怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン

怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン(1) - 鎧を着た豚

ブルターニュの騎士の子であるベルトラン・デュ・ゲクランにとって、百年戦争ブルターニュ継承戦争が起こったのは幸運だった。

1320年頃に誕生した時には、フランスやブルターニュの秩序は保たれており、トーナメントや決闘の勇者とは言え、小貴族の子である彼が活躍できる範囲は限られていただろう。しかし1341年から始まったブルターニュの長引く公位争いによる無秩序は、彼のような一介の騎士に戦闘経験と資力を得る機会を与えた。

醜い容貌で頑固で乱暴な性格のため、両親から疎まれて、長男ながらまともな扱いを受けていなかった貧乏騎士が、ブルターニュ継承戦争、カスティラ内戦シャルル戦争のおかげで、シャルル5世やエンリケ恩寵王の知遇を得て、フランス王軍総司令官、ロングヴィル伯、モリナ公と騎士身分の者としては最高に近い栄誉を受け、歴史に名を残し、近年ではフランスを救った英雄の1人と認識されている。

実のところ彼はブルターニュ人で、シャルル5世に仕えたのは仕事であり、ブルターニュではフランス王の手先としてブルターニュ併合に働いた裏切り者という見方もある。ナポレオンがフランスの英雄かコルシカの裏切り者かとの疑問に似ているかもしれない。但し、中世に民族主義、国家主義を持ち込むのは間違いの元で、中世の騎士は「士は己を知る者の為に働く*1」のである。

*1 晋の豫譲の原文は「死す」であるが、中世の騎士には人の為に死ぬという発想はない。

低い出自から有名になった人に共通であるが、彼の前半生は吟遊詩人による騎士道物語(ロマンス)やシャンソンによって知られるのみで、伝説、創作に近いが、一応、それに沿って説明していく。

それらによると、ゲクランは1320年頃、ブルターニュのディナン近郊に小城を有する騎士ロベール・デュ・ゲクランの長男として生まれたが、「レンヌからディナンまでの間で最も醜い子供」と呼ばれ、母親に愛されず、いじけた子供に育ったようだが、ある日、ユダヤ人の占い師が「この子は将来、栄光に輝く」と予言して、生まれて初めて自信を持ったという。ところが、近所の子供たちを集めて合戦ごっこにふける乱暴者となり、相手の子供を怪我させたことで父親から厳しい折檻を受けたため、反発して家出して親族の元に転がり込み、そこで騎士としての訓練を受けたという。

その後、父の許しを得て家に戻ったものの、嫡男としての独立した収入も与えられず、古びた甲冑を着け駄馬に乗って、「鎧を着た豚」と人々の嘲笑を受けていたようだ。

しかし、1337年にブルターニュ公の姪に当たるパンティエーヴル女伯ジャンヌとブロワ伯の弟でフランス王フィリップ6世の甥に当たるシャルル・ド・ブロワ*2との結婚式の際に開かれた馬上槍試合(トーナメント)で、親族から甲冑と馬を借り紋章を外して黒騎士*3として試合に出場し連勝を続けたが、父ロベールが登場すると戦わずして引き下がった。不思議に思ったロベールがその黒騎士に注目していると16戦目に冑が壊れて、その顔が現れ息子だと知り、以降、見直して待遇を改めたという。この後、トーナメントの勇者として知られるようになり、ジョストや路上での一騎打ちにおいて負け知らずを誇った。

*2 ブルターニュ継承戦争 参照
*3 トーナメントでは通常、己の武勇を誇るために紋章を誇示するが、時には身分や立場を隠すために意図的にそれを隠して匿名で出場する者がいて黒騎士と呼ばれた。

1341年にブルターニュ継承戦争が始まるとゲクランはブロワ派に属し、数十人の配下を集めて、モンフォール派やそれを支援するイングランド兵と小競り合いを繰り広げた。こう書くと聞こえは良いが、要するにモンフォール派やイングランド兵を襲撃して、荷物を奪い、捕虜にして身代金を請求するのである。平時なら山賊だが、戦争状態であれば、全て合法で略奪品を気前良く分配することで配下の人気を得ていた。

