アングロ・サクソン王朝の終焉と書くとドラマティックな印象を与えるが、当時の王侯は互いに何重もの通婚をしており、男系がアングロ・サクソンと言うだけで、実際には多くの血統を持っており、誰が王に成るかは大した問題ではなく、どのように王になったかが問題なのだ。
エドワード懺悔王が亡くなり、ハロルド2世が即位した時点でゴドウィン王朝になっている訳で、ノルマン王朝になったのが問題なのは、それが征服王朝だからだ。その前のデーン王朝も征服王朝なのだが、バイキングは既に9世紀頃からイングランドに定住を始めており、デーン王朝の頃はイングランド人の何割かはバイキングの子孫で、北東部は広大なデーンロウ地域を成していたし、元々、低地サクソン人*1と北欧のバイキングとは文化的相違が少なかったため*2、比較的、すんなりとデーン王朝とイングランド貴族は融和したのに対して、バイキングの子孫とは言え、フランス語とフランス文化を取り入れたノルマン王朝に対しては抵抗が大きかったようた。
このためノルマン・コンクエストの後の抵抗は長引き、結果として王直属の諸侯がノルマン人に入れ替わり、アングロ・サクソン人の王朝が復活することはなく、以降、フランスとの密接な関係が百年戦争の終了時まで続くことになった。
*1 イングランドのサクソン人の先祖。
*2 どちらも広義のゲルマン系である。
アングロ・サクソン(ウェセックス)王朝は、統一と安定をもたらしたエドマンド平和王が975年に死去すると、長子だがおそらく庶子のエドワード(殉教王)と王妃エルフリーダの子エセルレッド(無思慮王)の継承争いとなり*3、どちらも幼年*4のため、貴族・聖職者の派閥が各々を擁立して争ったが、エドワード殉教王が即位した。しかし、エルフリーダとその支持者は978年に殉教王を殺害し*5、エセルレッド無思慮王が即位した。
*3 未だカトリック教会の権力は強くなく、庶子であることは若干、不利な程度で、長幼と嫡庶が相殺されて互角だった。庶子の継承権が否定されるのは11世紀中頃の教皇庁におけるグレゴリー改革以降である。
*4 エセルレッドは7歳、エドワードは10歳ぐらい。
*5 単なる王位争いの結果で殉教は全く関係ない。死後に奇跡が起きたとして聖人と見なされたため、殉教扱いになったようだ。若年での殺害への同情と後のエセルレッドの悪評も影響したのかもしれない。
この様な即位の経緯により国内はまとまらず、デーン人の侵入に対抗できなかったため、その度に貢納金(デーンゲルド)を支払っていたが、1002年に業を煮やしてか、全土においてデーン人*6の虐殺を命じた(聖ブライス日の虐殺)*7。
*6 デーン人は海岸を襲撃するだけでなく、既に多くがデーンロウ地域を中心に植民していた。もっとも実際に虐殺が実行されたのは、デーン人勢力が弱い周辺部のみだったようだ。
*7 彼が無思慮王と呼ばれるのは、この行為を勝算もなく行ったからである。この年の初頭にデーンゲルドを払っており、戦うつもりならその時に戦えば良く、勝てないと思ったのであれば勝算がつくまで待つべきであった。
これは、被害者に姉妹がいたデンマーク王スヴェンの恰好の口実となり、一層、デーン人の攻撃が激しくなった。デーン人はかっての同族達が植民したノルマンディを中継基地としていたため、1002年にエセルレッドはノルマンディー公リシャール2世*8の娘エマと結婚して対抗した。
*8 ウィリアム征服王の曽祖父。エマは大叔母に当たる。
しかし、軍事的には対抗し切れず、デーンゲルドを支払って凌いでいたが、1013年からスヴェンは王位を主張して本格的な侵攻を始め、エセルレッドは抗しきれずノルマンディに亡命し、スヴェンが即位したが、1014年に死去したため、イングランド貴族の要請を受けてエセルレッドが復帰した。
エセルレッドはスヴェンの息子クヌート(大王)を追い払うことに成功したものの、貴族への多大な譲歩に反発した自身の息子エドマンド(剛勇王)とも争うことになった。1015年にクヌートが戻ってくるとエドマンドと協力したが、1016年に死去し、その後の「アシングドンの戦い」でエドマンドはクヌートに敗れ、同年に彼も死去したため、クヌートが名実共にイングランド王となった*9。
