ヨーロッパの封建時代において、騎士は10人の歩兵に匹敵するといわれた。多少、大袈裟なようでもある。騎士が歩兵の身分を卑しんで自らの価値を高く表現したのかもしれないし、騎士1人を維持するには戦闘用に特別に飼育された馬と重装備、そして従者が必要であるため、封土の計算の上で、騎士の維持費が歩兵の10倍かかるということなのかもしれない。
しかし、実際、13世紀頃までは、それくらいの兵力差があっても騎士隊が勝つ可能性は十分にあった。この時代の歩兵は軽装備の上、適切な訓練を受けていないため集団として規律ある行動がとれず、何よりもあまり戦意がなく、重装騎士の騎兵突撃を受けると簡単に崩れて、騎士に撫で切りにされることはよくあった。
歩兵は前哨戦として矢戦や歩兵同士の戦闘をしても、会戦を決定づけるのは騎士隊同士のぶつかり合いで、自軍の騎士隊が敗れて退却すれば、取り残された歩兵は敵の騎士隊に蹂躙された。
クロスボウは重装の騎士に対しても有効であり、都市市民兵や傭兵などに普及したが、高価であるため多数の数を揃えることは難しかった。
ヨーロッパ中世で最初に歩兵中心の部隊が騎士中心の部隊に打ち勝ったのは13世紀末のスコットランド独立戦争のスターリング・ブリッジの戦いとフランドルの金拍車の戦いである。
前者は、ウイリアム・ウォレス*らの槍歩兵がイングランドの騎士隊に勝利しているが、異民族であるイングランドに対する抵抗として戦意が高かったこと、イングランドの指揮官が1貴族に過ぎないサリー伯だったこと、そして何よりイングランド側が相手を軽視し、無謀な作戦を取ったことが原因であり、イングランドの騎士隊が当時のヨーロッパの主要国では最弱とも見なされていたこともあり、これをもって歩兵が騎士に打ち勝てるようになったとの一般化はできない。
* 映画「ブレーブハート」で一躍、有名になったスコットランドの英雄であるが、実態はかなり異なっている。
後者は、ほとんど同時期にフランドルのコルトレイクでフランス騎士隊とフランドル都市市民軍の間で戦いが行われた。フランス騎士はヨーロッパ最強を自認していたが、これに対して歩兵中心の市民軍は騎兵突撃を阻む足場の悪い土地に陣取り、勢いの弱い騎兵突撃をくい止めることができた。これは、フランスの指揮官アルトワ伯が相手を見くびって騎兵突撃を急いだことと、富裕なフランドル市民の装備、訓練が良く、士気も高かったことが理由として挙げられる。
どちらの例も有利と信じていた騎士隊側の油断と作戦のまずさが主原因であり、歩兵が騎士に匹敵するようになったとの認識は未だなかった。
騎士と歩兵
騎士と歩兵(1) - スコットランドとフランドル
騎士と歩兵(2) - ロングボウ兵
本格的に歩兵が騎士に対抗する戦力と看做されるようになったのはイングランド・ウェールズのロングボウ兵である。
スターリング・ブリッジの敗戦に驚いたイングランド王エドワード1世は急遽、戦争中のフランスと和睦してスコットランド鎮圧に向かった。
フォールカークの戦いでは、スコットランドの槍歩兵の密集集団はよく騎士隊の突撃を阻んだが、それを見たエドワード1世が、臨機応変に騎士を下げて、弓隊の一斉射撃を行ったため、歩兵の密集が崩れ、続く騎士の突撃により蹴散らされている。この時のイングランド弓隊の主力がイングランドとウェールズのロンンボウ兵である。
イングランドの騎士隊はヨーロッパ主要国の中では最弱といってよく、イングランド王家のプランタジネット家は大陸の戦争にはノルマンディ、アンジュー、アキテーヌ等の大陸の兵を使っていたが、ジョン王の時に大陸領土の大部分を失ったことでその戦略を見直す必要に迫られた。
ブリテン島での勢力増強のためにウェールズを攻めたエドワード1世は、ウェールズのロングボウの威力に注目したのである。ウェールズでは単に威力のある弓として個々に使用されていたためイングランドにとってそれ程、脅威とはならなかったが、エドワード1世はこれを組織的に使えば、大きな力になると考えて、イングランドでもロングボウの導入を進め、全てのイングランド人にロングボウの訓練をすることを命じた。