このような小規模なブリガンド(brigand)*4での活動のため、ブルターニュ継承戦争の主要な戦闘にはゲクランは登場しない。

*4 日本の悪党、野伏りに近く、平時は山賊、戦時は傭兵となる。近代軍の旅団(brigate)の元でもある。

何時の時代にも世に出るにはコネが必要である。このような活動を続けている内に、王軍のノルマンディ駐屯地であるポントルソン*5に知り合いができ、ノルマンディ地区の王の代官であるフランス王軍将軍(マレシャル)アルヌール・ドードレーム*6や守備隊長ピエール・ド・ヴィリエの知己を得たようだ。

*5 ブルターニュとの境目にありディナンにも近く、後にゲクランの本拠地のようになる。
*6 ジャン2世の命令でシャルル悪王を逮捕したのは彼だそうだ。後のゲクランのカスティラ遠征に同行するなど終生の付き合いとなった。

1354年にモンミュランでドードレームがイングランドのヒュー・カルベリー*7に襲撃された際には、彼を助けて大いに勝利に貢献した。この時に正式に騎士に叙任され、以降、有名な掛け声「ノートルダム、ゲクラン」を使うようになった。

さらに、同年、イングランドが占領していたグラン・フジュレ城の城代*8が守備兵の多くを率いて襲撃に出かけた隙に、薪を持った木こりに扮した30人ばかりの手勢で入り込んで占領したことで、彼の名は世に知られるようになる。

*7 イングランドの傭兵隊長。既に「30人の戦い」の1人として有名だった。この後、ゲクランとは小戦で一度捕虜にし、ポン・ド・ドゥーンで捕虜となり、オーレで勝利し、カスティラ遠征では一緒に戦い、その後のナヘラでは黒太子の下で勝利し、シャルル戦争ではポンヴァヤンの戦いで敗北している。漫画風に言えば宿命のライバルとの最初の対戦だった。
*8 城主ではないため、こう表現するが、城の総責任者である。

この後はブロワ派の代表団の1人としてイングランドを訪れ、捕虜になっていたシャルル・ド・ブロワの解放交渉を行うなど、その存在を認められているようである*9。

*9 もっともシャルル・ド・ブロワが捕虜となったままで、ブロワ派の勢力は縮小していたため、単に人材不足だったのかもしれない。

怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン(2) - ブロセリアンドの黒犬

1356-57年のランカスター公ヘンリー*10のレンヌ包囲戦で防戦側に加わって活躍し、ベルトラン・デュ・ゲクランは、やっと歴史に登場する*11。

*10 エドワード1世の弟エドマンドの孫で、百年戦争前期に活躍し公爵となり、その娘とジョン・オブ・ゴーントが結婚して、ランカスター朝の祖となる。
*11 これまでの記述は有名になってから作られた彼の伝記や伝説に基づくもので、史実と言えるのはこれ以降である。

ヴィリエの下でポントルソンに居たゲクランは、数十人の配下を率いて、イングランドの補給部隊や偵察部隊、食料調達部隊などを襲撃したり、野営地に夜襲をかけて悩ませ、ランカスター公に知られるようになったが、むしろ停戦中に弟のオリビエ・ド・ゲクランがイングランドの騎士トーマス・カンタベリーに襲撃されて捕虜になった際に、その騎士の不当を訴えて決闘したことで有名になった。この後にも何人ものイングランド側の騎士がゲクランに挑戦しているが、いずれもゲクランの勝利だったようだ*12。

*12 この辺が何とも中世的であり、騎士道もまるっきり虚構ではないのである。

さらにフランスの救援軍が来るとの偽情報にランカスター公が主力を連れて出撃した後に、イングランド軍の野営地を襲い、食料・物資を奪ってレンヌに入城して大歓迎を受けた。さらに攻城塔を夜襲で焼き払い攻撃側の士気を失わせた。

