ジャンヌ・ダルクの裁判

ジャンヌ・ダルクの裁判(1) - 1431年ルーアン

ジャンヌ・ダルクは現代ではカトリックの聖人、フランスの愛国者、全世界的にも女性のヒーロー、偉人として親しまれており、女性がリーダーシップを取って歴史に影響を及ぼした例として女権主義者にも人気があるようだ。

彼女は百年戦争中の1430年にコンピエーニュでブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランドに引き渡された後*1、フランスのルーアンで宗教裁判を受け、1431年に異端者として火刑にされているが、1456年の再審で以前の判決が無効とされている。

*1 身代金を払わなかったことについて、しばしばシャルル7世が非難されるが、支払い義務は家族や臣下にあり主君にはない。但し、主君が当人を必要とした場合に立て替えることは有るため、この時点で彼女を必要としなかったとは言える。

ここでは彼女の裁判を通して、何の罪に問われていたのかを見てみたい。

中世の人間にとって、神の言葉に逆らうことは考えらないが、といって自分の不利となるお告げをすんなり受けいれる程に甘くもなく、神意を受けたと称する人間が敵に味方するのであれば、悪魔に惑わされた異端者と見なして糾弾せざるを得ないのである*2。

*2 相手が教皇ですら、アナーニ事件の前にフィリップ4世はボニファチウス8世を異端として糾弾している。農民の小娘なら尚更である。

そこで裁判は彼女が異端者であることを証明することを目指すのである。宗教裁判などは、真面目な裁判でも非信者から見るとナンセンスな神学論争であるが、この裁判は政治的な面も強いため、その問答から意図が透けて見えて興味深いところがある。

焦点となったのは、彼女が聞いた「声/お告げ」、使いとして現れる聖人(御使い)、シャルル王太子に示した「しるし(徴)」、男装、行動とお告げの関係、処女性などである。

裁判長はブーベ司教ピエール・コーション*3で、ジャンヌが捕虜にされたコンピエーニュが教区内であり、ルーアンの聖堂参事会から委任されたとしているが、本来はルーアンでの裁判を司るべきではないため、後に裁判の手続き上の誤りとされることになる。

*3 フランスの攻撃によってブーベ司教区から避難してきており、イングランドに取り入って良い地位を得ようと考えていたようである。

審問の前に調査されたのは、彼女の処女性*4と身元確認で、前者はベドフォード公夫人*5の監督の下で確認されており、後者は出身地のドンレミ村に派遣した調査員の報告から不審な点、罪となるような行為がなかったことが確認されている。

*4 神のお告げを聞く巫女は処女性が求められ、また魔女は悪魔と契りを交わすと考えられていたため、魔女でないことの証明となった。
*5 ベドフォード公ジョンの夫人でブルゴーニュ公の娘のため、ジャンヌを庇う理由はなく、処女性は証明されたと言える。

裁判での証言をまとめると、最初に神からの声を聞いたのは12から13歳の頃で、それ以来、彼女を助け導いており、この7年間の声は聖カタリナ、聖マルガリタだったが、最初の声は聖ミカエルだった*6。聖人は光と共にやってくる。聖人を2つの目で良く見ている*7。呼ばなくとも来るが、来ない時は神に願う。聖的体験(ヴィジョン)を人に伝えたことはない。

*6 それぞれカトリックの聖人。ミカエルは多分、大天使。
*7 光を伴うと述べることで、声、聖人が悪魔、魔物、精霊などでなく真正であることを示唆し、また、明確に聖人であることを目視で認識していると述べている。

声が間違えることはなく、オルレアンで負傷することは知っていた。自分が捕まることも知っていたが、いつ捕まるかは知らなかった*8。私の行為は全て声に従ったものです。神がこの仕事に彼女を選んだ理由は、単なる娘が王の敵を追い払うことを神が望んだからです。パリを攻撃したのは声に従ってではなく、攻撃を望む貴族たちの要望です*9。

*8 負傷や捕虜となるのは神の加護を失ったからではないかとの疑惑に対して、それも神の望んだこととしている。イエスの磔を想起したものだろう。
*9 パリ攻撃の失敗は神の指示ではなかったからとしている。

何の大罪も犯していない。犯していれば聖マルガリタと聖カタリナは来ないでしょう。指輪で病人を治したことはなく、マンドレークを持っていたことはない*10。多くの女性が私の指輪や手に触れたがるが、その意図は分からない。

*10 不思議な方法での病人の治療やマンドレークの所有は魔女の証拠となる。

「しるし」*11については答えることはできない、王に聞きなさい。

女性の服装を渡されれば着るが、これで結構です。神がそれを望んでいますから。

ブーベの城から脱出しようとした時に声は止めたが、イングランド人が怖かったため神に任せて跳んだ。イングランド人の手中となるより、魂を神に捧げる方を望んだ。自殺するつもりではなく逃げたかった*12。

