見るからにファンタジーかフィクションの世界に出てくる名前だが、一応、実在した歴史上の教団というか宗派である。時は十字軍の頃、ターゲットとしてイスラム教徒、キリスト教徒を問わずに暗殺を実行する集団についての噂が流れていた。
彼等はハシュシンと呼ばれ、イスラム教徒の間でも異端として忌み嫌われており、ならず者というような意味で使用されていた。語源は諸説あるが、元々、自称でアサシュン(信仰の礎)と呼んでいたのを敵対者達が大麻(ハシシ)を吸う者と曲解してハシュシン*1と呼び、大麻との関連付けが長く伝説として残ったようであるが、実際に大麻を常用していたかについては明らかではない。
*1 Hの発音は言語によっては消えるため、そのような変化はしばしば起こりえる。
彼等は当初はスンナ派や十字軍等の敵対勢力への抵抗手段として暗殺を用い、後には金銭等で暗殺を請負うようになり、それらが、十字軍を通して伝説的に伝えられた結果、14世紀にはハシュシン自体が英語のアサシン(Assassin)等ヨーロッパ語で暗殺者を意味する言葉となり、逆にその教団の名前が暗殺教団として定着することになった。
これが西欧で広く知られるようになるのは、マルコ・ポーロの東方見聞録の中で山の老人*2をリーダとする暗殺集団として紹介されてからで、それによると、薬で眠らされた村の若者が桃源郷のような楽園(秘密の庭園)に連れて行かれ、夢のような一夜を過ごした後、村に戻され、再び、秘密の庭園に行きたければ暗殺の使命を果たすように言われて暗殺要員にされるとしている。
*2 おそらく単に指導者のことで、日本語の家老・老中のように、実際の年齢に関わりなく、指導者の身分、立場として老人・長老と表現するのは中東の言語にも存在する。
彼等の暗殺に関する噂の主要なものには、次のようなものがあるが、この時代に中東で起こった暗殺のほとんどが暗殺教団によるものと噂されている。
・セルジューク・トルコ最盛期の宰相ニザーム・アル・ムルクを暗殺してセルジューク朝を混乱に陥れた。
・ヒッテンの戦いの後、サラディンによりエルサレムが陥落する中、唯一、ティールを守り名を上げ、女王イザベルと結婚してエルサレム王になることが決まったモンフェラート侯コンラートの暗殺。これは一説には、これに反対するリチャード獅子心王が依頼したとも言われる。
・サラディンの討伐を受けそうになった時に、サラディンの陣営に忍び込み、夜にサラディンがふと目を覚ますと枕元に訪れたことを示す警告文などの証拠が残されており、これに怖気づいたサラディンは暗殺教団と和を結び陣を引き払った。
さて、この暗殺教団の正体はイスラム教シーア派のイスマイル派系ニザール派とされている。
イスラム教は大きく、ウマイヤ朝以下のカリフの権威を認める多数派のスンニ派とマホメット(ムハマド)の血縁者以外のイマーム(指導者)を認めず、最後の正統カリフだったアリの子孫をイマームとするシーア派に分かれるが、さらに子孫の内の誰の系統をイマームと見なすかで多くの分派が生じている。
イスマイル派は7代目のイマームをイスマイルとする分派で、これがエジプトでファティマ朝を創設しており、そのカリフが教主であるが、1095年に第8代カリフ・アル=ムスタンシルの後継者として長男のニザール*3ではなく、次男のムスタ・アリー*4が選ばれたことにより、これに不満を持ったニザールの支持者がニザール派で、ハサニ・サッバーフはペルシアのアラムートに本拠地を置いて、セルジューク朝の衰退*5に乗じてシリアやペルシア方面に勢力を伸ばしその指導者と見なされるようになった。
*3 ニザール自身はカイロで幽閉された後、1098年に死去している。
*4 こちらの支持者はムスタアリー派と呼ばれる。
*5 その端緒となったのが宰相ニザーム・アル・ムルクの暗殺である。
彼等は数的に優勢な敵に対抗する手段として、山岳地帯に強固な要塞を持ち、しばしばフィダーイ(自己犠牲を辞さない者、決死隊)による暗殺を用いて敵の指導者を抹殺したため、敵からは非常に忌み嫌われた。フィダーイは変装して公衆の場でターゲットに近づき、短剣(しばしば毒が塗られている)を用いて速やかに暗殺を実行した後は逃走を図るが、囲まれれば切り死にするまで戦い、生きて捕らえられることはなかった。
フィダーイは単に殺戮技術だけでなく、運動能力、変装技術、それに必要な言語や風俗等の学習も行い、多分に日本の忍者にも似ているように思われる*6。また、実際に暗殺するとは限らず、サラディンの場合のように、脅迫により目的を達することも多かったようである。
*6 フィクションに良くある黒装束の忍者ではなく、薬売りや念仏僧のような旅人に変装して情報収集する現実的な忍び。余談だが、現在のイランで忍術が人気だそうだ。イラン人の多数はシーア派(12イマーム派)であり、暗殺教団に親近感があるのかもしれない。
シリアでは1160年頃からラシッディン・シナンが積極的にフィダーイを使った暗殺を駆使して、ムスタアリー派を凌いで勢力を拡大したが、ザンギー朝のヌル・ウッディーン(ヌレディン)からは危険な存在として討伐を受け、これに対抗するため十字軍と接触し、キリスト教に改宗*7することを条件に同盟することを提案するなど、各勢力との連携・対立の中で存在感を示し、アラムートの本部から半ば独立した存在となった。東方見聞録の山の老人や暗殺教団は主にシナンのシリア支部に基づいていると考えられている。
*7 元々、弾圧を受ける少数派であるシーア派ではタキヤ(信仰秘匿)の伝統があり、表面上の改宗と考えられる。
こうして、キリスト教やイスラム諸勢力が混在する十字軍時代に、その存在感を示して勢力を維持してきたが、1256年にペルシア方面に侵攻してきたモンゴルのフラグはこの暗殺教団を危険*8な存在と見なして真っ先に攻撃を行った。警戒されていたためフラグの暗殺は成功せず、さすがの山中の堅牢な要塞もモンゴルの総攻撃を受けては抗しきれず、1257年にはアラムートも陥落し、最後のイマームもモンゴルに降伏して、ペルシアのニザール派は壊滅した。
*8 当時のモンゴル軍団は最強であり、ルーム・セルジューク朝等の正攻法の軍団は脅威ではないが、急激に拡大した雑多な集団なだけに敵陣に忍び込む暗殺をより危険と感じたのだろう。
一方、シリア支部は1273年にマムルーク朝に降伏したが、ジズヤ(異教徒に対する人頭税)を支払うことで存在を許され、以降、マムルーク朝の依頼などにより暗殺を実行していた。14世紀の旅行家イブン・バトゥータもシリアのハシュシンが料金をとって暗殺を請負っていたことを記述しており、15世紀頃まで続いていたと見られている。
暗殺教団の実態は近代になるまで明らかではなく、様々な伝説が伝えられ、フィクションの世界でも多く言及され、十字軍的正義の騎士に対する悪の狂信的暗殺者のイメージが根強く残ったようである。
現代のイスラム過激派による自爆テロが暗殺教団などの伝統によるイスラム教的特質と見なされることがあるが、暗殺教団のフィダーイは短剣によりターゲットのみを狙い、護衛の者と戦うことはあっても一般人に危害を加えることはなかったといわれる。