリエントの食材や料理法を導入して発達し、絶対王政期にフランスやオーストリアで成熟したもので、中世の料理とは随分違ったものである。