ブルゴーニュ公国

ブルゴーニュ公国(1) - ブルゴーニュ派 対 アルマニャック派

百年戦争の後半というのは、イングランドとフランス王家の争いというより、フランス王家の内乱であった。1360年のカレー条約の後の反攻*1により、フランスはカレーを除いて、ほぼ百年戦争開始時の領土に戻したが、シャルル5世の死後に跡を継いだシャルル6世(在位:1380–1422)は精神的な異常*2があり、このため王族が国政に力を振るうことになった。

*1 和平条約を結んでまもなく、口実をつけて一方的に破っているのであるが。
*2 シャルル6世の母(ジャンヌ)方のブルボン家には精神異常の遺伝があった。余談だが、カスティラのペドロ残酷王がブルボン家の公女ブランシュ(ジャンヌの姉)と結婚しながら、寄せ付けなかったのは、そのせいかもしれない。

シャルル5世の弟にはアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)がいた。ブルゴーニュ公位は1361年に男直系が絶えた際に、マルグリッド*3の孫のナバラ王シャルル悪王とマルグリッドの妹のジャンヌ(フィリップ6世王妃)の子であるフランス王ジャン2世が争い、長系なら前者、親等の近さなら後者なのだが、それよりもジャン2世が現役のフランス国王であることが決め手になったのだろう。しかし、ブルゴーニュの貴族たちは、王領への併合を拒絶したため、公位はジャン2世の末の息子であるフィリップに与えられた。フランス王家としては、一旦、王領としたものを親王領(アパナージュ)としてフィリップに与えたと解釈していたが、ブルゴーニュではフィリップが通常の相続によりブルゴーニュ公領を継承したと見なしていた*4。

*3 ネールの塔で出てきたルイ10世の不貞の王妃
*4 親王領の場合、男系が断絶すると王領に吸収されるが、通常の貴族の相続であれば女系継承が行われる。後にシャルル突進公の戦死後、娘のマリーが相続人として残された時にこれが問題となった。

さらにフランドル伯の相続人マルグリットとの結婚により、フランドル伯領、アルトワ伯領に加えて、隣接するブルゴーニュ伯領*5も領有することになった。フランドルは非常に豊かな地域であり、アルトワ伯領、ブルゴーニュ伯領も広大な地域であるため、フィリップ豪胆公はフランスでもっとも勢力のある大貴族となった。

*5 ネールの塔で出てきたフィリップ5世の娘がフランドル伯と結婚していたため。このようにフランス王家は何重もの婚姻を重ねることにより王家に領土を集めようと画策しており、その結果、フランスは全ての領土が王領となることで統一されたのである。

シャルル6世の幼年時には叔父であるアンジュー公ルイ*6とブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が摂政を務めたが、両者とも自領、自勢力の拡大に国費を流用したため、やがてシャルル6世は成人して親政を始めると彼らを遠ざけて側近政治を行った。しかし、元々、精神上の問題があったシャルル6世は、1392年のブルターニュ遠征時に兵が槍を落とした音に謀反かと驚き錯乱し、一旦は落ち着いたものの、まもなく「燃える人の舞踏会」事件*7を契機に本格的な狂気を発するようになった。

*6 哀愁のナポリ王国で述べたようにナポリ王国の後継者となっており、そちらに注力していた。
*7 舞踏会の際に、シャルル6世を含む5人の貴族が野蛮人に扮した踊りを行ったが、その最中に松明の火が燃え移って4人が焼け死にし、これ以降、シャルル6世の精神状態が極めて不安定になった。

このため再び、国政は叔父のブルゴーニュ公フィリップと弟のオルレアン公ルイが行うようになったが、両者はしばしば対立した。この対立に拍車をかけたのが、シャルル6世王妃イザボー・ド・バビエールで、彼女はオルレアン公を支持したが、2人の愛人関係が噂されるようになった。

それでもフィリップ豪胆公(在位:1363年 - 1404年)の代では、あくまで宮廷闘争の範囲に収まっていたが、その死後、新しいブルゴーニュ公に息子のジャン無怖公(在位:1404年 - 1419年)*8が就くと対立は激化し、双方が王や王太子の身柄を確保しようと争ったが、1407年にオルレアン公ルイが暗殺*9されたことにより、争いは武力闘争に変化した。

*8 対トルコのニコポリス十字軍で大敗したが、その際の勇猛さと無思慮さから、無怖と仇名された。
*9 オルレアン公ルイには多くの不倫相手がおり、その夫の1人を含む集団により暗殺されたが、背後にはブルゴーニュ公がいたと見なされている。

オルレアン公の後継者シャルルは、1410年にアルマニャック伯ベルナールの娘と結婚し、彼等は南部に勢力を維持してアルマニャック派と呼ばれ、東部に勢力を持つブルゴーニュ派との内戦が開始されることになった。