*9 後に兄の死によりデンマーク王、さらにノルウェー王を兼ね、北海帝国を築き大王と呼ばれた。
エドマンドの息子エドワード(亡命公)はスエーデンに追放され、その後、キエフ、ハンガリーを転々とし、無思慮王とエマの息子のエドワード(懺悔王)とアルフレッドは母の実家ノルマンディに逃れた。
クヌートはエマと結婚し、ハーデクヌートが生まれ、1035年にクヌートが死去すると17歳のハーデクヌートがデンマーク王、イングランド王となった。ノルウェー、スエーデンと抗争していたため、異母兄のハロルド(兎足王)*10にイングランドの統治を任せたが、まもなくハロルドは自ら即位した。
エドワード(懺悔王)とアルフレッドはノルマンディから戻ってアングロ・サクソン王朝の復活を狙ったが、アルフレッドは殺害され*11、エマとエドワードはノルマンディに逃れた。
*10 クヌートの庶子と思われるが、母や出自は明確ではない。
*11 アルフレッドを捕らえたのは、ウェセックス伯ゴドウィンで、エドワード懺悔王はゴドウィン一族の協力を必要としながらも恨みを持っており、後のゴドウィンの追放やその息子ハロルド・ゴドウィンソン(ハロルド2世)との対立に繋がっている。
1039年に北欧での抗争に終止符を打った*12ハーデクヌートは1040年に侵攻を準備したが、同年にハロルドが死去したため問題なく王位に就いた。病弱で子供も無かったため、おそらく母エマの勧めで、異父兄であるエドワード(懺悔王)を呼び寄せ、共同統治者または後継者としたが、1042年にハーデクヌートが死去し*13、エドワード懺悔王が即位した。
*12 ノルウェー王マグヌス1世と互いに相手の後継者となることを約束した。
*13 デンマーク王位はマグヌス1世とクヌートの妹の子スヴェン(2世)が争った。
アングロ・サクソン王朝の終焉
アングロ・サクソン王朝の終焉(1) - デーン王朝
アングロ・サクソン王朝の終焉(2) - エドワード懺悔王
生涯の大半をノルマンディで過ごしたエドワード懺悔王はイングランドには馴染みが薄く、その立場は極めて脆弱だった。ノルウェー王マグヌスはデンマーク王位に加えてイングランド王位も要求しており、イングランド貴族ではゴドウィン一族が大きな力を持ち*14、デーン人勢力はイングランド貴族と融和して残存していた。
このような場合の最善の策は、各勢力を均衡させ互いに競わせて、そのバランスを取ることで主導権を握ることであり、ゴドウィンの娘エディスと結婚し*15、母の実家のノルマンディ公の支援を受けノルマン人を登用したが*16、これがバランスを取る意図的なものか、強いられてのことかは分からない。
*14 ゴドウィンはクヌート大王の下で台頭しており、デーン人とも繋がりがあった。
*15 懺悔王はゴドウィンへの恨みを残していたが、その協力は必須であり、一方、ゴドウィンは娘を通して懺悔王を傀儡とし、跡継ぎが生まれれば、その外祖父として権力を握るつもりだったろう。
*16 彼の政権はイングランド人、デーン人、ノルマン人の均衡を取ることで成り立っていた。後の民族主義的史観では、ノルマン人を引き入れたことを非難する向きもあるが、当時としては極真っ当な方策である。
クヌート大王の妹の子であるイングランド貴族スヴェン(2世)*17がデンマーク王位を主張して、支援を求めたのを断ったのは、北欧との相互不干渉を望んだからだろう。
*17 エディス/ゴドウィンの縁戚であり、ゴドウィンから強い要請があった。
しかし、バランス政策はある程度は成果を上げたようである。1051年にブロワ伯の要請でドーバの討伐をゴドウィンに命じたが、イングランドでの評判を落としたくないゴドウィンが従わなかったことにより*18、両者は内戦一歩手前になったが、ゴドウィン側に反逆者になることに躊躇いがあって離反者が続出し、ゴドウィンとハロルドらの兄弟は亡命し、懺悔王はエディスを女子修道院に送って離婚を企てた*19。
