ルネッサンス期のミラノ公国と言うと、まずスフォルツァ家が浮かび、ヴィスコンティと言うと映画監督を思い浮かべるが、ミラノ公だったヴィスコンティ家は中々の威勢であり、14世紀末のジャン・ガレアッツォの時に、ほとんど北イタリアを統一してロンバルディア王国を復活させる勢いだった。1402年に彼が急死しなければイタリアの歴史は変わっていたかもしれない*1。
*1 もっとも、海の大国ベネチア、汎ヨーロッパ的権威の教皇国が残っており、神聖ローマ皇帝も干渉しただろうから、そこから先も長かったと思われる。
ヴィスコンティ家はミラノで古くから続く有力な家系で、他のイタリア地域と同様に、ミラノもゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)に別れていたが、ヴィスコンティ家はギベリンの領袖、ライバルのデラ・トーレ家はゲルフの領袖だった。
デラ・トーレ家に代わってミラノ僭主*2となったのは13世紀の終わりだったが、デラ・トーレ家との権力闘争は14世紀の初頭まで続き、さらにギベリンとしてアヴィニョンのローマ教皇と対立し、しばしば破門・追放を受けたため、ミラノ領主としての地位を確立するのはミラノ大司教だったジョバンニ・ビスコンティ(1290–1354)の時代だった。
*2 形式上は共和国、あるいは神聖ローマ帝国の自治都市であるが、その政権を実質的に世襲で握っている家系の当主。
ジョバンニは聖職者のため子供はおらず、甥のマッテーオ2世(c.1319年 - 1355年)、ガレアッツォ2世(1321年 - 1378年)、ベルナボ1世(1323年 - 1385年)が分割相続して共同統治したが、長兄のマッテーオ2世は急死し*3、所領は弟2人が分割した。
*3 弟達による毒殺と見られている。
この時期、ヴィスコンティ家は積極的な政略結婚政策を推進しており、ガレアッツォ2世は、1360年に長男ジャン・ガレアッツォをフランス王ジャン2世の末娘イザベルと*4、1368年に娘のビオランテをイングランド王エドワード3世の次男ライオネルと結婚させている*5。また、ベルナボ1世の娘タッデアはヴィッテルスバッハ家のバイエルン公シュテファン3世と結婚しており、その娘が1385年にシャルル6世と結婚してフランス王妃となったイザボー・ド・バビエールである。
*4 僭主に過ぎないヴィスコンティ家が王家と婚姻を持てたのは、両王家が百年戦争で戦費に窮し、その財産が目当てだったからだが、ミラノの繁栄ぶりが想像できる。但し、家名が示すように、かって副伯だった古い貴族の家柄であり、同じ僭主でも商人出身のメディチ家などとは家格は違う。
*5 ライオネルとビオランテの結婚式は盛大で、チョーサー、ペトラルカ、フロワサール、ホークウッドなどが出席している。しかし、ライオネルはその後、間も無く死去している。
1378年にガレアッツォ2世が亡くなると嫡男ジャン・ガレアッツォが跡を継ぎ、1380年にベルナボ1世の娘カテリーナと結婚していたが、ヴィスコンティ家領の統一を図ったか、あるいはベルナボ1世の外孫イザボー・ド・バビエールがフランス王妃に決まり、その影響力が強まることを恐れてか、1385年に突如、叔父で義父であるベルナボ1世を捕らえて(後に毒殺)、ミラノの単独統治者となった。
1389年に娘ヴァレンチーナを王弟オルレアン公ルイと結婚させたが*6、フランス宮廷でシャルル6世とヴァレンチーナの不倫が噂され、ヴァレンチーナがパリから追放されると*7、ジャン・ガレアッツォはフランスとの戦争を考えたと言われる。
*6 オルレアン公からフランス王になったルイ12世が、イタリア戦争時に主張したミラノ公国の継承権は祖母のヴァレンチーナから来ている。
*7 王妃イザボーは、ヴァレンチーナが祖父ベルナボ1世を廃位・暗殺したジャン・ガレアッツォの娘であるため、嫌がらせをしたと言われる。同時にオルレアン公ルイとイザボーの不倫も噂されていた。ブルゴーニュ公国 参照
1385年に単独のミラノ領主になって以降、ベローナ、ビツエンツァなどに領土を拡大し、1395年に皇帝ヴェンツェルから10万フローリンでミラノ公位を得て、名実ともにミラノ公となった。さらにピサ、シエナ、ペルージャなどを傘下に収め、1402年にボローニャ、フィレンツェ連合軍を「カザレッキオの戦い」で破り、ボローニャを併合し、フィレンツェも後一歩と迫ったところで熱病により急死した*8。その遺領は嫡子、庶子、傭兵隊長、旧領主で争われ、ジャン・ガレアッツォの築きかけていた帝国は一瞬の内に崩壊した。(ミラノの最大版図 図参照)
*8 特に証拠はないが、このタイミングだと毒殺の疑いがつきまとう。カンタレラではないが、ルネサンスの権力者の急死には毒殺の噂は付き物である。
