ダンテと言えば神曲などで知られ、ルネッサンスの先駆けとも言われる詩人であるが、故郷フィレンツェ共和国の役職にも就いていた。まだ専業の政治家がいない時代で、中級以上の市民は何らかの形で政治に関係し、共和国に貢献するのが義務でもあった。
北イタリアでは長く、ゲルフ(教皇派)対ギベリン(皇帝派)の争いが続いていたが、ホーヘンシュタウフェン家の敗北によりゲルフが有利になり、当時のフィレンツェでもゲルフが市政を握ったが、元々、教皇や皇帝がどうというより、まず対立があって、それぞれの党派がゲルフ、ギベリンを名乗っていただけであったため、フィレンツェのゲルフはすぐに白党と黒党に分裂した。
当時のローマ教皇はイタリア各都市への影響力の強化を図っていたが、黒党が教皇を宗主としてその影響力を認めたのに対して、白党は教皇の権威を認めながらも市政への関与は受けないという立場を示して政権を握り、より独立的な共和国を支持するダンテは白党に属して、教皇への説明のために外交使節の一員としてローマに派遣された。
しかし、1301年に教皇はバロワ伯シャルル*1にフィレンツェに侵攻させ、白党を追放させた。ローマからの帰途に追放と財産没収を通告されたダンテはそのまま流浪の身となり、生涯フィレンツェに戻ることはなかった。
*1 バロワ朝初代のフィリップ6世の父で、フランス王フィリップ4世の弟として様々な活動をしており、本サイトでも、所々に登場している。
何度かの黒党打倒の企ては失敗に終わり、かっての同志たちは、後に妥協して罰金を払ってフィレンツェに復帰した者も多かったが、ダンテは独自の行動を取り、各地の有力者の保護を受けながら、彼等の支援を求め、1310年にはルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世のイタリア侵攻に期待をかけたが、それらの全ての期待は水泡に帰し、政治活動に失望したダンテは神曲*2の創作に熱中した。
*2 ダンテはこれを単に喜劇(コメディ)と呼んでおり、後にボッカチオが神聖を付けて神聖喜劇となり、邦題は神曲が定訳となった。
これは、1300年の聖年にダンテが異界に迷い込み、ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて、地獄、煉獄を旅し、天界で心の恋人ベアトリーチェ*3に出会う話であり、それぞれの世界には歴史上の人物と並んでダンテと同時代の人物も登場している。神曲が書かれたのは追放後の1307年以降と推定されており、作中の設定が1300年であるため、同時代の人物に関しては一種の予言となっている。つまり、ダンテが知っている事実が予言のような形で示されており*4、彼の怨嗟の対象である当時のローマ教皇は、既にシモニア(聖職売買)で地獄に落ちている先々代のニコラウス4世が待ち構えていると言った具合に、ダンテは個人的な恨みもはらしている。
*3 ベアトリーチェとは生涯で9歳と18歳の2回しか会ったことがないとされているが、これは恐らく数字的意味(三位一体である3の倍数)を持たせる上での創作である。とはいえ、実在のベアトリーチェとは親しい関係でなかったことは確かで、作品のベアトリーチェは、思春期の初恋に良くある脳内で理想化された姿のようであるが、詩人はその感性を大人になっても持ち続け、一種の聖女信仰として文学に昇華させたようである。
*4 そのため予言は悉く当たっており、地獄、煉獄の世界についても読者に信憑性を与えている。
ちょっと興味深いのは、球形の地球がイメージされている*5ことで、サタン(ルシファー)が天界から堕天した時に大きな陥没ができた部分が地獄であり、その反対側が盛り上がって山となった部分が煉獄であり、その頂上が天界に繋がっている。
