宦官
歴史の中でかなり不思議に見える存在が宦官である。特に日本では家畜の去勢も行わなかったため、去勢という行為自体に馴染みがない。ヨーロッパや牧畜民族では家畜の去勢を行っており、アラビアやインドではハーレムで去勢された召使が使われたが、彼らはあくまで女性の世話、管理をするだけの存在であった。
一方、中国における宦官も当初は後宮の世話を行う存在だったが、すぐに皇帝や政治に大きな影響を与える存在になり、後には皇帝の側近として政治、軍事において監察官やさらには長官、司令官の役目を務め、明の時代には影の内閣を形成するまでになった。
彼らの身分は奴隷であり、最初は戦争での異民族の捕虜や異民族から献上された奴隷を去勢して使ったが、やがて刑罰として宮刑を受けた罪人がなり(司馬遷等)、やがてはその富裕と威勢を望んで貧しい庶民の子供が自ら去勢(自宮)してなるようになった(自由意志というより親の意志が多いが)。
これらは、纏足のように中国のみの奇習に見えるが、元々、王侯貴族にとっては、親族や重臣達は潜在的な敵かライバル的存在であり、最も信用出来るのは私的な使用人(召使)か奴隷*であった。後宮で育つ皇帝の世話は全て宦官が行い、皇帝にとって宦官は乳母であり、教師であり、学友であり、生活の全てに関連したため最も信頼されたのである。
* 召使と奴隷は多くの時代において違いはなかった。
どの世界でも内向きの使用人が前面に出てくると嫌われ、日本では鎌倉時代に北条氏の内管領と称された長崎氏や足利尊氏の執事の高師直なども嫌われたが、宦官の場合はその身分が奴隷であり、さらに儒教では祖先の祭祀を絶やさないことが最も重要であり、子孫を作ることを放棄している宦官は最低の存在(人に非ずとしている)とされていたため、その分、憎まれ方も激しかった。憎まれていることを承知している宦官側もそれらのコンプレックスがあったため権勢や富裕を誇るものが多く、一層、それに拍車をかけた。
どこでも君主は側近を重用し、重臣達を抑えて親政を行おうとする。さらにこれに外戚も加わり、英明な君主はこれらのバランスを取ってイニシアティブを発揮するが、無能の君主ではこのバランスは崩れ、いずれかの専横が行われる。害悪はいずれの場合も同じであるが、宦官の害悪が特に強調されるのは、上記のごとく嫌われていたためだろう。
ところで宦官にも妻(菜戸)はいたそうである。考えてみれば、妻の役割は夜だけではなく、また性技も挿入だけでないことを思えば当然かもしれない。しかし宦官は子供を作れないため養子をとった。曹操が宦官の養子の息子であることは有名である。