ロングボウは威力が強い分、扱いが難しく、幼い頃からの日頃の訓練が必要であり、効果的に使用するには大人数が整然と一斉射撃と速射を行う必要があった。
その成果が最初に現れたのがフォールカークの戦いであるが、元々、スコットランドはイングランドよりもはるかに弱体で勝って当然の相手であり、ロングボウの威力はそれ程、評価されなかった。
しかし、百年戦争の開始と共にその威力が発揮されることになった。当初はエドワード3世自身がそれ程、自信をもっておらず、フランドル、エノー等低地諸国(ネーデルラント)の兵を借りて戦っていたが、さほど成果を挙げられず金銭が尽きたため、イングランド兵を中心とした戦略に切り替えた。
その成果はまずスロイスの海戦で現れ、ブルターニュやスコットランドの戦いでも示されたが、やはり注目を浴び、人々の度肝を抜いたのが、騎士隊を中心に3万人を超える兵力のフランスに対して半数以下の1万数千人で歩兵中心のイングランドが大勝利を収めたクレシーの戦いである。
この時代の騎士の装備は自前で、貧富により様々であり、騎兵突撃の際は、装備の良い騎士を前面に配置するのであるが、ロングボウは曲射による一斉射撃と速射で、騎士隊が通常よりはるか遠方にいる時点で攻撃を始めることができ、矢は前面の騎士を越えて装備の弱い後部の騎士に命中した。騎兵突撃は矢に耐えて短時間に敵陣に突入することが肝要であるが、通常よりも長時間に渡り膨大な数*の矢を受けたため、敵陣に達することができなかったのである。
* 当時、この規模の軍の弓兵は精々、2~3千人だったが、イングランドのロングボウ兵は全兵の半数を超える約7000人もいた。
フランス側では未だ新米王であるフィリップ6世が、貴族たちを十分制御できなかったこと、ジェノヴァのクロスボウ兵を有効に利用できなかったこと、圧倒的多数のため相手を甘く見ていたなどの理由があるが、それにしても少し前までは想像もできないロングボウ兵の大勝利だった。
この後は、フランス側もロングボウに対する警戒を強めその対策を講じだすが、騎兵突撃を止めて馬から降りて重装歩兵として戦う方法は騎士としての利点を失うことになった。ポワチエの戦いではこの方法がある程度、功を奏したが、軽騎兵に後ろに回り込まれる結果になったのは、その功罪といえるだろう。
もう1つのロングボウ対策は装甲を強くすることで、体全体を鋼鉄板(プレート)でくまなく覆い、そのプレートは厚くなっていった。ポワチエの戦いから50年以上後のアジャンクールの戦いでは、ロングボウはほとんど騎士の装甲を打ち抜くことは出来なかったというが、それでも弾幕のように降り注ぐ矢は騎士の突撃を食い止めることはできた。
戦争の形態に大きな変化を与えたロングボウであるが、ロングボウを自在に扱うには長期間の訓練が必要であり、王権の強いイングランドでは、王の命令でロングボウ兵を育成することができたが、未だ封建貴族の強い大陸地域で同じような育成を行うことは難しかった。また、騎士・貴族の意識としては矢のような飛び道具は卑怯だという考えが残っており、イングランド王自身、国力、騎士の数の差を補うため、しかたなくロングボウを多用しているとしばしば言い訳をしている。
百年戦争以後になると、徐々に火縄銃・マスケット銃が普及し始めた。当初は射撃間隔・精度でロングボウに劣ったが、さほど訓練しなくとも使用でき、その貫通威力はクロスボウを超えるため、大陸で使用されるようになり、イングランドでもヘンリー8世の頃にはロングボウに取って代わるようになった。
スターリング・ブリッジの敗戦に驚いたイングランド王エドワード1世は急遽、戦争中のフランスと和睦してスコットランド鎮圧に向かった。
フォールカークの戦いでは、スコットランドの槍歩兵の密集集団はよく騎士隊の突撃を阻んだが、それを見たエドワード1世が、臨機応変に騎士を下げて、弓隊の一斉射撃を行ったため、歩兵の密集が崩れ、続く騎士の突撃により蹴散らされている。この時のイングランド弓隊の主力がイングランドとウェールズのロンンボウ兵である。
