降伏と捕虜

武士道と騎士道の話を書いていて、同じように名誉を重んずる戦士文化を持ちながら、最も異なるのが降伏と捕虜の概念であると感じた(武士道ニコポリス十字軍 参照)。以下にかなり大雑把で異論もあると思うが考察を述べる。

日本の考え方は、

・戦争は基本的に官軍と賊の争いであり、負けた方は賊(犯罪者)として扱われる*1。

・明確な奴隷制が存在せず、人の命や自由に値段を付ける風習がなかった。

・同一民族であるため、降伏は相手に従い味方になることを意味した*2。このため、降伏は味方に対する裏切りと見なされた。

*1 例えば、関ヶ原の勝者、徳川家康は敗者の石田三成、小西行長らを犯罪者として扱かった。
*2 取った駒を使える将棋と使えないチェスの違いに表れている。

つまり、負けた方、降伏した側は犯罪者と見なされるため縄目の恥辱を受け、その扱いは勝者の自由にされ、不名誉な扱いを受けた上、処刑されることが多く、自害(切腹)や(自殺的な)突撃による戦死の方がマシと考えられた訳である。また降伏して許され味方になることは、元の陣営から見ると裏切りであり、やはり不名誉と見なされる。

一方、西欧では、

・王は貴族の第一人者で貴族には私戦権があると考えられ、戦争は合法的なものだった*3。

・奴隷制があり人には値段がついていた。ゲルマン社会では、法の中で人の命の値段(贖罪金:Weregild)が明確に設定されていた*4。

・中世の騎士道文化では、騎士・貴族は互いに親族関係にあったこともあり、捕虜は名誉を持って扱われ、身代金で釈放される慣習があり、捕虜になることは不名誉なことではなかった。

・騎士道文化では、敵から逃げずに戦うことが名誉とされ、逃げることは不名誉とされた*5。

・攻撃する手段も体力も尽きた状態で降伏しないのは自殺(同然)であり、キリスト教では自殺は禁止されていた。

*3 従って、敗者といえど、明確な法・誓約違反がなければ犯罪人とは見なされず、(少なくとも騎士・貴族は)名誉をもって遇される。
*4 AがBを殺した場合、Bの家族はAに復讐するか、贖罪金の支払いを受けるか選択する権利がある。復讐は自分達でやらなければならず、相手が強ければ不利であり、一方、復讐しても死んだ者が生き返る訳でないためお金を受け取った方が得という考えがあった。
*5 特に騎士・貴族にとって、落ち武者のように浅ましい姿で逃亡し、農民の手にかかって殺されることの方が恥と考えられた。

つまり、降伏は不名誉なこととは見なされず、むしろ逃げずに最後まで戦った証拠であり、概ね、身代金で解放されるため、落ち武者になるよりはるかに良く、また自殺はキリスト教で明確に禁止されていたのである。

近代の国際法は欧米の考え方に基づいており、当然、降伏・捕虜についても欧米の考えがベースとなっている*6。

明治に近代化した日本は、急速に欧米の法や仕組みを取り入れたが、和魂洋才をモットーとして、その精神については導入せず、西洋の仕組みはしばしば日本式の理解で定着した*7。

*6 近代の人権の考えも当然、影響しているが、これも日本人は理解しないまま、第二次大戦に至ってしまっている。
*7 会社、大学、憲法、近代軍、野球など、当初は欧米の方式を導入したにも係わらず、時間を経ると共に運営は日本的にアレンジされて変化した。

明治時代では国際法の遵守が重要視されたし、考え方を受け入れずとも、エリート、インテリ、将校などは教育により頭では理解したが、昭和になると欧米に対する敵対心と軽侮が生まれ、欧米から学んだり、そのやり方に従う必要がないと言った風潮が広まった*8。そのため将兵、特に召集される一般兵に対して、そのような教育は御座なりにされ、知識として戦時国際法の降伏・捕虜は知っていても、感情的には理解できなかったのである*9。

*8 日本は「俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)」に調印したが、軍部の反対で批准していなかったそうだ。しかし、太平洋戦争において対戦国と同等の捕虜取扱いを約束しているため従う必要はあった。
*9 召集兵の場合は国際法の知識すら無かったかも知れない。たぶん、どこかに捕虜の取扱が書かれていただろうが、戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けるな」と言っているため、名誉を持って取り扱うべきとは思えなかっただろう。

その考えかたの違いが先の大戦で顕著に現れ、戦陣訓で指示されたように日本兵は降伏せず*10、無意味な突撃による死を選び(または強制され)、一方、イギリス軍はシンガポールにかなりの兵力を有しながらあっさりと降伏し*11、日本軍将兵はこれに首をひねり、イギリス軍が臆病だからと理解して軽侮する過ちを犯すことになった。

*10 戦陣訓や世間の視線により許されなかったが、それが無くとも、多くの日本人には降伏より死を選ぶ方が潔いと言うメンタリティがあった。
*11 救援の当てがなく、抵抗を続けて無駄に被害を増やすことを避けたのだろう。

日本軍による捕虜の虐待*12という非難には誤解もあるが、日本軍が捕虜に対して命が惜しい卑怯者と考える傾向が態度や扱いに現れた結果でもある。孫子曰く「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」で、まず相手についての知識を持ち理解する必要があり、また感情的に納得出来なくとも、法に従わなければ孤立して非難されることになるという教訓である。戦後の日本は国際法遵守の優等生であり、今後もその原則に従えば、過去についての非難を気にする必要はないだろう。

*12 中国での一連の戦いにおいて、ゲリラ、馬賊はもちろん、政府軍さえも国際条約に従った捕虜の取扱などはしないため、日本もそれに慣れてしまった面がある。

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