このように不首尾が続いたため、撤退を考慮したランカスター公が「城門に旗を立てるまで撤退しない」と誓ったことを気にしていることを知ると、市側に掛け合い、一時的にランカスター公の旗を揚げるように取り決めた。レンヌは防衛に成功し*13、これらの功績によりシャルル・ド・ブロワからロシュ・デリアンを与えられた。

*13 市側が高額の賠償金を支払ったとも言われるが、いずれにしろ抵抗が強かったため撤退したことに変わりはない。

彼の名はブルターニュでは知られるようになり、イングランドの騎士の間でも評判になったようだが、フランスにおいては未だ無名に近い。

彼がフランスで知られるようになるのは、ブルターニュが休戦となった1359年に、シャルル王太子が指揮したムラン包囲戦に参加し、その奮戦ぶりで知遇を得てからである。

王太子は戦闘は得手でないため後方から戦況を見守っていたが、城壁をよじ登って奮戦していた*14ゲクランに注目して、「あの勇猛な兵士は誰だ?」「ブルターニュで知られた騎士ゲクランです」「覚えておこう」と言った会話が交わされたらしい。

*14 この時の活躍は一騎士として城壁によじ登っての奮闘であり、上の会話でも分かるように、フランスでの扱いはこの程度だった。

しかし、この活躍によりポントルソンの城代*15に抜擢され、周辺のイングランド、ナバラ勢力や略奪傭兵団の討伐などに駆り出され、その奮戦ぶりから「ブロセリアンド*16の黒犬」と仇名され、ノルマンディの要衝ロシュ・テッサンの城地を貰い旗騎士*17となったようだ。

*15 大きな町の中には城砦があり、城壁防衛の責任者の守備隊長と城砦の責任者の城代が役割分担していた。ほぼ同格だが総責任者は城代である。
*16 アーサー王伝説などのロマンスに出てくる伝説上の土地。魔物が住む森として知られ、魔物のように恐ろしい「戦いの犬」と言ったニュアンスだろう。
*17 一隊を率いて自分の独自の旗を掲げられる上級騎士。

1364年頃には王軍におけるノルマンディ防衛の重要人物の1人となっていたようだが、相変わらず一介の騎士の稚気が残っていた。ゲクランは1363年にブロワ派とモンフォール派が停戦する際にそれを保証する人質の1人だったが、1ヶ月くらいで戻っており、イングランドの騎士ウィリアム・フェルトン*18が「ゲクランが約束を破って人質から逃げた」と非難しているのを聞いて決闘を申し込んでいる。

*18 イングランドの著名な隊長の1人トーマス・フェルトンの親族。

シャルル王太子は詰らない原因でゲクランを失うことを恐れ、この問題をパリの高等法院で取り扱わせた。この些細な喧嘩は、王族や高官、上級貴族の列する中で審議され、ゲクランの勝訴*19となったが、それ以上に彼の名声が高まることになった。

*19 ゲクランが当初から人質の期間は1ヶ月と公衆の前で宣言していたこと、預かっていたロバート・ノルズ側の証人も彼が約束を守ったと証言しており、従って決闘で決着をつける必要はないと裁定した。

さらにノルマンディのシャルル悪王の領地の接収に登用され、重要な拠点マント、ミュランを攻略した。悪王は名手ジャン・ド・グライーをノルマンディに送り込み、両者はコシュレルで激突したが、ゲクランの快勝*20でグライーを捕虜にしている。

*20 フランス軍の主将はオーセル伯だったが、ゲクランに指揮を譲っている。

「コシュレルの戦い」の勝利は彼の評判を決定付けた。当代最高の指揮官の1人と目されていたグライーに真っ向から挑んでの快勝であり、シャルル5世にとっては懸案だったノルマンディにおける悪王の影響を大幅に低減しただけでなく、自身の戴冠への祝福*21となったことで、その喜びも大きく、この功績によりゲクランにノルマンディのロングヴィル伯を与え、将軍(マレシャル)に任命した。

*21 中世では幸運は神の祝福と見なされ、シャルル5世の王位の正統性を示すと見なされた。

一方、ブルターニュではジャン(4世)・ド・モンフォールとシャルル・ド・ブロワの和平調停は失敗に終わり、両者は最終決着をつけるべく、それぞれイングランドとフランスに援軍を要請してオーレに向かった。