ミラノ公国 - ヴィスコンティ家
ミラノ公国 - ヴィスコンティ家(1)
ミラノ公国 - ヴィスコンティ家(2)
嫡男のジャン・マリアは13歳で母カテリーナの摂政を受けたが、傭兵隊長の有力者であるファチーノ・カーネが主導権争いで優位に立ち、ジャン・マリアを唆して1404年にカテリーナを幽閉(同年死去、たぶん毒殺)させ*9、ミラノで権勢を振るった。
*9 カテリーナは父ベルナボ1世の死去について、夫のジャン・ガレアッツォを恨んでいた可能性がある。
ジャン・マリアは残虐で知られており*10、色々な逸話が残っているようだ。1412年にファチーノ・カーネが重病で死にかけると、ジャン・マリアを恐れる者、憎む者が集結してジャン・マリアを殺害した。ファチーノ・カーネは、次弟のフィリッポ・マリアをミラノ公国の継承者と定めると共に、遺産を妻のベアトリーチェに残して死去した。
*10 両親が従兄妹であり、流産が続いた後、聖母マリアに祈って、ジャン・マリアとフィリッポ・マリアが生まれたため2人の名にはマリアが付いているのだが、兄は精神的障害、弟は肉体的障害を持っていたようだ。どちらも容姿は醜男であり、ルネサンス期においては、これもコンプレックスの原因となっていたと思われる。
当時20歳のフィリッポ・マリアは40歳のベアトリーチェと結婚することで、ファチーノ・カーネの残した金(40万デュカート)、領地、傭兵を入手し、その力を得て他の弱小領主を征服・屈服させ、ミラノ公国の多くを回復したが、1418年に用済みになった妻を姦通の容疑で処刑している。
カルマニョーラ、ピッチニーノ、フランチェスコ・スフォルツァと言った当代随一の傭兵隊長を集めて、父ジャン・ガレアッツォの頃の版図の復活を狙ったが、その拡大策を恐れたフィレンツェがテラ・フォルマ(本土)の拡大を計っていたベネチアと同盟したため、教皇*11、サヴォア公、ジェノヴァ、皇帝ジギスムントなどを巻き込み、争いはロンバルディア戦争(1423–54)に拡大した。著明な傭兵隊長はしばしば旗幟を変え*12、一進一退の状況が続いたが、ベネチアは堅実に勢力を拡大し、中小国の政治的影響力は低下して、イタリアはミラノ、ベネチア、フィレンツェ、教皇領、ナポリの五大国体制となる。
*11 西方教会大分裂が終了し、統一された教皇は教皇領の支配の強化と拡大を目指していた。
*12 傭兵隊長にとって、いずれかの勢力が圧倒的に強くなれば、「狡兎死して走狗煮らる」と言う警句もあるように、仕事がなくなり自分達が圧迫される可能性がある。彼等自身が小領主のため、パワーバランスを取ろうとする意図も働くようである。後のチェーザレ・ボルジアに対する「マジョーネの陰謀」も、チェーザレへの不信だけでなく、そのような心理が働いたと思われる。
状況打開のためにサヴォア公アマデウス(後の対立教皇フェリックス5世)と同盟し、その娘マリアと結婚したが、夫婦仲は悪く子供もできず、1447年に嫡子の無いまま死去した。
庶子ビアンカ・マリアと結婚していたフランチェスコ・スフォルツァ、オルレアン公シャルル、アラゴン王アルフォンソ5世、サヴォア公、皇帝フリードリヒ3世*13などがミラノ公国の継承を狙っていたが、ミラノの一部の有力者、市民達はこの機会に共和制の復活を目指して蜂起し「黄金のアンブロジアーナ共和国」を創設した。
*13 皇帝はミラノ公国の宗主であり、正統な後継者が無い場合、封土は宗主に帰すと主張していた。またハプスブルク家としてはベルナボ1世の曾孫でもある。
しかし共和国に反対の有力者や都市はミラノから離反したりベネチアを頼ったため、アンブロジアーナ共和国は警戒しながらもフランチェスコ・スフォルツァを使ってベネチアと戦い領土の再統合を図ったが、やがてスフォルツァが強力に成り過ぎるのを抑えようとしたため*14、スフォルツァはベネチアと結んで共和国を攻撃しミラノに迫った。
しかし、スフォルツァがミラノ公になることを恐れて、ベネチアがアンブロジアーナ共和国と和睦しようとしたため、干渉してきたベネチア軍を破り、ミラノ市民に自分を君主として認めるよう要求した。長期の戦争で疲弊したミラノはこれを受け入れ、1450年3月にミラノ公国が復活し、以降、1499年にルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)がルイ12世に追い出されるまでスフォルツァ家による統治が続いた。
*14 おそらく、スフォルツァが総司令官を引き受けたのは、ミラノ防衛の立役者となって僭主となりミラノ公に就任することを狙っていただろうから、共和国政権の疑いは不当なものではないだろう。