ブルゴーニュ公国(2) - トロワ条約

この間にイングランドでも内紛が起きており、1399年にリチャード2世が廃され、ヘンリー4世がランカスター朝を開始していたが、国内の反乱鎮圧に追われており、フランス側の脅威ではなくなっていた。

そこで、アルマニャック派、ブルゴーニュ派ともにイングランド王の支援を要請*10したが、1413年に新王となったヘンリー5世はより大きな野心を持ち、これに乗じてノルマンディに侵攻したため、アルマニャック派が中心*11のフランス軍がアジャンクールでイングランド軍と激突したが、結果は数に優るフランス軍の大敗で、オルレアン公やブルボン公は捕虜になり、多くの貴族が戦死した*12。

*10 フランドルを有するブルゴーニュはどちらかと言うと親イングランドであり、アルマニャック派は両者の同盟を防ぐためにイングランドを懐柔しようとしていた。
*11 ジャン無怖公は中立を保ったが、無怖公の弟のブラバント公やヌヴェール伯は参戦し戦死している。
*12 戦死というより、戦闘中に多くの捕虜を得て管理に手が余ったため捕虜を殺しており、ヘンリー5世の汚点となっている。

1417年になるとヘンリー5世はノルマンディ制圧に動き、ノルマンディ低地の征服後、首府であるルーアンを包囲したが、フランス側はアルマニャック派とブルゴーニュ派が協力できず、共に自派に有利なイングランドとの取引を試みたため有効な手を打てなかった。

両派の対立はむしろ激化し、1418年には無怖公を支持するパリの屠殺業者らがアルマニャック伯を暗殺し、ブルゴーニュ派がパリを制圧し、王太子シャルル(7世)はパリから脱出した。

1419年に入るとルーアンは陥落し、8月にはイングランド軍がパリを包囲したため、ここで、両派に和解の動きが出たが、9月に和議のための会合地であるモントロー橋の上で、王太子シャルルの手の者が、かってのオルレアン公暗殺の報復として無怖公を殺害してしまった。

この暗殺が王太子シャルルの指示なのか、黙認なのか、あるいは全く予想外の出来事だったのかは明確ではない*13が、ブルゴーニュ公の跡を継いだフィリップ善良公は激怒し、直ちにイングランドと同盟して、対王太子戦を行うことになり、ここで百年戦争は大きな転換点を迎えた。1420年にトロワ条約が結ばれ、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の結婚、王太子シャルルの廃嫡、ヘンリー5世をフランス王の後継者としシャルル6世の摂政とすることが取り決められ、これは三部会でも承認された。

*13 本人は関与しておらず、知らなかったとしているが、いずれにしても騙し討ちした責任は逃れられない。

この背景には、母であるイザボーが王太子シャルルがシャルル6世の子ではなく王位継承権がないことを仄めかした*14とされ、和平交渉の場で相手を殺害して評判が悪化していた王太子シャルルは、アンジュー公ルイ2世の妻ヨランド*15を頼って南部のブルージュに落ち延びた。

*14 オルレアン公ルイの子と推定されており、王家の血を引いていない訳ではないが、誰の子にしろ正式な婚姻による嫡出子でなければ相続権はない。
*15 アラゴン王女で四ヶ国の女王と呼ばれた。夫の権利と併せてアラゴン、シチリア、ナポリ、エルサレムの女王を僭称していたが実効支配した国はない。しかし、多くの所領を有していたため裕福であり、娘(マリー)婿である王太子シャルルの重要な後援者として、宮廷政治にも強い影響力を持った。

1421年に息子ヘンリー(6世)も生まれ、絶頂状態だったヘンリー5世だが1422年に急死し、続けてシャルル6世も亡くなったため、再び状況は混沌としてきた。ヘンリー5世の弟ベドフォード公ジョンがヘンリー6世の摂政となった。一方、アルマニャック派で王太子シャルルが非嫡出子だと考える人々はオルレアン公シャルルを継承者と考えたが、彼はアジャンクールでイングランド軍の捕虜になったままだった。

これに対して、王太子シャルルはブルージュで戴冠し王を名乗ったが、反対派からは侮蔑的にブルージュ王(ブルージュのみの王)あるいは単にドフィーネ(王太子)*16と呼ばれ続けた。

*16 フランス王太子は南部のドーファン領が与えられたため、ドフィーネと呼ばれていた。反対派は彼が王太子から廃嫡されたと看做しているため、単にドーファンの領主としてドフィーネと呼んでいるのだろう。