両軍とも著名な隊長が派遣されているが、ブロワ・フランス軍はシャルル・ド・ブロワが主導権を握っており、ゲクランは副将・参謀格だったのに対し、モンフォール・イングランド軍は若年のジャン4世は名目のみで、ジョン・チャンドス*22が総指揮官で、その差が現れた。

ブロワ・フランス軍
左にオーセル伯、右にゲクラン、中央にシャルル・ド・ブロワ

モンフォール・イングランド軍
右にオリビエ・ド・クリソン、左にイングランドのロバート・ノルズ、中央にジャン4世とジョン・チャンドスで、ヒュー・カルベリーが予備隊。

決戦を逸るシャルル・ド・ブロワはゲクランの助言を採用せず攻勢を取ったのに対し、ジョン・チャンドスはヒュー・カルベリーに予備兵力を与えてバランスを取らせ*23、全体の消耗と崩壊を防いだ結果、ブロワ・フランス軍は力尽き、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ゲクランは捕虜となって「オーレの戦い」はモンフォール派の快勝に終わった。

*22 イングランドを代表する名将で、「ポワティエの戦い」でも参謀として勝利の実質的な立役者とも言われる。
*23 カルベリーは不満だったそうだが、チャンドスの説得で引き受け、勝利の鍵となった。

怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン(3) - カスティラ遠征

封建制では身代金は自分で払わなければならないのだが、知名度が上がったゲクランの身代金は10万フランと諸侯並みとなっていた*24。

しかし、国内に割拠する略奪傭兵団を国外に出し、トラスタマラ伯エンリケをカスティラ王位に就けることを計画していたシャルル5世は、その経歴や力量からゲクランが適任と判断して、教皇ウルバヌス5世*25やエンリケと共に身代金を立て替えて*26釈放させた。

*24 ロングヴィル伯を与えられたから実際に諸侯なのだが、未だその収入を得ていない。
*25 教皇庁も傭兵団の退去を切望していた。
*26 あくまで立替で、ロングヴィル伯領などを担保に設定している。

傭兵達にとっては戦争は命を賭けたスポーツのようなもので、好敵手に対しては一定の尊敬を持つものであり、ベルトラン・デュ・ゲクランは彼らのリーダーに相応しい戦歴を持っていた。またゲクランは性格的には戦士であり、ブリガンドを率いていた経歴から言っても彼らの仲間で、十字軍を大義名分にして彼らを取り纏めるのは容易だった。

1365年後半にヒュー・カルベリーらと共にアヴィニョンに向かい、驚いた教皇は破門で脅したが、気にせずアヴィニョンに入って赦免と資金を得て、トゥールズでエンリケと合流しアラゴンに入った。

つい先日まで敵同士だった山賊同然の傭兵達が仲良く列をなして、十字軍に出かけるとの見え透いた言い訳で、偉大なるローマ(アヴィニョン)教皇から赦免と資金を分捕っていくのは中々、愉快な光景である*27。ゲクランにとって、この頃が一番楽しかったのではないだろうか?

*27 シュレックと愉快な仲間達という光景が思い浮かぶのだが・・・

エンリケもカスティラを逃れてからは、フランスで傭兵となっており、そういう面では彼もお仲間だが、やはり育ちの良さがあるため、荒くれ傭兵を抑えるゲクランを頼りにしただろう。

アラゴン王もペドロ残酷王の廃位には同意しており、アラゴンの騎士達の協力も得て、1366年にはマガロン、ボルハを落とし、カスティラに入ってエンリケは王位を宣言し、堅固な要塞都市ブリビエスカを陥落させた。

一方、ペドロ残酷王は大半のカスティラ貴族に離反されており、ブルゴスに篭っていたが、この報に驚き、敵せずと見てセビリアに逃げ、さらにポルトガルに入ったが冷遇されてガリシアに逃れ、さらにアキテーヌのバヨンヌに入ってエドワード黒太子を頼った。黒太子は支援を了承しイングランド、ガスコーニュの傭兵を招集し*28、シャルル悪王と交渉してナバラを通ってカスティラに侵入する計画を立てた。