イングランドの騎士隊はヨーロッパ主要国の中では最弱といってよく、イングランド王家のプランタジネット家は大陸の戦争にはノルマンディ、アンジュー、アキテーヌ等の大陸の兵を使っていたが、ジョン王の時に大陸領土の大部分を失ったことでその戦略を見直す必要に迫られた。
ブリテン島での勢力増強のためにウェールズを攻めたエドワード1世は、ウェールズのロングボウの威力に注目したのである。ウェールズでは単に威力のある弓として個々に使用されていたためイングランドにとってそれ程、脅威とはならなかったが、エドワード1世はこれを組織的に使えば、大きな力になると考えて、イングランドでもロングボウの導入を進め、全てのイングランド人にロングボウの訓練をすることを命じた。
ロングボウは威力が強い分、扱いが難しく、幼い頃からの日頃の訓練が必要であり、効果的に使用するには大人数が整然と一斉射撃と速射を行う必要があった。
その成果が最初に現れたのがフォールカークの戦いであるが、元々、スコットランドはイングランドよりもはるかに弱体で勝って当然の相手であり、ロングボウの威力はそれ程、評価されなかった。
しかし、百年戦争の開始と共にその威力が発揮されることになった。当初はエドワード3世自身がそれ程、自信をもっておらず、フランドル、エノー等低地諸国(ネーデルラント)の兵を借りて戦っていたが、さほど成果を挙げられず金銭が尽きたため、イングランド兵を中心とした戦略に切り替えた。
その成果はまずスロイスの海戦で現れ、ブルターニュやスコットランドの戦いでも示されたが、やはり注目を浴び、人々の度肝を抜いたのが、騎士隊を中心に3万人を超える兵力のフランスに対して半数以下の1万数千人で歩兵中心のイングランドが大勝利を収めたクレシーの戦いである。
この時代の騎士の装備は自前で、貧富により様々であり、騎兵突撃の際は、装備の良い騎士を前面に配置するのであるが、ロングボウは曲射による一斉射撃と速射で、騎士隊が通常よりはるか遠方にいる時点で攻撃を始めることができ、矢は前面の騎士を越えて装備の弱い後部の騎士に命中した。騎兵突撃は矢に耐えて短時間に敵陣に突入することが肝要であるが、通常よりも長時間に渡り膨大な数*の矢を受けたため、敵陣に達することができなかったのである。
* 当時、この規模の軍の弓兵は精々、2~3千人だったが、イングランドのロングボウ兵は全兵の半数を超える約7000人もいた。
フランス側では未だ新米王であるフィリップ6世が、貴族たちを十分制御できなかったこと、ジェノヴァのクロスボウ兵を有効に利用できなかったこと、圧倒的多数のため相手を甘く見ていたなどの理由があるが、それにしても少し前までは想像もできないロングボウ兵の大勝利だった。
この後は、フランス側もロングボウに対する警戒を強めその対策を講じだすが、騎兵突撃を止めて馬から降りて重装歩兵として戦う方法は騎士としての利点を失うことになった。ポワチエの戦いではこの方法がある程度、功を奏したが、軽騎兵に後ろに回り込まれる結果になったのは、その功罪といえるだろう。
もう1つのロングボウ対策は装甲を強くすることで、体全体を鋼鉄板(プレート)でくまなく覆い、そのプレートは厚くなっていった。ポワチエの戦いから50年以上後のアジャンクールの戦いでは、ロングボウはほとんど騎士の装甲を打ち抜くことは出来なかったというが、それでも弾幕のように降り注ぐ矢は騎士の突撃を食い止めることはできた。
戦争の形態に大きな変化を与えたロングボウであるが、ロングボウを自在に扱うには長期間の訓練が必要であり、王権の強いイングランドでは、王の命令でロングボウ兵を育成することができたが、未だ封建貴族の強い大陸地域で同じような育成を行うことは難しかった。また、騎士・貴族の意識としては矢のような飛び道具は卑怯だという考えが残っており、イングランド王自身、国力、騎士の数の差を補うため、しかたなくロングボウを多用しているとしばしば言い訳をしている。