*18 王の命令を拒否できるくらいの権力を持っていたということである。
*19 ゴドウィン一族の影響力の排除のためだが、子供ができなかったのも大きな理由だろう。後に懺悔王が列聖されたため禁欲による不犯とも言われるが、生前は特に敬虔だった訳でなく後付けであろう。ゴドウィンの血を引く子を欲せず不犯だった可能性はあるが・・・
しかし、この好機を生かし切れず*20、翌年ゴドウィンとハロルドらが軍勢を率いて帰国すると形勢は逆転し、懺悔王は彼等の領地を返還し、エディスを呼び戻すことを強いられた。
*20 ゴドウィンの権力に反発して離反したイングランド貴族が懺悔王に失望したのだろう。
これにより、再婚と子作りを諦めたようで、1054年に甥のエドワード亡命公がハンガリーに生存していることが分かり、子供のいない懺悔王は後継者として呼び寄せた。しかし、同年に、マクベス*21によりスコットランド王位を奪われたダンカン1世の息子マルカム(3世)を支援して王位に就けさせるなど王権に対する意欲は失っていなかったようだ。
*21 シェイクスピアの悲劇で有名なあのマクベスで、ダンカン1世を殺害して王位に就いていた。
一方、1053年にゴドウィンは死去しているが、1055年頃からマーシア伯やノーサンブリア伯など懺悔王を支持していたイングランドの有力者が相次いで亡くなり、ハロルドの兄弟(トスティなど)がそれらを獲得し*22、1057年までにゴドウィン一族は非常に強大な力を持つようになった。
*22 ゴドウィン一族に対抗できる有力者が相次いで死去したため、懺悔王はゴドウィン一族の要求を呑まざるを得なかったのだろう。
1057年にエドワード亡命公が家族と共にイングランドに到着したが、まもなく死去してしまった*23。幼いエドガー・アシリングとマーガレットが残されたが、懺悔王はエドガーを後継者に指名しなかった*24。
*23 証拠はないが、王位を狙っている誰かにより殺害されたと思われる。
*24 このような情勢で、6歳のエドガーを後継者に指名することは危険であり、ハロルドとノルマンディ公ギョーム庶子公に継承の可能性を残して、両者を互いに牽制させようとしたのだろう。
これ以降、懺悔王は気力を失ったようで、ゴドウィン一族と友好関係を保って、狩猟などの趣味に没頭し、ほとんど実権を失っていた。ノルマンディ公ギョームに後継者を約束したり*25、ゴドウィン一族の中ではハロルドよりトスティと親しくし、ある程度のバランスと影響力を保とうとしていたようだが、1065年にトスティが所領ノーサンブリアの反乱に会った時、ハロルドは反乱側を支援し*26、トスティは王の支援を求めたが、懺悔王は支援できず、彼を追放しなければならなかった。
*25 ノルマンディ側の主張であるが、懺悔王はハロルド、トスティ、ギョームなどに後継を仄めかしていたと思われる。本音は正統なエドガー・アシリングだったろう。
*26 これにより、ハロルドはイングランド貴族の支持を得ると共にライバルを追放することができた。
1066年に懺悔王は失意の内に死去し、後に聖人に列せられた*27。
*27 殉教王など、列聖される王侯は君主としては無能な人が多い。彼は特に敬虔だった訳ではなく、最後の実質的なアングロ・サクソン王として後に崇拝を受けたことと、エドワード亡命公の娘マーガレットの血統を持つアンジュー朝が懺悔王を推薦したからである。
この時点で、イングランドに居る有力候補はハロルド(2世)のみで、問題なくアングロ・サクソン賢人会議で王に選出された。エドガー・アシリングは15歳になっていたが無視されたようだ。
しかし、追放された後、ノルウェー王ハーラル3世*28を頼っていたトスティとノルマンディ公ギョーム庶子公が王位を狙っており、9月にトスティとハーラル3世がイングランドを襲撃し、ハロルド2世は「スタンフォード・ブリッジの戦い」で破り、ハーラル3世とトスティは戦死した*29。しかし、直後にギョーム庶子公が来襲し、10月の「ヘイスティングズの戦い」でハロルド2世は敗死した。
*28 ハーラル3世自身もマグヌス1世の後継者として、イングランド王位を主張していた。
