ナバラ王国の消滅

ナバラ王国はシャルル悪王の代でボロボロになった感があるが、跡を継いだカルロス3世*1(在位:1387-1425)は、カスティラ王女レオノールと結婚し、シャンパーニュ、ブーリの主張を放棄してフランスと和解し、イングランドやアラゴンとも友好関係を保つ全方位外交*2で傷を癒し、内政に努めて高貴王と呼ばれたが、息子がいなかった*3。

*1 シャルル悪王(カルロス2世)はフランスとの関係が強すぎるためフランス語風に表記したが、以降はスペイン語風に表記する。
*2 妹のジョーンをヘンリー4世に、次女のブランカをアラゴン系のシチリア王若マルティンと結婚させている。
*3 二人生まれたが、いずれも1402年に早世し、その後、子供は生まれていない。

そこで長女のファナを跡継ぎと定め、1402年にフォア伯と結婚させたが*4、子供ができないまま、1413年に亡くなったため、1409年に若マルティンと死別していた次女のブランカが推定相続人となり、1419年にアラゴン王アルフォンソ5世の弟ファン(2世)と結婚し*5、1425年にカルロス3世が死去すると共にナバラ王位に就いた*6。

*4 フォア伯はガスコーニュの有力貴族であり、ナバラ王国にとって主導権を握られない程度に手頃で、かつ、近郊であるため直接、援助し合える好ましい相手だった。
*5 1415年のアジャンクールの大敗以降、フランスは混乱の極みにあったため、アラゴンを頼ったのだろう。
*6 当時は、女王の夫は王になるのが普通だった。

ファンは「カスペの妥協」でアラゴン王になったフェルナンド1世の次男で、ナポリ王国などの地中海方面の遠征に注力する兄アルフォンソ5世の代理人としてアラゴンを統治する傍ら、弟のエンリケらと共に、しばしばカスティラの内政に干渉*7していた野心家で、そのためにナバラ王国の資源を必要としていた。

*7 カスティラ王ファン2世の幼少の頃はフェルナンド1世が叔父として摂政を務め、カスペの妥協の後もその子のアラゴン王子・王女たちはカスティラの政治に加わり、妻のマリア・デ・アラゴンもその一人だった。

二人の間には、1421年に長男のカルロスが生まれ、次いでその妹のブランカ、レオノールと、まずまずの成功だったが、1441年にブランカ女王が死去すると、本来はナバラ王位は長男のビアナ公*8カルロスが継承するはずだが、ファンは自分の長男に譲ることを拒んで王位に居座った。

*8 ビアナ公はナバラ王太子の称号となっていた。

ナバラ王位を失うと、ファンはナバラの資源を自由に使えなくなる上、単なるアラゴン王弟に戻るためだが、この時点で、兄アルフォンソ5世と妻のマリア・デ・カスティラには1415年の結婚以来、子供はできず、ファンがアラゴンの推定相続人だったため、アラゴン王の継承時までナバラを確保したかったのだろう。

しかし、これは既に20歳になるカルロスとその側近や支援者に不満や疑心暗鬼を抱かせることになった*9。また法を重視する人々は、ファンがナバラ王家の血を引いておらず、妻の権利で王位に就いていたため、不当に王位を占拠していると見なした。

*9 当時は14歳で成人であり、20歳は立派な大人である。

悪いことに、1444年にファンはカスティラ貴族の娘フアナ・エンリケスと再婚したが、フアナもまた野心家で、ナバラ王妃*10となってナバラの政治を左右し、カルロスへの権限委譲を望まなかったため、一層、カルロス派の不満が高まった。

*10 正統な後継者カルロスを差し置いて、ナバラ王家の血を引かない二人が王と王妃として統治するのは不法である。

本来は労せず、ナバラとアラゴンを連合王国にするチャンスであり、ファンはカルロスの廃嫡などは考えていなかっただろうが、相互の不信や憎悪がスパイラルに増幅されてしまい、フアナ王妃が自分の生む子のために、カルロスの廃嫡や暗殺を企てていると噂が飛び交うことになった。

カルロスは父ファンと対立しているカスティラのファン2世を頼り*11、ナバラの2つの派閥ベアウモンテセス(カルロス、カスティラ)、アグラモンテセス(ファン、アラゴン)の対立にカスティラが介入し、フアナ王妃の妊娠*12によりファンの後継者としてのカルロスの立場が危うくなったことが引き金となり、1451年からナバラ内戦が始まった。

