源平合戦

一般の人にとって歴史は歴史小説や学校の歴史教科書で知るものである。歴史小説は歴史に興味をもたせるのに役立つが、当然、作者の創作や怪しげな出典(要するに昔の小説家にあたる物語語りや軍学者が書いたもの)からくる逸話を用いており、学術的な歴史、あるい定説、史実(この言葉自体かなり怪しいのであるが)からはかなり離れている。

また教科書は単純、明快に書かれるため、間違ってはいないが、随分、違った理解を与えることがある。歴史は実証できないため全てが仮説であり、最も有力で認められた仮説を定説と呼んでいるだけで、本来はこう言う説もあり、こういう見方もあると教えなければならないのであるが、試験に出題する必要上、そのような曖昧な教え方はしづらく、1192年に鎌倉幕府成立と言った単純明快な教え方になってしまう。1192年に頼朝が征夷大将軍になったというだけで、幕府の機構自体はそれ以前から構築されており、それ以降も変化しているため、何年といえるものではない。

源平合戦/源平の戦いというのも平家物語などで有名であり、教科書にもそのように書かれているが、源氏と平氏が争った時代などはないのである。

源氏、平氏という氏族はなく、どちらも天皇氏の支流であり、清和源氏、宇多源氏、嵯峨源氏、桓武平氏などと指定して初めて共通の先祖を持つ氏族となる。また、清和源氏といっても清和天皇から300年経っており、氏の長者といった朝廷における代表者はいても、氏族全体に号令をかけるようなリーダー/頭領がいた訳ではない。

いわゆる源平の戦いは、2人の有力な武士である源義朝と平清盛のうち、平治の乱で源義朝が没落し、平清盛とその一門が政権を握ったのに対して、反平家運動の中で、義朝の子である頼朝が頭角を現し、平家一門を破って政権を奪い、鎌倉幕府を開いた一連の流れであるが、あくまで源義朝一門と平清盛一門の争いなのだ。

源平の戦いは通常、保元の乱から語られるが、これは純然たる天皇家、摂関家の内部争いであり、平治の乱も権力を握った藤原信西に対する反対勢力のクーデターで、その結果、有力な武士で唯一の勝ち組となった平清盛が政権を握っただけである。反平家運動も後白河院の側近達がまずクーデターを計画(鹿ケ谷の陰謀)し、次いで、平家政権により天皇位から遠ざけられ、親王位すら与えられなかった以仁王が平家追討の令旨を発したもので、しばしば「全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵・武装蜂起をうながした(Wikipedia)」と書かれるが、これは全国の有力武士、寺社に対して出されたもので、別に源氏に当てたわけではない。源義朝の一族以外の源氏の武士達は、別に雌伏していた訳ではなく普通に暮らしており、平家政権に不満の者もいれば、それに協力して利を得ていたものもいる。源頼政は平家についた唯一の源氏などと書かれるが、平家についた源氏の武士などは沢山いて、その中で最も上位であったにすぎない。

令旨に対して立ち上がった武士には源氏が多いが、元々、武士では源氏が最も多いのである。木曽義仲は木曽で逼塞していたが、その原因は父の源義賢が源義朝に討たれたためであり、平家は関係がない。従って彼が挙兵した後、むしろ源頼朝と戦火を交えようとしたのは当然なのである。一方、頼朝は舅である平氏の北条時政の後ろ盾で挙兵し、坂東八平氏などを従えて、富士川の戦いで平家軍を破った後、戦った相手は常陸源氏の佐竹氏、叔父の源義広、従兄弟の木曽義仲で、さらに平家討伐以前に甲斐源氏の一条忠頼などを誅殺している。この後、ようやく源義経、範頼が一ノ谷で平家軍と戦っている。

これのどこが源平の戦いなのだろうか?源頼朝は自らを頂点とする武家政権を作るために対立する者を打ち破るか従えるかしただけで、源平などは関係なかったのだ。

しかし、平家物語などの影響は強く、鎌倉幕府も源氏の棟梁たる源頼朝が平氏の棟梁を討って政権を握ったと見せようとしたため、後世にその印象が残り、また平氏の執権北条氏、源氏の足利氏がその後、政権を握ったこともあり、戦国時代頃には所謂、源平交代説が唱えられるようになり、一層、源平の戦いというイメージが固定したのである。

最新

ページのトップへ戻る