ベドフォード公はフランス摂政として戦争を有利に進め、1423年にはフィリップ善良公の娘アンヌとの結婚により両者の同盟は強化されたが、弟のグロスター公ハンフリーなど有力者をまとめるのに苦労した。特にハンフリーが1422年にエノー伯領、ホラント伯領、ゼーラント伯領(現在のオランダ、ベルギーのかなりの部分)の相続人であるジャクリーヌと結婚したことにより、この地域を争っていたブルゴーニュ公との関係が悪化し、1425年には一時期、戦闘状態となった。

一方、王太子シャルルの宮廷でも王軍総司令官リシュモンと宰相ド・ラ・トレモイユの派閥争いが激しくなり、1428年には武力闘争すら起きており、戦略的行動が取れなくなっていた。

ブルゴーニュ公国(3) - アラスの和約

1428年10月から始まったオルレアン包囲戦は戦略的に行われたものではなく、方面の司令官であるソルズベリー伯の判断だったと思われる。オルレアンはその主であるオルレアン公がアジャンクール以来、13年間、捕虜のまま*17であり、その異母兄弟であるデュノワ伯(オルレアンの庶子)が守っていた。

*17 アルマニャック派の推定相続人であるため、イングランドに留め置かれていた。彼が解放されたのは、さらに12年後である。

イングランド軍が当初の攻撃で橋横の守備塔を占拠し、短期に決着がつくかと思われたが、指揮官であるソルズベリー伯が負傷して搬送され(その後、死亡)、代わったサフォーク伯は持久戦を選択した。

1429年2月には、クレルモン伯とスコットランド部隊が援軍として到着し、イングランドの補給部隊を襲ったが大敗し(ニシンの戦い)、敗戦を非難されたクレルモン伯は退去してしまい、オルレアンの士気は低下した。デュノワ伯はブルゴーニュ公への降伏を打診し、王太子シャルルの宮廷でもブルゴーニュ公との講和が検討された。フィリップ善良公はオルレアン降伏の受け入れをベドフォード公に申し入れたが拒否され*18、憤慨してブルゴーニュ軍を引き上げさせた。

*18 イングランド軍が主体で攻撃していたものであり、申し訳程度の援軍を出していたブルゴーニュがその成果だけ受けるのは拒否して当然だろう。有利な状況であり限界は近いと判断していた。

ところが、ちょうどその頃、フランス東部の小さな村、ドン・レミの農民の娘が神から「オルレアンを救え」とのお告げを得たと地元の守備隊長に訴えていた。彼女はニシンの戦いの敗戦を予言しており、当初は子供の戯言と思っていた隊長もその敗戦の知らせを受け、彼女をアンジューのシノン城に居た王太子シャルルの元に送ることにした。

オルレアンの乙女ことジャンヌ・ダルクの果たした役割は2つあった。1つは良く知られる軍事常識に捉われない行動と士気の向上を与えた軍事上の功績であるが、もう1つは人々が疑いを抱いていた王太子の正統性である。神が支援したのであれば彼は正しくシャルル6世の子であり、であれば正当なフランス王だからである*19。政治的にはこちらの方がむしろ重要である。

*19 従者に変装していた王太子を正しく見分けたとか、王太子と2人切りの会話の中で彼しか知らない秘密をジャンヌが知っており、王太子はジャンヌが神の使いであることを確信したなどの逸話は実際の話であったかはともかく、王太子派にとってその正統性の証明として利用された。

5月のオルレアンの包囲の解放から続くロワール戦役、7月のランスでのシャルル7世の戴冠までは、全ての人間の予想を上回るトントン拍子であったが、9月のパリ攻撃が成功せず、翌年6月にコンピエーニュの攻防戦でブルゴーニュ軍に捕らえられた。シャルル7世側からすると既にジャンヌの役目は終わっていた。捕虜にされたこと自体、彼女の神の使者としての役割が終わっている証拠だった。シャルル7世は身代金を支払わず、ブルゴーニュ側は彼女をイングランドに引渡し、ルーアンでの宗教裁判により1431年に異端として火刑に処された*20。

*20 神のお告げを聞いたと述べる者は聖人でなければ異端の魔女である。彼女はボヘミアのフス派への手紙で「貴方達の狂気と誤った迷信を取り除き、異端か命のどちらかを奪うでしょう」と述べており、彼女を裁いた者達と本質は変わらない。

1432年にベドフォード公の妻アンヌ(善良公の娘)が亡くなり、イングランドとブルゴーニュの関係は冷却化し、ブルゴーニュはシャルル7世との和解を模索するようになった。

1435年に前王妃イザボー・ド・バビエールと摂政ベドフォード公*21が相次いで亡くなり、同年のアラスの和約で、ブルゴーニュは、ブルゴーニュ領が事実上フランスから独立することと引き替えに、イングランドとの同盟を解消し、シャルル7世をフランス王として認めた。これによりブルゴーニュは、イングランド-フランス間の戦いから離れて、以降はネーデルラントでの勢力拡大と文化面での繁栄に注力することになった。