*29 結果的には、ハロルドはウィリアム征服王のためにライバルを消去したようなものである。戦う順番が逆であれば、征服王がトスティらに敗北していたかもしれない。
このような場合の最善の策は、各勢力を均衡させ互いに競わせて、そのバランスを取ることで主導権を握ることであり、ゴドウィンの娘エディスと結婚し*15、母の実家のノルマンディ公の支援を受けノルマン人を登用したが*16、これがバランスを取る意図的なものか、強いられてのことかは分からない。
*14 ゴドウィンはクヌート大王の下で台頭しており、デーン人とも繋がりがあった。
*15 懺悔王はゴドウィンへの恨みを残していたが、その協力は必須であり、一方、ゴドウィンは娘を通して懺悔王を傀儡とし、跡継ぎが生まれれば、その外祖父として権力を握るつもりだったろう。
*16 彼の政権はイングランド人、デーン人、ノルマン人の均衡を取ることで成り立っていた。後の民族主義的史観では、ノルマン人を引き入れたことを非難する向きもあるが、当時としては極真っ当な方策である。
クヌート大王の妹の子であるイングランド貴族スヴェン(2世)*17がデンマーク王位を主張して、支援を求めたのを断ったのは、北欧との相互不干渉を望んだからだろう。
*17 エディス/ゴドウィンの縁戚であり、ゴドウィンから強い要請があった。
しかし、バランス政策はある程度は成果を上げたようである。1051年にブロワ伯の要請でドーバの討伐をゴドウィンに命じたが、イングランドでの評判を落としたくないゴドウィンが従わなかったことにより*18、両者は内戦一歩手前になったが、ゴドウィン側に反逆者になることに躊躇いがあって離反者が続出し、ゴドウィンとハロルドらの兄弟は亡命し、懺悔王はエディスを女子修道院に送って離婚を企てた*19。
*18 王の命令を拒否できるくらいの権力を持っていたということである。
*19 ゴドウィン一族の影響力の排除のためだが、子供ができなかったのも大きな理由だろう。後に懺悔王が列聖されたため禁欲による不犯とも言われるが、生前は特に敬虔だった訳でなく後付けであろう。ゴドウィンの血を引く子を欲せず不犯だった可能性はあるが・・・
しかし、この好機を生かし切れず*20、翌年ゴドウィンとハロルドらが軍勢を率いて帰国すると形勢は逆転し、懺悔王は彼等の領地を返還し、エディスを呼び戻すことを強いられた。
*20 ゴドウィンの権力に反発して離反したイングランド貴族が懺悔王に失望したのだろう。
これにより、再婚と子作りを諦めたようで、1054年に甥のエドワード亡命公がハンガリーに生存していることが分かり、子供のいない懺悔王は後継者として呼び寄せた。しかし、同年に、マクベス*21によりスコットランド王位を奪われたダンカン1世の息子マルカム(3世)を支援して王位に就けさせるなど王権に対する意欲は失っていなかったようだ。
*21 シェイクスピアの悲劇で有名なあのマクベスで、ダンカン1世を殺害して王位に就いていた。
一方、1053年にゴドウィンは死去しているが、1055年頃からマーシア伯やノーサンブリア伯など懺悔王を支持していたイングランドの有力者が相次いで亡くなり、ハロルドの兄弟(トスティなど)がそれらを獲得し*22、1057年までにゴドウィン一族は非常に強大な力を持つようになった。
*22 ゴドウィン一族に対抗できる有力者が相次いで死去したため、懺悔王はゴドウィン一族の要求を呑まざるを得なかったのだろう。
1057年にエドワード亡命公が家族と共にイングランドに到着したが、まもなく死去してしまった*23。幼いエドガー・アシリングとマーガレットが残されたが、懺悔王はエドガーを後継者に指名しなかった*24。
*23 証拠はないが、王位を狙っている誰かにより殺害されたと思われる。
*24 このような情勢で、6歳のエドガーを後継者に指名することは危険であり、ハロルドとノルマンディ公ギョーム庶子公に継承の可能性を残して、両者を互いに牽制させようとしたのだろう。