*5 地球球体説は古代ギリシア・ローマの時代から存在した。大海原では水平線は円形であり、球体の一部が視界に映っていることは容易に想像出来るため、古代からの世界地図の多くは円形で表されている。ただ、地球の中心に重力が働くという考えが定着しなかったため、多くは球体の上部を切り取った半球のお盆型であり、その先は海が滝のように下に落ちているとされ、しばしば象や亀や蛇がそれを支えている。しかしダンテのイメージは球体のようである。
ダンテは恐らく怨念を抱いたまま、1321年に旅の途中で病死し、現在でもラヴェンナに埋葬されている。ダンテの追放は2008年にフィレンツェで取り消されたそうであるが、もちろん早くから彼の名声により名誉は回復しており、何度もラヴェンナに遺体を引き渡すように要請していたが拒否されており、1829年には遺体がないまま墓が作られている。つまりフィレンツェのダンテの墓は現在でも空なのだそうだ。
ダンテとボニファティウス8世
ダンテとボニファティウス8世(1)
ダンテとボニファティウス8世(2)
さて、ダンテに個人的な恨みを抱かせた人物が、教皇権最盛期の最後の教皇であるボニファティウス8世である。彼が出した教書ウナム・サンクタムは、ローマ教皇が世俗、宗教上の両面における最高権威であることを明確に主張しており、敵対していたフランス王フィリップ4世だけでなく、全ての世俗君主に反感を与えてしまっている。
彼はフランス王への依存や相次ぐ十字軍の失敗で弱体化していた教皇権を再びイノケンティウス3世時代の最盛期に戻そうと強硬策を取ったため、多くの勢力と敵対し、フィリップ4世の大胆な反撃を可能にしてしまった。
教皇権は、ホーヘンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との対立において、フランス王を後ろ盾とした。当時のフランス王ルイ9世は後に聖人に列せられて聖王と称されるように教会の申し子であり、ローマ教会は安心して頼ることができたが、ルイ9世の末弟でシチリア王となったシャルル・ダンジューやルイ9世の後継者であるフィリップ3、4世は、フランス、ナポリの利益のために教皇権を利用した。
これらの時代、フランスやナポリ王国出身の教皇が多かったが、アラゴン十字軍の失敗などでイタリア派が巻き返し、教皇庁内部でフランス派とイタリア派の枢機卿の勢力が拮抗したため、ニコラウス4世の死後2年間に渡り教皇を選出できなかった。1294年に妥協案として、政治に関わらない修道士で隠者として知られたケレスティヌス5世を選出したが、教皇の地位を望んでいなかった彼は就任して1年弱で退位し、ボニファティウス8世が選出された。
ボニファティウス8世はケレスティヌス5世の退位を唆したとも言われるが、彼は即位するとケレスティヌス5世を逮捕*6し、前教皇はそれから1年弱で亡くなっている。
*6 教皇が退位できるかについては議論があった。できないと判断されるとボニファティウス8世の地位が失われるため、ケレスティヌス5世を拘束し、寿命を早めたとも想像できる。
ボニファティウス8世は教会への課税を巡り、フランス王フィリップ4世と対立するが、フランス王がフランス資産の国外への持ちだしを禁止して、教皇庁の収入を途絶えさせる強硬策に出ると、一旦は妥協して引き下がった。しかし、1300年の聖年*7の祝いを成功させ、多くの巡礼者を迎えて、権威の回復と収入を得て、再び世俗王権に対する教皇権の優位を主張した。おそらく、1200年における教皇であり、教皇権の絶頂にあったイノケンティウス3世を思い起こしたのであろう。
*7 ローマで聖年を大々的に祝ったのは、これが最初であり、以降、慣例となった。
教皇は世俗君主に対する教皇の優位を謳う教書ウナム・サンクタムを出して、フィリップ4世を破門したが、フィリップ4世は三部会の召集によりフランスの意思を統一して対抗した。