ブルゴスで戴冠したエンリケ恩寵王*29は、各地をほとんど無抵抗で平定したが、黒太子の動きを知り、ナバラ国境に集結した。

*28 ゲクランと共にカスティラに遠征したヒュー・カルベリー等も黒太子の元に馳せ参じている。
*29 協力した貴族や傭兵達に気前良く恩賞をばら撒いた為、恩寵王と仇名された。

緒戦の小競り合いでは、カスティラ軍が優勢であり、黒太子は一旦、退却し改めてエブロ川を越えてナヘラに侵入し、エンリケは決戦を指向し、1367年4月に両軍はナヘラで激突した。

エドワード黒太子、ジョン・オブ・ゴーント、ジョン・チャンドス、ペドロ残酷王、アルマニャック伯、ジャン・ド・グライー

エンリケ恩寵王、ゲクラン、ドードレーム、テロ・アルフォンソ*30

新米王のエンリケ恩寵王はカスティラ貴族を把握し切れておらず、ゲクランの助言も採用されることは少なかった。カスティラ軍はイングランドのロングボウの恐ろしさを知らず、軽騎兵による突撃を行いあっさりと壊走した。エンリケも逃走しアラゴンからフランスに逃れ、ゲクランらのフランス部隊は徒歩で健闘*31したが捕虜となった。

*30 恩寵王の同母弟。ビスケヤ領主。
*31 ロングボウ対策として、フランス騎士は徒歩で戦うことが常道となっていた。

オーレの戦い」に続き、「ナヘラの戦い」でも総大将でない悲しさで、ゲクランの意見は採用されず敗戦となった。ゲクランの意見は常に純軍事的であり*32、大軍を率いる王侯は配下の望みと言った政治的要素を無視することができず、軍事的と政治的を上手く考慮した作戦が望ましいのだが、ゲクランにはそれができないようである*33。

*32 イングランド軍は食料が不足しており、撤退を待って追撃するという、ゲクランの得意な作戦を提案したが、カスティラ貴族からは王者らしくないと退けられた。
*33 根っからの武人で終生、政治は苦手だったようだ。後のブルターニュ併合時に政治に巻き込まれ辞職を願っている。

ゲクランの釈放には時間がかかった。金貨10万ダブル*34と巨額の身代金であること、イングランドの脅威となり得るゲクランを解放すべきでないと黒太子に助言する者がいたためともいうが、ゲクランはアンジュー公やシャルル5世やブルターニュの貴族など知己の多くから借金*35して、8ヶ月後の1368年1月に解放され、アンジュー公のためにプロバンスで働いた。

*34 約30万フラン
*35 黒太子妃ジョーンも貸したそうで、敵味方関わらず快傑と見られていたようだ。

エンリケ恩寵王は既にカスティラに再侵攻しており、1369年1月にシャルル5世はゲクランをカスティラに送り支援させた。恩寵王はトレドを包囲し、残酷王はモンティエルで救援軍を集結させていたが、ゲクランは機先を制して攻撃することを提案し、3月の「モンティエルの戦い」で、準備の出来ていない残酷王の軍を急襲して破った。

残酷王はモンティエル城に篭ったが、密かに逃げ出そうとした所を捕らえられ処刑された。あるいは、ゲクランと取引しようとして呼び出され、待ち構えていたエンリケと格闘の末、殺害されたとも言う*36。

*36 諸説あって、はっきりしない。2人の王が格闘するのは考えづらいが、交渉のために呼び出したのであれば、形式的に決闘ということにした可能性もある。

怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン(4) - フランス王軍総司令官

カスティラの件が解決したのを見て、1369年5月にシャルル5世は満を持してイングランドに宣戦し*37、イングランドに付いていた傭兵隊長*38の引き抜きを行うと共に弟のアンジュー公ルイ、ベリー公ジャンを各方面の司令官に任じた。

エドワード3世も、これに応じてフランス王位を再び宣言し攻勢をかけたが、アンジュー公やベリー公には軍才がなく、エドワード3世は老齢で黒太子は病気で動けず、双方共に目立った成果は上がらなかった。