これ以降、懺悔王は気力を失ったようで、ゴドウィン一族と友好関係を保って、狩猟などの趣味に没頭し、ほとんど実権を失っていた。ノルマンディ公ギョームに後継者を約束したり*25、ゴドウィン一族の中ではハロルドよりトスティと親しくし、ある程度のバランスと影響力を保とうとしていたようだが、1065年にトスティが所領ノーサンブリアの反乱に会った時、ハロルドは反乱側を支援し*26、トスティは王の支援を求めたが、懺悔王は支援できず、彼を追放しなければならなかった。
*25 ノルマンディ側の主張であるが、懺悔王はハロルド、トスティ、ギョームなどに後継を仄めかしていたと思われる。本音は正統なエドガー・アシリングだったろう。
*26 これにより、ハロルドはイングランド貴族の支持を得ると共にライバルを追放することができた。
1066年に懺悔王は失意の内に死去し、後に聖人に列せられた*27。
*27 殉教王など、列聖される王侯は君主としては無能な人が多い。彼は特に敬虔だった訳ではなく、最後の実質的なアングロ・サクソン王として後に崇拝を受けたことと、エドワード亡命公の娘マーガレットの血統を持つアンジュー朝が懺悔王を推薦したからである。
この時点で、イングランドに居る有力候補はハロルド(2世)のみで、問題なくアングロ・サクソン賢人会議で王に選出された。エドガー・アシリングは15歳になっていたが無視されたようだ。
しかし、追放された後、ノルウェー王ハーラル3世*28を頼っていたトスティとノルマンディ公ギョーム庶子公が王位を狙っており、9月にトスティとハーラル3世がイングランドを襲撃し、ハロルド2世は「スタンフォード・ブリッジの戦い」で破り、ハーラル3世とトスティは戦死した*29。しかし、直後にギョーム庶子公が来襲し、10月の「ヘイスティングズの戦い」でハロルド2世は敗死した。
*28 ハーラル3世自身もマグヌス1世の後継者として、イングランド王位を主張していた。
*29 結果的には、ハロルドはウィリアム征服王のためにライバルを消去したようなものである。戦う順番が逆であれば、征服王がトスティらに敗北していたかもしれない。
アングロ・サクソン王朝の終焉(3) - エドガー・アシリング
残ったイングランド貴族やロンドン市はエドガー・アシリングを王に選出したものの、エドガーには何の力もなく*30、イングランド貴族は各個に撃破されて屈服し、1066年12月にはギョーム庶子公がウィリアム1世として即位し(ノルマン・コンクエスト)、エドガーも服従した。
*30 父親が生涯のほとんどを海外で過ごしたため有力な親族がいない上、既に実権を失っていた懺悔王は、エドガーに大きな所領を与えられなかった。
エドガーはノルマンディに連れて行かれたが、1068年にマーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカーらが反乱を起こすと、これに加わり、敗れると姉妹のマーガレット、クリスティーナと共にスコットランドに逃れた*31。
*31 スコットランドに頼れる者が居た訳ではなく、母アガサがハンガリーかドイツ人のため、船でドイツに逃げようとしてスコットランドに難破したようだ。
結果として、これが幸運となり、スコットランド王マルカム3世は彼等を保護し、1070年にマーガレットと結婚したため*32、エドガーは強い後ろ盾を得ることができた。おそらく、イングランドの支配、または、それを口実とした領土の獲得を狙ったものだが、マーガレットの影響でスコットランドにイングランド文化*33とカトリック*34が広まり、後に彼女自身が列聖され、3人のスコットランド王(エドガー、アレキサンダー、デヴィッド)やイングランド王ヘンリー1世の王妃マティルダ(エディス)*35を産んでいるため、後世に大きな影響を与えた。
*32 マルカム3世にはドナルド、ダンカンの息子がいたが、寡夫だった。
*33 子供達の名前もイングランド風に付けられている。
*34 この頃までは各地域の教会毎に独自性があり、ローマ教会中央(教皇)の影響力は弱かった。
*35 エディスの子が皇后モード(マティルダ)で、その子がアンジュー帝国ヘンリー2世となる。