フランス王の側近ギョーム・ド・ノガレは法律家出身であり、モラルの元締めである教皇と対抗するために、教皇を聖職売買(シモニア)、男色(ソドミー)、ケレスティヌス5世殺害などの容疑で異端として告発し、さらに実力行使として教皇を逮捕してフランスで裁判を受けさせることを提言し、自らイタリアへ行って、ボニファティウス8世に恨みを抱くローマの名族コロンナ家*8と組んで、出身地であるアナーニに滞在していた教皇を襲ってこれを捕らえた。
*8 ローマのコロンナ家は教皇と対立することが多く、ボニファティウス8世との対立で、所有するパレストリーナ市を破壊され、塩までまかれたという。
コロンナは教皇を殺害することも考えていたようだが、ギョーム・ド・ノガレはフランスで裁判を受けさせることが重要だと考えており、それを止めたが、実際のところ教皇が何をされたのかはっきりしない。
コロンナは、憤慨して罵りの言葉を吐く教皇を殴って黙らせた*9というが、この時点で教皇を異端者として扱っているため、かなり酷いことをした可能性もある。
*9 アナーニの殴打という成句があるそうだ。
その後、教皇はアナーニの住民たちにより救出されたが、憤慨のあまり持病を悪化させ、まもなく死去した。しかし、受けた屈辱を恥じて自殺*10したという噂も流れた。
*10 この時代、カトリックにおいて自殺は重大な犯罪であり、教皇が自殺したとすると前代未聞のスキャンダルである。
教皇庁は、フランス王の実力行使に大きな衝撃を受け、まもなく選出されたベネディクトゥス11世は、ギョーム・ド・ノガレとコロンナを破門したが、フランス王への以前の破門を取消して、事実上ウナム・サンクタムを撤回している。しかし、8ヶ月後に死亡しており、ギョーム・ド・ノガレによる毒殺の噂が流れた。次の教皇選出の際には、反フランス派と親フランス派が激しく対立したが、フランス王による実力行使を恐れる中間派は妥協策として、枢機卿でなく教皇庁の政治に関与していなかったボルドー大司教*11を選出した。
*11 彼はアキテーヌ出身で、ボルドーはイングランド王領であるため適切な妥協案と思われた。
しかし、教皇庁に政治的基盤を持たない新教皇クレメンス5世は、政情不安定なローマに赴くことを拒み、フランス王フィリップ4世を後ろ盾としてリヨンで戴冠し、フランス人(というより彼と同郷であるアキテーヌ、ガスコーニュ、ラングドック人*12)枢機卿を大量に任命して、フランス勢力圏(ナポリ・アンジュー家)内のアヴィニョンに居住した。以降、アヴィニョン教皇時代となり、教皇権はフランス王の大きな影響を受けるようになる。(アナーニ事件とアヴィニョン捕囚も参照のこと)
*12 これらはオック語圏で、北部のフランス語圏とは別民族といえる。
彼はフランス王への依存や相次ぐ十字軍の失敗で弱体化していた教皇権を再びイノケンティウス3世時代の最盛期に戻そうと強硬策を取ったため、多くの勢力と敵対し、フィリップ4世の大胆な反撃を可能にしてしまった。
教皇権は、ホーヘンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との対立において、フランス王を後ろ盾とした。当時のフランス王ルイ9世は後に聖人に列せられて聖王と称されるように教会の申し子であり、ローマ教会は安心して頼ることができたが、ルイ9世の末弟でシチリア王となったシャルル・ダンジューやルイ9世の後継者であるフィリップ3、4世は、フランス、ナポリの利益のために教皇権を利用した。
これらの時代、フランスやナポリ王国出身の教皇が多かったが、アラゴン十字軍の失敗などでイタリア派が巻き返し、教皇庁内部でフランス派とイタリア派の枢機卿の勢力が拮抗したため、ニコラウス4世の死後2年間に渡り教皇を選出できなかった。1294年に妥協案として、政治に関わらない修道士で隠者として知られたケレスティヌス5世を選出したが、教皇の地位を望んでいなかった彼は就任して1年弱で退位し、ボニファティウス8世が選出された。