*21 イザボーは息子のシャルル7世の正統性への疑惑の生き証人であり、彼女が亡くなることで、その疑惑を証明できる者がいなくなった。またトロワ条約に関与した人間もフィリップ善良公以外にいなくなったことになる。

百年戦争は山場を越え、フランスは以降、ゆっくりとイングランドから領土を回復し、1449年にルーアン、1451年にボルドーを奪い、カレー以外のイングランドの大陸領土を全て奪うことに成功した。

ブルゴーニュ公国(4) - 中世の秋

フィリップ善良公一代の間は、フランスとはしばしば揉めることはあったものの、フランス王族として婚姻を結んで関係を保ち、実質的な独立国として「西の大公」を名乗り、フランドルを中心としたネーデルラント領は産業、文化の中心として繁栄を極めた。彼が1430年に創設した金羊毛騎士団はヨーロッパでもっとも権威のある騎士団の1つとなり、ヨーロッパの騎士道・宮廷文化の中心地として、初期フランドル派の絵画やブルゴーニュ楽派の音楽が花開いた。

ところが1467年に跡を継いだ息子のシャルル突進公は、父とは正反対の野心家であり、アルザス、ロレーヌといったブルゴーニュとネーデルラントを繋ぐ地域を獲得して、かっての中フランク王国にあたる独立王国の建設を夢見ており、産業、文化を振興した父とは正反対に軍備強化に力を注いだ。

1468年にはヨーク朝のエドワード4世の妹マーガレットと結婚し、イングランドと同盟を結び、1470年にウォリック伯の反乱によりエドワード4世が亡命してきた際には援助して、その関係を強めた。

1473年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に王位の承認を求めた。フリードリヒ3世が夜中に逃亡して有耶無耶になったが、シャルル突進公は拡大政策を推進した。

しかし、フランス王にとっては、百年戦争を有利に進めるためにアラスの和約では半独立を認めたが、完全にフランスとは別の王国に分離することは許容できるものではなかった。世界の蜘蛛と仇名された陰謀家のフランス王ルイ11世*22は、ブルゴーニュ包囲網を作り始めており、1475年にはブルゴーニュの同盟者であるイングランド王エドワード4世とピキニー条約を結んで休戦した。

*22 父のシャルル7世に対しても何度も反乱を起こし、その際にフィリップ善良公を頼るなど常に向背定まらない陰謀家だったが、着実にフランス王権を強化していった。

シャルル突進公の積極的拡大策は、ルイ11世の画策もあり、周囲の王侯の警戒を呼んだ。オーストリア大公は一旦は売却したアルザスの買い戻しを求め、これを拒否したシャルルと敵対した。ロレーヌ公ルネ2世とはロレーヌの所有を巡って争い、スイスはブルゴーニュに反乱した都市と同盟関係にあり、後にオーストリア、ロレーヌ、フランスに雇われてブルゴーニュと交戦を繰り返した(ブルゴーニュ戦争)。

シャルル突進公は当初、スイス傭兵を農民兵として甘く見ていたため再三苦杯をなめ、結局、スイス傭兵に足をすくわれる形になって、1477年にナンシーで戦死し、彼の野望は頓挫した。

中世の時代区分には諸説ある*23が、騎士道文化を代表するブルゴーニュ公国の終焉をもって中世の終わりとする見方もある。

*23 一般的には1453年のコンスタンティノープル陥落とすることが多い。

ブルゴーニュ家には嫡出の男子はなく、彼の死後、娘のマリーが相続人となりハプスブルク家のマクシミリアン1世と結婚したが、フランス王はブルゴーニュはフランスの親王領(アパナージュ)*24であると主張して、ブルゴーニュを占領した。ブルゴーニュは、この後、フランスとハプスブルクの間で何度も争われることになる。

*24 男系分家を維持するために親王家として与えた領地。男系が絶えると返還することになっていたが、すんなり返還される例は少ない。ブルゴーニュ公領は親王領として与えられたものではないとの主張もあり、ハプスブルク家は当然ながら返す気はなかった。

ネーデルラントはマリーが所有したが、ハプスブルク帝国の一部となった。孫にあたる神聖ローマ皇帝カール5世がスペインの継承者となり、カール5世がその領土を東西に分割した際にはスペイン側に入ったが、商業中心のネーデルラントの体質はスペインとは根本的に合わなかった。それは宗教改革後の宗教上の違いにも表れ、カトリックの守護者スペインに反抗するプロテスタントにより独立運動が起こり、やがてネーデルラント連邦として独立することになる。

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