ナバラの悪王 - シャルル・デヴルー

ナバラの悪王 - シャルル・デヴルー(1)

ナバラ王カルロス2世(シャルル・デヴルー)の仇名は悪王である。評判の悪い王として欠地王、怠惰王、残酷王、無思慮王などはいても、そのものズバリ悪と呼ばれる人はそういない。といって非常に悪逆だったというわけではなく、どちらかと言うと欲深くて無節操、他人任せで当人は無能という二股膏薬かイソップ物語のコウモリのように信用できない小者の悪人だったが、その最期が神罰に当たったように悲惨だったため、この名で知られているのだろう。

彼はその血統とフランス貴族に占める地位により、百年戦争に大きな影響を与えているのだが、本人が何をしたという訳ではないため、その重要度は低く見える*1。

*1 Wikipediaの「百年戦争」の本文には何と載っていない。フランス王家の家系図に名が載っているだけである。

ナバラ王国はパンプローナを中心として現在のスペインとフランスに跨る国で、サンチョ大王の頃はアラゴン、カスティラも支配下に入れたが、分割相続でそれらが分離してレコンキスタの中で大国になったのに対して、比較的小国のまま、13世紀に男系が断絶し女系のシャンパーニュ伯ティボーが継承したためフランスとの繋がりが強くなり、14世紀末にフランス王フィリップ4世とナバラ女王ジャンヌ(1世)との結婚によりフランスと同君連合となった。しかし、バロワ朝成立時にルイ10世の長女ジャンヌ(2世)がナバラ女王となって分離し*2、フランス王族エヴルー伯フィリップ*3と結婚して生まれたのがシャルル(カルロス)悪王である。ナバラ王と言いながら、男系、女系ともフランス王家に近いサラブレッドで*4、悪王の姉ブランシュ*5はフィリップ6世と、悪王はジャン2世の娘ジャンヌと結婚しており、婚姻関係も密接だった。

しかし、ジャンヌ2世は、サリカ法が適用されていなければフランス女王になっていたかもしれず(ネールの塔 参照)、また当初は女系でも男子は継承可能という解釈もあったため、バロワ朝フィリップ6世の即位後に誕生したシャルル悪王には、本来なら自分がフランス王という思いがあった。

*2 フィリップ4世の弟バロワ伯シャルルの系統であるバロワ家にはナバラ王家の血統が入っていない
*3 フィリップ4世の末弟エヴルー伯ルイの嫡男
*4 立場はエドワード3世と似ているが、彼よりも女系の継承権は高く、一方、ナバラはイングランドよりはるかに弱体だった。
*5 フランス王妃は決して再婚しない 参照

またナバラ王家はティボーの代からシャンパーニュを領有していたが、同君連合の解消時に、バロワ朝はイル・ド・フランスに隣接するシャンパーニュとブーリの確保を望み、代わりにアングレームとモルタン、コタンタン半島の一部(ロングヴィル)がナバラ王家に与えられたが、アングレームはさらにポントワーズなど幾つかのヴェクサンの所領と交換された。これに加えて、シャルル悪王は、父方からエヴルーを継承し、ノルマンディを中心にフランスに大きな所領を有していたが、大きく豊かなシャンパーニュとブーリが比較的小さな所領に交換されたことに不満を持っていた。

彼は1349年に母の死により17歳でナバラ王となり、折りしもクレシーの敗戦と黒死病の流行でフランスが混乱に陥る中で、自分の影響力の拡大を計っていた。

1350年に即位したジャン2世は、悪王を警戒しながらもラングドックの司令官に任命し、娘ジャンヌと結婚させるなど、それなりに厚遇したが、カスティラ出身のシャルル・ド・ラ・セルダ*6を重用し、王軍総司令官に任命してアングレームを与えていた。このような外国人の厚遇はフランス貴族の憤慨を呼んだが、中でも自分に権利があると思っていたアングレームがド・ラ・セルダに与えられたことを悪王は個人的な侮辱と受け取っていた。

*6 1350年のウィンチェルシーの海戦でカスティラ海軍を率いて戦った後、ジャン2世に仕えていた。ジャン2世の即位時には、エドワード3世やシャルル悪王を支持するフランス貴族もいたため、油断ならないフランス貴族より信頼を置いていたようだ。

1353年のクリスマスにシャルル悪王とフィリップ・デヴルーの兄弟はジャン2世の面前でド・ラ・セルダと激しい口論をし、1354年1月にフィリップの率いる一団がド・ラ・セルダを襲撃して殺害した。

ジャン2世は激怒したが、悪王がイングランドと結ぶ動きを見せたため、一旦は我慢して罪を不問にした上、ノルマンディに新たに領地を与えて懐柔したが、イングランドと1年の休戦を結ぶと11月には悪王のフランス内の領地を没収した。

しかし、休戦が終わり1355年4月からイングランドが攻勢に出ると、9月にジャン2世は再び悪王と講和したが、悪王が再びイングランドとの同盟や、王太子シャルル(5世)に接近してジャン2世排除の動きを見せたため、1356年4月に悪王を逮捕して拘留した*7。

*7 一国の王を逮捕するのは、どうなのかと思うが、悪王はフランスでは王族エヴルー伯として行動しているからだろう。同様の危険性はギエンヌを領有するイングランド王にもあり、エドワード3世は迂闊に呼び出しに応じることはなかった。

ナバラの悪王 - シャルル・デヴルー(2)