*37 挑発として、正式な使者ではなく厨房の召使に伝えさせたと言われる。
*38 イングランド以外のスペイン、ドイツ、ブルターニュ、ガスコーニュなどの傭兵

しかし1369年12月にジョン・チャンドスが小競り合いで戦死し、イングランドにとっては大きな損失となった。

シャルル5世は膠着状態の打開を計り、1370年5月にイングランドの所領を全て没収することを宣言し、ゲクランをカスティラから呼び戻した。

ゲクランはカスティラで貰った所領*39の処置をした後、7月にラングドックに入るとアンジュー公やベリー公と共に精力的に働き、瞬く間に数十の城市を開城させた後、10月にパリに到着し、シャルル5世からフランス王軍総司令官(コネタブル)に任命された。

王の軍事担当の役人としては、王軍総司令官の下に数人の将軍(マレシャル)が存在する。王軍総司令官は名誉な職ではあり、王族や上級貴族と同席でき、王国のランクではピア(上級貴族、同輩)に次ぐため、一介の騎士上がりとしては最高の栄誉であるが、実質は相変わらず王の筆頭 軍事顧問 兼 傭兵隊長に過ぎない*40。

*39 ソリアなど幾つかの町とモリナ公の称号を与えられている。
*40 多少、発言力を増す効果はある。例えば、オーレの戦いではゲクランはブルターニュ公の封臣であるため副将格でしかなく、意見が採用されなかったが、フランス援軍における総司令官であれば重みが違っただろう。

伝記では、ゲクランは低い出自を謙遜し、上級貴族が命令を聞かないだろうことを理由に一度、断って王族を任命することを勧め、それでも是非と要請されると、自分に対する中傷があっても一回きりなら取り上げないことを条件*41として受けたとされるが、この時点では王族が王の役人をやった例はない。

封建制においては大軍の場合、総大将が王か王族で、王軍総司令官は参謀長か部隊長という役割なのである。ゲクランは実質は変わらないのに、名目や責任だけが重くなり嫉妬の対象になることを嫌ったのかもしれない。

*41 嫉妬の対象になることを警戒しており、根拠のないものを取り上げないよう頼んでいる。確かに、歴史において多大な功績を挙げた将軍はしばしば中傷により失脚させられている。

シャルル5世の改革により、この後、王軍総司令官の権限は大きくなり、百年戦争後半のアルマニャック伯やリシュモンやブルボン公などの実権は大きかったが、これは本人の元々の地位が高かったからである*42。

*42 上級貴族が就くのは、この頃からで、それまでは中級貴族が多かった。ゲクランのような騎士身分の出自は異例だった。

1370年12月4日の「ポンヴァヤンの戦い」を皮切りに快進撃が始まり、オリビエ・ド・クリソンや王弟であるアンジュー公、ベリー公、そしてブルゴーニュ公フィリップ豪胆公と協力しながら、1373年までにはカレーとギエンヌを除くフランス内のイングランド領を回収し*43、さらに、ブルターニュ公ジャン4世がイングランドと同盟するとブルターニュも1375年までに平定した。

賢王シャルル5世の体制改革と戦略、それを実現する名将ゲクランの実行力が見事に相乗効果を発揮したと言える。また、ゲクランの影に隠れがちであるが、オリビエ・ド・クリソンも活躍している。

*43 端折り過ぎであるが、細かく書くとキリが無い。シャルル戦争では、もう少し詳しく記述している。

怪傑 ベルトラン・デュ・ゲクラン(5) - そして伝説へ

1377年までの休戦の後、エドワード3世が亡くなり、シャルル5世はここで懸案を処理すべく、悪王のノルマンディとラングドックの所領を没収し、さらにブルターニュ公領の併合を宣言したが、ブルターニュの諸侯はこれに反対し、ジャン4世をイングランドから呼び戻して叛乱に踏み切った。

