リチャード獅子心王 - 暴れん坊国王

アンジュー帝国二代目のリチャード1世獅子心王は時代劇の人物のようである。

ロビン・フッド物語で、謎の黒騎士として現れ、王弟ジョンと代官の圧政に対してロビン・フッドらが抵抗し、あわや処刑される寸前に現れ、ジョン「何奴、アンジュー帝国に逆らう不届き者。皆の者、切り捨てい〜」と叫んだ所で、従者が「この方をどなたと心得る、ドイツに囚われていた十字軍の英雄、リチャード獅子心王様であるぞ、頭が高い、控え〜」一同「ははぁ〜」

これでは暴れん坊将軍というより水戸黄門だが、とにかく劇的な人物である。

オックスフォード生まれだが、英語は話さず*1、父ヘンリー2世、若ヘンリー、ジョフロワ、ジョンの兄弟達と気狂いのように家族喧嘩を行い*2、ヘンリー2世と諸侯の面前でフランス王フィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)を行ってショックを与え、ヘンリー2世を死に追いやった*3。

*1 南フランスのオック語とオイル語(フランス語)を話した。
*2 国王の家族喧嘩は戦争となる。最初はヘンリー2世対若ヘンリー、リチャード、ジョフロワ、次に若ヘンリー、ジョフロワ対リチャード、次いでリチャード対ジョン、ジョフロワ、最後にヘンリー2世対リチャード、ジョンと一族全員が喧嘩早い性格のようであるが、リチャードは特に政治的判断や妥協をせず、常に武力で決着をつけようとする傾向が顕著である。
*3 ヘンリー2世の死体にリチャードが近づくと死体から鼻血が吹き出したとの伝説がある。中世の神明裁判では、死体に殺害者が近づくと血が吹き出して判明するとされていた。

ヘンリー2世の葬儀と自らの戴冠の後、第3回十字軍のための資金集めに奔走し、数週間後には十字軍に旅だった。まるで十字軍に行くために国王になったようなものだった*4。

*4 実際、この時の反抗の直接的動機は、サラディンによるエルサレム陥落を受けてリチャードが十字軍参加への誓いを立てたにも係わらず、父ヘンリー2世は出発する許可を与えなかったことが原因と思われる。

その途中のシチリアでは、シチリア王タンクレートが前国王グリエルモ2世の王妃ジョーン(リチャードの妹)を拘禁し、持参金を返却しないことに怒って戦いに及び、キプロスでは新婦(ナバラ王女ベレンガリア)とジョーンが嵐で漂着し捕らわれたことに腹を立てキプロスを征服している。どちらも正当な理由があるとは言え、交渉でケリが付く所を戦いに及んでいるように思える。

アッコン包囲戦ではフィリップ2世と仲違いし、さらに落城後、途中で溺死したフリードリヒ1世バルバロッサに代わってドイツ勢を率いていたオーストリア侯レオポルトの旗印を王(リチャード、フィリップ)と並べるのは僭越として引きずり下ろさせてレオポルトを怒らせたため、両者共に帰国してしまった*5。フィリップが支持し、リチャードが反対していたモンフェラート侯コンラートがエルサレム王戴冠前に(たぶん暗殺教団により)暗殺された際には、彼の差し金ではないかと疑われている。

*5 もっともフィリップ2世は十字軍に熱意を持っておらず、最初から早めに帰国するつもりだったと思われる。

こうして味方の反発を受ける一方、敵のサラディンからはその奮戦ぶりによりキリスト教世界第一の勇者と称えられた。しかし、フィリップやレオポルトの帰国により兵力が足りず、エルサレムを横目で通り過ぎるしかなかったが、その際に「エルサレムよ、我に汝を見る資格はない」と述べて目隠しして通りすぎたという伝説もある*6。

*6 何かにつけて劇的なのは、年代記作家がロマンス風に書いてしまうからかもしれない。

帰り道で奇妙なことになったのも彼が敵を作り過ぎたせいで、当初、船はコルフに漂着したが、キプロス征服でビザンティンの怒りを買っていたため、テンプル騎士団に変装してわずかな供を連れて密かに出航することになった。しかし、その船もイタリア東部の神聖ローマ帝国領アクイレイアに難破したため、彼等は貧しい巡礼に変装して、リチャードの姉マティルダの夫であるヴェルフ家のハインリヒ獅子公の領地バイエルンを目指したが、途中のオーストリアで身分を怪しまれ*7、捕らえれられている。

*7 身に着けていた指輪、あるいは貧しい巡礼に相応しくない料理を食べていたためともいうが、何となく間抜けでユーモラスである。

この時代では自領の外は全て敵とは言え、十字軍帰り*8のことであり、通常であれば、援助を受けて通行することができるはずだが、オーストリア侯レオポルトに恨まれていたため、そのまま捕囚にされ、後に神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に引き渡されている。

*8 ローマ教皇は十字軍従軍者に危害を加えることを禁じていた。実際、この後、レオポルトを破門している。

ハインリッヒ6世が要求した身代金は銀65,000ポンド(約30トン)と巨額で、まさに「王の身代金*9」だったが、臣下・領民たちは協力的であり、母アリエノールの元に集まった身代金は速やかにドイツに送られた。フィリップ2世とジョンは1194年9月まで拘留を延ばすことを要請したが、1194年の2月にリチャードは解放された。この時、フィリップ2世はジョンに「気をつけろ!悪魔は解き放たれた」と連絡したと言われる。

*9 慣用句として巨額な大金を王の身代金と形容することがある。これにより、ハインリッヒ6世はシチリア侵攻の資金を得て、レオポルトはウィンナー・ノイシュタットを建設した。

この時、帰国してジョンを屈服させた史実を元に作られたのが前述のロビン・フッドの物語なのだが、その後は、不在時にフランスに奪われたヴェクセンの奪回やノルマンディの防衛のためにガイヤール城を築くなど、フランス内で戦争を続け、十字軍の出費と自身の身代金の出費を埋めるどころか巨額の戦費を費やしている。

最期は自領のアキテーヌで、リモージュの領主がローマ時代の宝物を発見したのを献上するよう要求して戦争となり、甲冑を脱いで休息している時に城側が放ったクロスボウのボルトを左肩に受けたが、折り悪く適切な医者がおらず、壊疽でまもなく死亡した。死に際に「クロスボウを撃った者を許すように」と言い残したことがいかにも戦士王らしいと言えるが、残された母アリエノールたちは、この射手を残酷な方法で処刑して台無しにしてしまっている。

イングランドでは伝説的な十字軍の勇者として人気があったが、これはリチャードがイングランドにほとんど(6ヶ月しか)居なかったためで、戦場となったフランスでは彼は暴君と見なされていた。特に若年から所有していたアキテーヌでは、それまでが緩やかな支配だったせいもあり、リチャードの統治は苛酷と感じられており、実際、彼を射撃した射手は殺された父兄弟の仇を取ったと述べていたそうだ。

その死は「アリに殺されたライオン」と表現され、最後まで劇的で何やらユーモラスである。子供も作っておらず*10、基本的に君主としての義務という観念に欠けていたようで、まさに英雄に憧れる戦場の勇者・戦士だったようである。

*10 同性愛者だという噂は同時代から存在したが、明確ではない。

悪しき子であり、悪しき夫であり、悪しき王だったが、勇敢で優れた戦士だった。by ランシマン

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