1356年9月のポワティエの戦いでフランスは大敗し、ジャン2世がイングランド軍の捕虜となり状況は一変した。民衆は情けない王と貴族に憤慨し、王太子シャルル(5世)が開いた三部会では第3身分が主導権を握り、王権を制限する評議会の設置を要求した。

王太子と三部会の対立は続き、パリ市民を代表するエティエンヌ・マルセルは新たな後ろ盾を求めて、1357年11月に幽閉されていた悪王を釈放した*8。悪王はノルマンディで勢力を拡大し、この情勢を憂いたジャン2世は1358年1月に第一次ロンドン条約をイングランドと締結した。しかしアキテーヌ等の広大な領土の割譲を含む条約に激怒したパリ市民は、2月に暴徒化して王宮を襲い王太子は逃亡した。

王太子、悪王、マルセルの権力闘争の中で1358年5月にボーヴェを中心にジャックリーの乱が起きた。王太子は有効な手を打てず、マルセルはこれと連携を試みるが、ノルマンディに所領を持つ悪王は貴族の要請もあり乱討伐の中心人物となった。*9

*8 ド・ラ・セルダの暗殺は貴族には好意的に受けとられており、ジャン2世に代わる候補として期待が高まっていた。
*9 この時は自ら出陣しているが、メロの戦いではジャックリーの指導者ギヨーム・カレを交渉に呼び出して捕らえ残虐に処刑した後、指導者を失って混乱したジャックリー達を皆殺しにしている。

追い詰められたマルセルは悪王を頼って7月にパリに招き入れるが、悪王が連れてきたイングランド傭兵と市民が争い、悪王は一旦退去する。7月末には悪王が多数のイングランド兵を連れて報復することを恐れた反マルセル派のパリ市民がエティエンヌ・マルセルを殺害し、王太子はパリに入城して権威を回復した。

不利になった悪王はシャンパーニュ、ブーリ、ピカルディの取得を条件にイングランドと交渉するが、もはやエドワード3世は悪王を信用せず、ジャン2世と第二次ロンドン条約を結んでしまった。両陣営から見捨てらた悪王は元の領土の安堵を条件に王太子に屈服し、これは1360年のカレー条約の和平時にも確認された。

一旦は野心を捨て大人しくなった悪王だが、1361年にブルゴーニュ公が死去した際、ジャン2世は女系の長系である悪王を差し置いて、同じく女系だが親等が近い自分が継承する裁定をし、息子のフィリップ(豪胆公)に与えた(ブルゴーニュ公国 参照)ため、悪王はこれを恨んでノルマンディとブルゴーニュに侵攻する計画を建てた。

悪王はポワティエの戦いで活躍したガスコーニュの貴族ジャン・ド・グライーをエドワード黒太子の紹介で雇っており、1364年にグライーをノルマンディに送り、弟のルイが各地の略奪傭兵団を糾合してブルゴーニュに侵攻した。

シャルル5世は各地を占領する略奪傭兵団を討伐するにあたって、戦上手なブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランを登用していたが、先んじてゲクランに悪王のノルマンディ領を制圧させていた。彼等は5月にコシュレルで激突したがゲクランの勝利に終わり*10、悪王の企図は頓挫する。しかし、ブルターニュに転戦したゲクランが9月にオーレの戦いで捕虜になり、悪王はノルマンディの失地をいくらか回復し、1365年にシャルル5世と和解した。

*10 名指揮官として知られたグライーとの勝利により、ゲクランの名声は一躍、高まった。

しかし、今度はカスティラのペドロ残酷王、エドワード黒太子、エンリケ・トラスタマラ(恩寵王)の争いの中でナバラは通り道となり、両陣営との交渉で漁夫の利を得ようとするも結局は軽んぜられ、黒太子に同行させられるのを避けるために、オリビエ・ド・モーニに襲撃させ自作自演で捕虜となって西欧の笑い者になった。

シャルル5世がイングランドに反攻した1369年からは再びイングランド、フランス両方と交渉して利益を得ようとしたが、シャルル5世は交渉に応ぜず、イングランドと秘密同盟したが、1370年12月の「ポンヴァヤンの戦い」でイングランドが敗れると、悪王は再びシャルル5世に屈服した。

エンリケ恩寵王のカスティラと同盟したシャルル5世は、イングランド、ブルターニュに対して優位に立っており、1378年に悪王の有するフランス領土が全て没収され*11、さらに1379年にはカスティラに領土を割譲して和を請わなければならなかった。

*11 イングランドとの同盟やシャルル5世の暗殺計画などの罪で告発されているが、このタイミングなのはエドワード3世も亡くなり、懸案を片付けたということだろう。

こうして失敗と屈辱にまみれた彼の1387年の最期は神罰を受けたと思わせるもので、悪王の仇名を決定づけたようである。

重病に罹った彼は、治療としてブランディを染み込ませた包帯で全身をぐるぐる巻にされたが、不注意なメイドが包帯の端を火で焼き切ろうとロウソクを近づけたところ引火し、驚いたメイドは逃げてしまい、悪王は生きたまま焼け死んだ*12と言われる。54歳だった。

彼の悪評の幾つかは自らの正統性を強調したいフランス王家により流布されたようだが、騙し討ちや毒殺の噂はいくつもあり、小悪党という意味では相応しい仇名だと言えよう。

*12 悪人が地獄の業火で焼き殺されるというのは神の裁きを思わせる。

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