その後はイタリア戦争の中で、イル・モーロの子供マッシミリアーノがスイスの後押しで、次いでフランチェスコ2世がハプスブルク家の援助で公位に就いたが、1535年に嫡子なく死去し、ミラノは最終的にスペイン王の領土となる。
*9 カテリーナは父ベルナボ1世の死去について、夫のジャン・ガレアッツォを恨んでいた可能性がある。
ジャン・マリアは残虐で知られており*10、色々な逸話が残っているようだ。1412年にファチーノ・カーネが重病で死にかけると、ジャン・マリアを恐れる者、憎む者が集結してジャン・マリアを殺害した。ファチーノ・カーネは、次弟のフィリッポ・マリアをミラノ公国の継承者と定めると共に、遺産を妻のベアトリーチェに残して死去した。
*10 両親が従兄妹であり、流産が続いた後、聖母マリアに祈って、ジャン・マリアとフィリッポ・マリアが生まれたため2人の名にはマリアが付いているのだが、兄は精神的障害、弟は肉体的障害を持っていたようだ。どちらも容姿は醜男であり、ルネサンス期においては、これもコンプレックスの原因となっていたと思われる。
当時20歳のフィリッポ・マリアは40歳のベアトリーチェと結婚することで、ファチーノ・カーネの残した金(40万デュカート)、領地、傭兵を入手し、その力を得て他の弱小領主を征服・屈服させ、ミラノ公国の多くを回復したが、1418年に用済みになった妻を姦通の容疑で処刑している。
カルマニョーラ、ピッチニーノ、フランチェスコ・スフォルツァと言った当代随一の傭兵隊長を集めて、父ジャン・ガレアッツォの頃の版図の復活を狙ったが、その拡大策を恐れたフィレンツェがテラ・フォルマ(本土)の拡大を計っていたベネチアと同盟したため、教皇*11、サヴォア公、ジェノヴァ、皇帝ジギスムントなどを巻き込み、争いはロンバルディア戦争(1423–54)に拡大した。著明な傭兵隊長はしばしば旗幟を変え*12、一進一退の状況が続いたが、ベネチアは堅実に勢力を拡大し、中小国の政治的影響力は低下して、イタリアはミラノ、ベネチア、フィレンツェ、教皇領、ナポリの五大国体制となる。
*11 西方教会大分裂が終了し、統一された教皇は教皇領の支配の強化と拡大を目指していた。
*12 傭兵隊長にとって、いずれかの勢力が圧倒的に強くなれば、「狡兎死して走狗煮らる」と言う警句もあるように、仕事がなくなり自分達が圧迫される可能性がある。彼等自身が小領主のため、パワーバランスを取ろうとする意図も働くようである。後のチェーザレ・ボルジアに対する「マジョーネの陰謀」も、チェーザレへの不信だけでなく、そのような心理が働いたと思われる。
状況打開のためにサヴォア公アマデウス(後の対立教皇フェリックス5世)と同盟し、その娘マリアと結婚したが、夫婦仲は悪く子供もできず、1447年に嫡子の無いまま死去した。
庶子ビアンカ・マリアと結婚していたフランチェスコ・スフォルツァ、オルレアン公シャルル、アラゴン王アルフォンソ5世、サヴォア公、皇帝フリードリヒ3世*13などがミラノ公国の継承を狙っていたが、ミラノの一部の有力者、市民達はこの機会に共和制の復活を目指して蜂起し「黄金のアンブロジアーナ共和国」を創設した。
*13 皇帝はミラノ公国の宗主であり、正統な後継者が無い場合、封土は宗主に帰すと主張していた。またハプスブルク家としてはベルナボ1世の曾孫でもある。
しかし共和国に反対の有力者や都市はミラノから離反したりベネチアを頼ったため、アンブロジアーナ共和国は警戒しながらもフランチェスコ・スフォルツァを使ってベネチアと戦い領土の再統合を図ったが、やがてスフォルツァが強力に成り過ぎるのを抑えようとしたため*14、スフォルツァはベネチアと結んで共和国を攻撃しミラノに迫った。
しかし、スフォルツァがミラノ公になることを恐れて、ベネチアがアンブロジアーナ共和国と和睦しようとしたため、干渉してきたベネチア軍を破り、ミラノ市民に自分を君主として認めるよう要求した。長期の戦争で疲弊したミラノはこれを受け入れ、1450年3月にミラノ公国が復活し、以降、1499年にルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)がルイ12世に追い出されるまでスフォルツァ家による統治が続いた。
*14 おそらく、スフォルツァが総司令官を引き受けたのは、ミラノ防衛の立役者となって僭主となりミラノ公に就任することを狙っていただろうから、共和国政権の疑いは不当なものではないだろう。
その後はイタリア戦争の中で、イル・モーロの子供マッシミリアーノがスイスの後押しで、次いでフランチェスコ2世がハプスブルク家の援助で公位に就いたが、1535年に嫡子なく死去し、ミラノは最終的にスペイン王の領土となる。