百年戦争以後になると、徐々に火縄銃・マスケット銃が普及し始めた。当初は射撃間隔・精度でロングボウに劣ったが、さほど訓練しなくとも使用でき、その貫通威力はクロスボウを超えるため、大陸で使用されるようになり、イングランドでもヘンリー8世の頃にはロングボウに取って代わるようになった。
騎士と歩兵(3) - パイク兵
歩兵が長槍を使って、整然と密集陣形を組めば重装騎士の突撃を食い止めることが可能なことは古代ギリシアの時代から分かったいたが、中世では歩兵は戦闘ごとに集められる農民兵であり、指揮に従った整然とした行動や騎士の突撃にも怯まず陣形を崩さないことは期待できなかった。
しかし、スコットランドやフランドルの例に見られるように、訓練を受け統率された歩兵の有効性が少しづつ示されるようになってきた。
そして、アルプス山中でも、同様の動きが起こり始めていた。スイス地方は神聖ローマ帝国の弱体に伴い自治権を獲得していたが、13世紀末にアルプスの交通が盛んになり、交通の要衝として、この地域の重要性が増すようになると、元々、スイス出身であるハプスブルク家が勢力拡大を目指して、この地を支配下に収めようとした。しかし、スイスの3州(カントン)はウイリアム・テルの伝説のように反抗し、スイス原初同盟を結んでこれに対抗した。
ウイリアム・テルと言えば林檎とクロスボウであるが、スイスの農民兵の主力武器は長槍(ハルバード、パイク)であり、これを使い、山地の特性を生かして、騎士中心のハプスブルク勢に打ち勝ち、14世紀中にその周辺に勢力を拡大するようになった。1315年のモルテガンの戦いは、ゲリラ的戦法による勝利であったが、その後の地域勢力との戦いではハルバードとパイクを中心とした規律のとれた歩兵部隊により連勝を続け、1386年のゼンパッハの戦いでは1500人の騎士を含む約4000人のハプスブルク軍を歩兵1400人で打ち破ったことで、その勇名はヨーロッパ中で知られるようになった。
スイスというと山中の平和な国というイメージがあり、ウイリアム・テルの逸話を見てもハプスブルク家が支配しようと侵攻してきたのを必死に防衛したように見えるが、最初はそうだとしても、周辺地域に戦争をしかけて領土拡大を計ったのは、むしろスイス原初同盟の方で、たまりかねたハプスブルク家とその同盟勢力が反攻してきたのを打ち破ったのがゼンパッハの戦いである。その後もスイスの領土は拡大していくが、この勇名によりスイス兵は傭兵として各地で求められるようになった。
1474年からのブルゴーニュ戦争でスイス兵の強さは決定的に評価されることになった。ブルゴーニュ公国の兵の構成はほぼフランスと同じで、百年戦争中に鍛えられ、重装騎兵と槍歩兵、弓、若干の砲、銃がバランス良く組み合わされており、ヨーロッパ最強の軍の1つと見なされていたが、これと一連の会戦を行い、全てに勝利を収め最後にはブルゴーニュ公シャルル突進公を敗死させている。
スイス兵の強みは、山中で鍛えられた体力、槍兵としての訓練、規律の高さなどにより、戦場で整然と行動をとれることであった。ロングボウや従来の長槍兵が守備的に騎士の突撃を受け止める受動的な立場だったのに対して、スイス兵は密集陣形を維持しながら、かなりの速度で前進し、必要に応じての展開、後退も規律を保ちながら行動することができた。特に傭兵の需要が増えると、彼らは半農の農民兵から軍事のみを行う職業兵士となったため、一層、その技量や規律は高くなった。また、スイス兵は従来の戦争の慣習である、「騎士は殺さず捕虜として身代金を取る」ことをしなかったこと、整然と行動するために打楽器のリズムや掛け声を多用したのも不気味で恐れられた。