ブルターニュでフランスに従ったのは、ゲクランとオリビエ・ド・クリソンのみであり、ゲクランは困惑する立場に追いやられた。現在の妻の実家であるラバル家がブルターニュ側であるため、ゲクランの躊躇は寝返りの意図と噂され、ゲクランは王軍総司令官の辞職を申し出てカスティラに向かおうとしたが、シャルル5世は慰留しラングドックに派遣した。

しかし、まもなく、1380年7月にラングドックのシャトーヌフ・ド・ランドンの攻城中に病死した。既に開城を決めていた城の指揮官は、ゲクランに敬意を表して棺に城門の鍵を捧げたと言われる*44。ゲクランの死去のすぐ後の9月にシャルル5世も亡くなり、王家の墓所であるサンドニ大聖堂では、縦にシャルル5世の棺と並べてゲクランの石棺が安置されている。

*44 門の鍵を捧げるのは洋の東西を問わず、開城の証である。

ゲクランの紋章は双頭の鷲で、神聖ローマ帝国かビザンティン帝国と何か関係があるのかと思ったが、別に無いようだ。デュ・ゲクラン家では13世紀頃から使われていたそうで、ベルトランの家は分家の為、斜めの赤帯が入っている。

ゲクランは二度結婚しているが、子供(嫡子)はいなかった*45。最初は1363年にティファーヌ・ラグネルとだが、40過ぎでやっと初婚である。それまでは山賊まがいの生活で、飛び切り不細工だったため縁談もなかったようだが、フランス王にも認められ嫁を貰える身となったと言うことだろう。

伝説ではトーマス・カンタベリーとの決闘の活躍で見初められたとのことだが、物語ではそのようなロマンスを入れる必要があり、まあ創作だろう。同様にゲクランがナヘラで捕虜となっていた時に、ゲクランの配下だった者の身代金を自腹で払うなど、山内一豊の妻のような内助の功が伝えられているようである。

*45 庶子はいるらしく、嫡子がいないのは、ほとんど戦場で過ごしたからだろう。

ティファーヌは1373年に死去し、1374年にジャンヌ・ド・ラバルと結婚した。ラバル家はブルターニュの有力な一族であり、既に王軍司令官となっていたゲクランとの明確な政略結婚だろう。1380年にゲクランが死去した後、ジャンヌはラバル一族のギー・ド・ラバルと再婚し、なんと1437年まで生きていた。ジャンヌ・ダルクが彼女を訪れ、自分の先達のようなゲクランへの敬意を評したという*46。

*46 彼女の人生の大部分は子供もできたギー・ド・ラバルの夫人であり、ジャンヌ・ダルクが活躍した頃はブルターニュはブルゴーニュと共にイングランドと同盟していた。得体の知れない農民上がりの娘に、50年前に死に別れた最初の夫を讃えられても、どう感じたか・・・

ゲクランの伝説では民衆の味方と言ったイメージ付けの逸話として、アヴィニョンから支援金を受け取った際に、住民から集めるのではなく教皇庁の金庫から出させた話が伝えられているが、いずれ穴埋めの為に住民から臨時税を集めるから同じことで、住民の恨みが直接、自分達に向かわないように考えたのだろう。

彼の立場は楠木正成に似ているかもしれない。国学史観の七生報国を誓った人ではなく、悪党上がりで、ゲリラ戦を得意として、本来なら対面することも不可能な後醍醐天皇に見出されて、己を知る人の為に働いたという点と、後にナショナリズム的観点から妙に美化されたという点で類似している。

もっとも楠正成は千早・赤坂の篭城戦で有名になったが、ゲクランは攻城戦を得意とし、生涯、篭城したことはないだろう*47。

*47 彼が有名になったのはレンヌ包囲戦の防戦だが、この時も外からの援護が主だった。

ゲクランは名誉や誓いを重んじ、中傷を受ければ決闘で答えるなど、極めて騎士道精神に溢れていたが、一方では、騎士道から外れると見られがちな策略や奇襲を得意とした。ブリガンド上がりのため貴族的体裁を気にせず、戦闘では傭兵的な実質に徹した分、それ以外の点で人並み以上に騎士らしく有ろうとしたのだろう。

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