マルカム3世の支援を受けたエドガーは、デンマーク王スヴェン2世の襲撃に呼応して、イングランドの反乱を率いたが、1070年に敗れてスコットランドに戻った。他の反乱者もエドウィンは家臣に殺害され、モーカーはヘリワード・ザ・ウェイクなどと共にエリー島に篭ったが1072年に降伏し、主要なアングロ・サクソン人貴族は全て消滅することになった。
イングランドの反乱を鎮圧したウィリアム征服王は、次いで反乱を支援したスコットランドに侵攻し、マルカム3世は屈服してイングランドを宗主として認めたため*36、エドガーはフランドルに逃れたが、マルカム3世は、その後もイングランドと抗争を続けたため、1074年頃にスコットランドに戻ることができた。
フランス王フィリップ1世は反ウィリアム包囲網を目論んでおり、ノルマンディ国境の城を与えることを提案されたエドガーは船で大陸に向かったが遭難したためスコットランドに逃げ帰った。失意のエドガーはマルカム3世の勧めもあり、王位請求を放棄してウィリアム征服王に臣従した*37。
*36 この時に長子ダンカン(2世)を人質に出している。
*37 1075年のノルマン人伯爵による反乱が鎮圧され、イングランドは概ね平定されていた。
しかし、征服王の支配が固まると共に彼の価値も低くなり冷遇されたようで*38、1086年に南イタリア・シチリアのノルマン征服に加わることを願って認められた。しかし遠征は成功せず、1087年におそらく征服王の死を聞いてイングランドに戻った。
*38 1086年に作成されたドームズディブックには、彼の所領はわずか2箇所(£10)が記録されているだけであり、遠征のために領地を処分したのだろうが、元々、厚遇されていなかった証拠でもある。
しかし、既にエドガーには王位へのチャンスはなく、征服王の長男ロベールと次男ウィリアム(2世)が争っていた。ロベールに味方したことで、ノルマンディで没収されたウィリアム派の所領を与えられたが、1091年にロベールが敗れてウィリアム2世と和解すると、ノルマンディの所領は返還され、怒ったエドガーは再びスコットランドに戻った。
1093年にマルカム3世と跡継ぎエドワード*39がイングランドとの争いで共に戦死し、まもなく王妃マーガレットも死去したため、王位争いが始まった。まず、マルカム3世の弟のドナルド(3世)が王位に就き、エドマンド、エドガーらを追放してイングランドの影響を排除する政策を打ち出したため、イングランド王ウィリアム2世は人質だったダンカン(2世)*40を支援し王位に就けたが、一旦は逃れたドナルド3世がエドマンド*41を味方につけて反撃し、ダンカン2世を捕らえて処刑した。
*39 マーガレットの長子で、弟にエドマンド、エドガー、アレキサンダー、デヴィッドなどがおり、妹にエディスなどがいる。
*40 マルカム3世と先妻インゲボーとの長子だが、1072年以来、人質としてノルマンディで育てられており、後継者から外されていたようだ。
*41 異母兄のダンカン2世はライバルであり、子供のいないドナルド3世の後継者/共同統治者を提案されたようだ。
しかし、1097年にエドガー・アシリングはウィリアム2世の支援を受けて、甥のエドガーを擁立し、ドナルド3世を破って王位に就けた*42。これまで失敗続きのエドガー・アシリングだったが、ようやく運が向いてきたようだ*43。
*42 ドナルド3世は目を潰されて幽閉され、エドマンドは修道院に入れられた。
*43 スコットランド王位はアレキサンダー(1世)、デヴィッド(1世)と継承された。
1098年からの第1回十字軍ではイングランド船隊を率いて参加し、レバントの海岸を行進する十字軍が困窮しているところに到着し非常に力づけたと言われ、その後、船を焼いてエルサレム遠征に加わったとされる*44。またビザンティン帝国のヴァランギアン傭兵*45に加わっていたとも言われる。
*44 この辺の記述の信憑性については議論がある。
*45 元々はヴァイキングの傭兵と言う意味だが、この頃はイングランド人、ノルマン人も多かった。