ボニファティウス8世はケレスティヌス5世の退位を唆したとも言われるが、彼は即位するとケレスティヌス5世を逮捕*6し、前教皇はそれから1年弱で亡くなっている。
*6 教皇が退位できるかについては議論があった。できないと判断されるとボニファティウス8世の地位が失われるため、ケレスティヌス5世を拘束し、寿命を早めたとも想像できる。
ボニファティウス8世は教会への課税を巡り、フランス王フィリップ4世と対立するが、フランス王がフランス資産の国外への持ちだしを禁止して、教皇庁の収入を途絶えさせる強硬策に出ると、一旦は妥協して引き下がった。しかし、1300年の聖年*7の祝いを成功させ、多くの巡礼者を迎えて、権威の回復と収入を得て、再び世俗王権に対する教皇権の優位を主張した。おそらく、1200年における教皇であり、教皇権の絶頂にあったイノケンティウス3世を思い起こしたのであろう。
*7 ローマで聖年を大々的に祝ったのは、これが最初であり、以降、慣例となった。
教皇は世俗君主に対する教皇の優位を謳う教書ウナム・サンクタムを出して、フィリップ4世を破門したが、フィリップ4世は三部会の召集によりフランスの意思を統一して対抗した。
フランス王の側近ギョーム・ド・ノガレは法律家出身であり、モラルの元締めである教皇と対抗するために、教皇を聖職売買(シモニア)、男色(ソドミー)、ケレスティヌス5世殺害などの容疑で異端として告発し、さらに実力行使として教皇を逮捕してフランスで裁判を受けさせることを提言し、自らイタリアへ行って、ボニファティウス8世に恨みを抱くローマの名族コロンナ家*8と組んで、出身地であるアナーニに滞在していた教皇を襲ってこれを捕らえた。
*8 ローマのコロンナ家は教皇と対立することが多く、ボニファティウス8世との対立で、所有するパレストリーナ市を破壊され、塩までまかれたという。
コロンナは教皇を殺害することも考えていたようだが、ギョーム・ド・ノガレはフランスで裁判を受けさせることが重要だと考えており、それを止めたが、実際のところ教皇が何をされたのかはっきりしない。
コロンナは、憤慨して罵りの言葉を吐く教皇を殴って黙らせた*9というが、この時点で教皇を異端者として扱っているため、かなり酷いことをした可能性もある。
*9 アナーニの殴打という成句があるそうだ。
その後、教皇はアナーニの住民たちにより救出されたが、憤慨のあまり持病を悪化させ、まもなく死去した。しかし、受けた屈辱を恥じて自殺*10したという噂も流れた。
*10 この時代、カトリックにおいて自殺は重大な犯罪であり、教皇が自殺したとすると前代未聞のスキャンダルである。
教皇庁は、フランス王の実力行使に大きな衝撃を受け、まもなく選出されたベネディクトゥス11世は、ギョーム・ド・ノガレとコロンナを破門したが、フランス王への以前の破門を取消して、事実上ウナム・サンクタムを撤回している。しかし、8ヶ月後に死亡しており、ギョーム・ド・ノガレによる毒殺の噂が流れた。次の教皇選出の際には、反フランス派と親フランス派が激しく対立したが、フランス王による実力行使を恐れる中間派は妥協策として、枢機卿でなく教皇庁の政治に関与していなかったボルドー大司教*11を選出した。
*11 彼はアキテーヌ出身で、ボルドーはイングランド王領であるため適切な妥協案と思われた。
しかし、教皇庁に政治的基盤を持たない新教皇クレメンス5世は、政情不安定なローマに赴くことを拒み、フランス王フィリップ4世を後ろ盾としてリヨンで戴冠し、フランス人(というより彼と同郷であるアキテーヌ、ガスコーニュ、ラングドック人*12)枢機卿を大量に任命して、フランス勢力圏(ナポリ・アンジュー家)内のアヴィニョンに居住した。以降、アヴィニョン教皇時代となり、教皇権はフランス王の大きな影響を受けるようになる。(アナーニ事件とアヴィニョン捕囚も参照のこと)
*12 これらはオック語圏で、北部のフランス語圏とは別民族といえる。