この後、約30年間はスイス兵の全盛期で傭兵としてもイタリア戦争で引く手あまたであり、スイスもイタリア側にさらに勢力を拡張していったが、1515年にマリニャーノの戦いでフランスに敗れ、スイスの拡張は止められ、以降は、常時雇用のフランスの傭兵としてフランス常備軍の一翼となり、その関係はフランス革命まで続いた。最強伝説も崩れ始め、南ドイツに同じような性格の傭兵ランツクネヒトが誕生し、1525年のパヴィアの戦いではランツクネヒトが加わる皇帝・スペイン軍がスイス傭兵が加わるフランス軍に完勝した。しかし、この戦闘で最も活躍したのは火縄銃隊で、時代は銃火器に移ろうとしていた。
しかし、スコットランドやフランドルの例に見られるように、訓練を受け統率された歩兵の有効性が少しづつ示されるようになってきた。
そして、アルプス山中でも、同様の動きが起こり始めていた。スイス地方は神聖ローマ帝国の弱体に伴い自治権を獲得していたが、13世紀末にアルプスの交通が盛んになり、交通の要衝として、この地域の重要性が増すようになると、元々、スイス出身であるハプスブルク家が勢力拡大を目指して、この地を支配下に収めようとした。しかし、スイスの3州(カントン)はウイリアム・テルの伝説のように反抗し、スイス原初同盟を結んでこれに対抗した。
ウイリアム・テルと言えば林檎とクロスボウであるが、スイスの農民兵の主力武器は長槍(ハルバード、パイク)であり、これを使い、山地の特性を生かして、騎士中心のハプスブルク勢に打ち勝ち、14世紀中にその周辺に勢力を拡大するようになった。1315年のモルテガンの戦いは、ゲリラ的戦法による勝利であったが、その後の地域勢力との戦いではハルバードとパイクを中心とした規律のとれた歩兵部隊により連勝を続け、1386年のゼンパッハの戦いでは1500人の騎士を含む約4000人のハプスブルク軍を歩兵1400人で打ち破ったことで、その勇名はヨーロッパ中で知られるようになった。
スイスというと山中の平和な国というイメージがあり、ウイリアム・テルの逸話を見てもハプスブルク家が支配しようと侵攻してきたのを必死に防衛したように見えるが、最初はそうだとしても、周辺地域に戦争をしかけて領土拡大を計ったのは、むしろスイス原初同盟の方で、たまりかねたハプスブルク家とその同盟勢力が反攻してきたのを打ち破ったのがゼンパッハの戦いである。その後もスイスの領土は拡大していくが、この勇名によりスイス兵は傭兵として各地で求められるようになった。
1474年からのブルゴーニュ戦争でスイス兵の強さは決定的に評価されることになった。ブルゴーニュ公国の兵の構成はほぼフランスと同じで、百年戦争中に鍛えられ、重装騎兵と槍歩兵、弓、若干の砲、銃がバランス良く組み合わされており、ヨーロッパ最強の軍の1つと見なされていたが、これと一連の会戦を行い、全てに勝利を収め最後にはブルゴーニュ公シャルル突進公を敗死させている。
スイス兵の強みは、山中で鍛えられた体力、槍兵としての訓練、規律の高さなどにより、戦場で整然と行動をとれることであった。ロングボウや従来の長槍兵が守備的に騎士の突撃を受け止める受動的な立場だったのに対して、スイス兵は密集陣形を維持しながら、かなりの速度で前進し、必要に応じての展開、後退も規律を保ちながら行動することができた。特に傭兵の需要が増えると、彼らは半農の農民兵から軍事のみを行う職業兵士となったため、一層、その技量や規律は高くなった。また、スイス兵は従来の戦争の慣習である、「騎士は殺さず捕虜として身代金を取る」ことをしなかったこと、整然と行動するために打楽器のリズムや掛け声を多用したのも不気味で恐れられた。
この後、約30年間はスイス兵の全盛期で傭兵としてもイタリア戦争で引く手あまたであり、スイスもイタリア側にさらに勢力を拡張していったが、1515年にマリニャーノの戦いでフランスに敗れ、スイスの拡張は止められ、以降は、常時雇用のフランスの傭兵としてフランス常備軍の一翼となり、その関係はフランス革命まで続いた。最強伝説も崩れ始め、南ドイツに同じような性格の傭兵ランツクネヒトが誕生し、1525年のパヴィアの戦いではランツクネヒトが加わる皇帝・スペイン軍がスイス傭兵が加わるフランス軍に完勝した。しかし、この戦闘で最も活躍したのは火縄銃隊で、時代は銃火器に移ろうとしていた。