十字軍の時期にウィリアム2世は死去しており、その間に王位に就いた弟ヘンリー1世に対して十字軍から戻ったノルマンディ公ロベールが王位を巡って争っており、西欧に戻ったエドガーはロベールに味方したが、1106年の「タンシュブレーの戦い」でロベールは敗れ、生涯、幽閉された。エドガーも捕虜となったが、姪のエディス(マティルダ)が1100年にヘンリー1世妃となっていたため許され解放された。
その後の彼は歴史の表舞台からは消えたが、1120年のホワイト・シップの遭難*46時にも生きており、たぶん1125年頃まで生きていたが、委細は分からず人知れずひっそりと亡くなったようだ*47。結婚せず、子供もおらず、これによりアングロ・サクソン王朝の男系は断絶したが、彼の姉マーガレットの子孫は皇后モード、ヘンリー2世と繋がり、もちろんスコットランド王家にも伝わっており、現在の英王室まで辿ることができる。
*46 ヘンリー1世とマティルダの長子ウィリアム・アデリンが溺死し、イングランドの王位継承に大きな影響を与え、後のアンジュー伯ヘンリー(2世)の継承に繋がった。
*47 甥のデヴィッド1世がスコットランド王で援助は得られただろうから、安楽な老後だったと思われる。
*30 父親が生涯のほとんどを海外で過ごしたため有力な親族がいない上、既に実権を失っていた懺悔王は、エドガーに大きな所領を与えられなかった。
エドガーはノルマンディに連れて行かれたが、1068年にマーシア伯エドウィン、ノーサンブリア伯モーカーらが反乱を起こすと、これに加わり、敗れると姉妹のマーガレット、クリスティーナと共にスコットランドに逃れた*31。
*31 スコットランドに頼れる者が居た訳ではなく、母アガサがハンガリーかドイツ人のため、船でドイツに逃げようとしてスコットランドに難破したようだ。
結果として、これが幸運となり、スコットランド王マルカム3世は彼等を保護し、1070年にマーガレットと結婚したため*32、エドガーは強い後ろ盾を得ることができた。おそらく、イングランドの支配、または、それを口実とした領土の獲得を狙ったものだが、マーガレットの影響でスコットランドにイングランド文化*33とカトリック*34が広まり、後に彼女自身が列聖され、3人のスコットランド王(エドガー、アレキサンダー、デヴィッド)やイングランド王ヘンリー1世の王妃マティルダ(エディス)*35を産んでいるため、後世に大きな影響を与えた。
*32 マルカム3世にはドナルド、ダンカンの息子がいたが、寡夫だった。
*33 子供達の名前もイングランド風に付けられている。
*34 この頃までは各地域の教会毎に独自性があり、ローマ教会中央(教皇)の影響力は弱かった。
*35 エディスの子が皇后モード(マティルダ)で、その子がアンジュー帝国ヘンリー2世となる。
マルカム3世の支援を受けたエドガーは、デンマーク王スヴェン2世の襲撃に呼応して、イングランドの反乱を率いたが、1070年に敗れてスコットランドに戻った。他の反乱者もエドウィンは家臣に殺害され、モーカーはヘリワード・ザ・ウェイクなどと共にエリー島に篭ったが1072年に降伏し、主要なアングロ・サクソン人貴族は全て消滅することになった。
イングランドの反乱を鎮圧したウィリアム征服王は、次いで反乱を支援したスコットランドに侵攻し、マルカム3世は屈服してイングランドを宗主として認めたため*36、エドガーはフランドルに逃れたが、マルカム3世は、その後もイングランドと抗争を続けたため、1074年頃にスコットランドに戻ることができた。
フランス王フィリップ1世は反ウィリアム包囲網を目論んでおり、ノルマンディ国境の城を与えることを提案されたエドガーは船で大陸に向かったが遭難したためスコットランドに逃げ帰った。失意のエドガーはマルカム3世の勧めもあり、王位請求を放棄してウィリアム征服王に臣従した*37。
*36 この時に長子ダンカン(2世)を人質に出している。
*37 1075年のノルマン人伯爵による反乱が鎮圧され、イングランドは概ね平定されていた。