*11 母方の祖母がカスティラ王女で、父方の祖父もカスティラ王子、叔母がファン2世王妃とイベリアの王家は何重にも婚姻関係がある。
*12 これまで子供はできなかったが、1452年にフェルナンド(2世)が誕生。

1452年にカルロスは「アイバルの戦い」で敗れて捕囚となり、父に従うことを条件に釈放されたが、まもなく反抗して、伯父のアラゴン王アルフォンソ5世の下に逃れた。しかし、1458年にアルフォンソ5世が死去すると、父ファン(2世)がアラゴン王に即位し、カルロスの立場は危険になった。既に、フェルナンドを後継者に考えていたファン2世からナポリ王位を提示されたが*13、拒否したため、逮捕されてマヨルカ島に送られた。

*13 既にアルフォンソ5世の庶子フェランテがナポリ王に指名されており、すんなり王になれる訳ではない。

1460年にカルロスは無断でバルセロナに渡り、市民の歓迎を受けた。カスティラのエンリケ4世と結び、その妹イザベル(1世)との結婚を狙ったため*14、父により再び投獄されたが、カルロスを支持するカタルーニャが反乱を起こし、一旦、屈服したファン2世はカルロスを釈放してカタルーニャの統治者とし、自分の後継者と認めたが、カルロスは1461年に死去した*15。

*14 ファン2世は次男のフェルナンド(2世)とイザベルの結婚を狙っていた。
*15 カルロスは病死だったが、状況からファン2世やフアナ王妃による殺害が噂され、カタルーニャ内戦が始まる。

ファン2世は、1455年に彼を支持している次女のレオノール*16をナバラ王位の継承者と決めてナバラの摂政にしており、1453年にカスティラから戻ってきた長女ブランカ*17をレオノールの監視下に置いていたが、カルロスの死により改めてレオノールが継承者と認定された。しかし、ナバラの反対派はブランカを女王と見なしており、1464年にブランカが死去すると毒殺が噂された*18。

*16 1441年にガスコーニュのフォワ伯と結婚していた。*4で述べたように、ナバラ女王の配偶者として手頃の相手だった。
*17 エンリケ4世の最初の妻だが、1453年に性交渉のないことを理由に「婚姻の無効」となって出戻ってきていた。このため、エンリケ4世は不能王と仇名されている。
*18 実際の愛憎は分からないが、王位を確保するために実姉を殺害しても不思議ではない時代だった。

レオノールは父のナバラ王位を認めて、その死まで王位主張はせず、1479年のフアン2世の死後に王位に就いたが、わずか15日後に死去し、王位は彼女の孫フランシスコ・フェボ*19、そして、1483年にその妹カタリナに継承された。カタリナはアルブレ伯ジャン*20と結婚して、共に王となったが、スペイン/アラゴンの強い影響下に置かれた。

*19 父はビアナ公ガストン・ド・フォワ、母がフランス王シャルル7世の娘マドレーヌで、フランスの影響力が強くなっている。
*20 アルブレ領に加えてフォワ伯を受け継いでガスコーニュの大領主となった。彼の妹のシャルロットは、フランス王の斡旋でチェーザレ・ボルジアと結婚しており、失脚後のチェーザレは脱獄後、義兄のジャンを頼り、アラゴンとの戦いで戦死している。

しかし、妻イザベル1世と共にスペイン(カスティラ、アラゴン)王となったフェルナンド2世は、しばしば併合を目指して侵攻し、1512年にナバラを併合した*21。ナバラは、その後も独立回復のために何度か反乱を起こしたが鎮圧され、以降、現在までスペイン領となっている*22。

*21 イザベル1世の死後にナバラ継承権を持つジェルメーヌ・ド・フォワと再婚している。
*22 近年ではバスク独立運動が活発になり、一時はテロ活動も盛んだったが、現在は平和的な活動となっている。

フランスの援助により、ピレネーの北側の小さな領域はアルブレ家のナバラ王国としてフランスの保護下で存続し、女系相続によりブルボン家が継承し、アンリ(4世)がフランス王となった際に実質フランス領土となって現在に至っている。

考えてみれば、本来、スペインのカトリック両王となるのはビアナ公カルロスだったはずであり、その場合、ナバラ王国は征服ではなく、スペインを構成する主要な一部としての地位を保っていただろう。歴史のifという奴である。

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