しかし、征服王の支配が固まると共に彼の価値も低くなり冷遇されたようで*38、1086年に南イタリア・シチリアのノルマン征服に加わることを願って認められた。しかし遠征は成功せず、1087年におそらく征服王の死を聞いてイングランドに戻った。
*38 1086年に作成されたドームズディブックには、彼の所領はわずか2箇所(£10)が記録されているだけであり、遠征のために領地を処分したのだろうが、元々、厚遇されていなかった証拠でもある。
しかし、既にエドガーには王位へのチャンスはなく、征服王の長男ロベールと次男ウィリアム(2世)が争っていた。ロベールに味方したことで、ノルマンディで没収されたウィリアム派の所領を与えられたが、1091年にロベールが敗れてウィリアム2世と和解すると、ノルマンディの所領は返還され、怒ったエドガーは再びスコットランドに戻った。
1093年にマルカム3世と跡継ぎエドワード*39がイングランドとの争いで共に戦死し、まもなく王妃マーガレットも死去したため、王位争いが始まった。まず、マルカム3世の弟のドナルド(3世)が王位に就き、エドマンド、エドガーらを追放してイングランドの影響を排除する政策を打ち出したため、イングランド王ウィリアム2世は人質だったダンカン(2世)*40を支援し王位に就けたが、一旦は逃れたドナルド3世がエドマンド*41を味方につけて反撃し、ダンカン2世を捕らえて処刑した。
*39 マーガレットの長子で、弟にエドマンド、エドガー、アレキサンダー、デヴィッドなどがおり、妹にエディスなどがいる。
*40 マルカム3世と先妻インゲボーとの長子だが、1072年以来、人質としてノルマンディで育てられており、後継者から外されていたようだ。
*41 異母兄のダンカン2世はライバルであり、子供のいないドナルド3世の後継者/共同統治者を提案されたようだ。
しかし、1097年にエドガー・アシリングはウィリアム2世の支援を受けて、甥のエドガーを擁立し、ドナルド3世を破って王位に就けた*42。これまで失敗続きのエドガー・アシリングだったが、ようやく運が向いてきたようだ*43。
*42 ドナルド3世は目を潰されて幽閉され、エドマンドは修道院に入れられた。
*43 スコットランド王位はアレキサンダー(1世)、デヴィッド(1世)と継承された。
1098年からの第1回十字軍ではイングランド船隊を率いて参加し、レバントの海岸を行進する十字軍が困窮しているところに到着し非常に力づけたと言われ、その後、船を焼いてエルサレム遠征に加わったとされる*44。またビザンティン帝国のヴァランギアン傭兵*45に加わっていたとも言われる。
*44 この辺の記述の信憑性については議論がある。
*45 元々はヴァイキングの傭兵と言う意味だが、この頃はイングランド人、ノルマン人も多かった。
十字軍の時期にウィリアム2世は死去しており、その間に王位に就いた弟ヘンリー1世に対して十字軍から戻ったノルマンディ公ロベールが王位を巡って争っており、西欧に戻ったエドガーはロベールに味方したが、1106年の「タンシュブレーの戦い」でロベールは敗れ、生涯、幽閉された。エドガーも捕虜となったが、姪のエディス(マティルダ)が1100年にヘンリー1世妃となっていたため許され解放された。
その後の彼は歴史の表舞台からは消えたが、1120年のホワイト・シップの遭難*46時にも生きており、たぶん1125年頃まで生きていたが、委細は分からず人知れずひっそりと亡くなったようだ*47。結婚せず、子供もおらず、これによりアングロ・サクソン王朝の男系は断絶したが、彼の姉マーガレットの子孫は皇后モード、ヘンリー2世と繋がり、もちろんスコットランド王家にも伝わっており、現在の英王室まで辿ることができる。
*46 ヘンリー1世とマティルダの長子ウィリアム・アデリンが溺死し、イングランドの王位継承に大きな影響を与え、後のアンジュー伯ヘンリー(2世)の継承に繋がった。
*47 甥のデヴィッド1世がスコットランド王で援助は得られただろうから、安楽な老後だったと思われる。