*11 ジャンヌの真正とシャルル王太子の正統性を明らかにしたとされる。
*12 塔から飛び降りての脱出が失敗したのは、声の指示ではなかったとしている。また自殺は大罪とされるため、それを否定している。

「あなたに神の恩寵が有ることを知っていたのか?」「無ければ神が与えるでしょうし、有れば神はそれを維持するでしょう。神の恩寵が無いことが分かっているとしたら、私はこの世でもっとも哀しい存在でしょう。」*13

*13 これは神学的ひっかけであり、神の恩寵は人間には知ることができないとされているため、知っていると答えれば異端となり、知らないと答えれば彼女の行動が神の意ではないということになるが、それを上手くかわして審問者達を驚かせている。

同じように神の啓示を受けたと述べるカトリーヌ・デ・ラ・ロシェルとの会見の印象を聞かれて、聖人達との相談の後、「愚か者としか思わなかった」*14。

*14 同類を否定するものである。ここでデ・ラ・ロシェルを肯定すると、デ・ラ・ロシェルが否定された時に同時に否定されることになるためでもある。

裁判におけるジャンヌの回答は、無学な農民の娘としては非常に優れたものと評価されている。しかし答えは完璧でも判決は最初から決まっており、彼女は処刑台に連れて行かれ、彼女のヴィジヨンを放棄し、兵士の服装を止めると宣誓した文書に署名しない限り、火刑にすると告げられた。

彼女は看守によるレイプを避けるために男装を続けており*15、この監獄の中では止めるつもりはないと何度も述べていたが、上記のように言われて署名することに同意した。

*15 単に処女としてレイプを怖がっただけでなく、神の巫女として処女であることが必要なことと処女でなくなれば魔女とされる恐れがあるためである。

これにより、罪を減じられて終身刑とされたが、4日後に再び男装していることが見つかった*16。同じ罪を2度犯せば赦されず、異端者として火刑が決定した。男装そのものが異端というより*17、彼女の異端性を象徴するものが男装であり、それを繰り返したことで異端を悔い改めていないと見なされたのである。

*16 やはりレイプを恐れて再び男装したとも、女性の服を隠されて男装するよう仕向けられたとも言われる。異端であることを認めさせれば目的は達成されており、必ずしも処刑する必要はないため、上層部の意図的なものなのか現場の悪意だったのかは不明である。
*17 旅行時や戦時などの緊急避難的な男装は一般的に認められていた。

ジャンヌ・ダルクの裁判(2) - 1456年再審

裁判に関わった聖職者達は単に支配者であるイングランドに阿諛追従したのではなく、本質的に聖職者にとって神から直接お告げを聞いたと称する人物は危険なのである*18。

カトリックは地上における神の代理人を自認しているが、その聖職者を通さず直接に一般信者に神がメッセージを送るのであれば、聖職者は必要ない*19、あるいは神は現在の聖職者を代理人として認めていないことになりかねない。

*18 現代風に言えば総代理店を通さない並行輸入業者のようなものである。
*19 プロテスタントには専門の聖職者がいない宗派もある。

十字軍のような異教徒との戦いなら、こういう人間が出ても味方の活力となるだけで害は少ないのであるが*20、キリスト教徒同士の戦争で神の加護を持ち出されては基本的に中立で調停に携わる教会は困るのである。まだしも、当初のジャンヌの受けたお告げのようにオルレアンの解放とシャルルの戴冠にのみ限定するのなら良いのだが、その後のジャンヌの行動のように神の声に従っていると言いながら自由に活動されると彼女が神の代理人のようなオールマイティな存在になってしまうのである*21。

*20 元々、聖職者が異教徒を倒せと呼びかけているため、それを補強するだけである。
*21 この点ではシャルル7世側も持て余し始めていた。

また、ジャンヌのような者を認めると際限もなく似たようなことを言う人々が出てくる可能性があり、教会としては厳しく対応する必要があるのだ。

再審も最初の裁判以上に政治的であり、シャルル7世が再審のための調査をパリ大学の神学者に命じたのは、ルーアンを陥落させてノルマンディをほぼ制圧した1450年であるが、多くのパリ大学の神学者達が前回の裁判に関連していたため調査はあまり進まず、王の命令により中止された。しかし、1452年にフランスへの教皇特使デストートヴィルがジャンヌの再調査をシャルル7世に勧め、審問官が任命されて調査は進められた。

シャルル7世があまり乗り気でなかったのは、フランスの教会に対する教皇の干渉を認めない*22ブルージュ国本勅諚について教皇庁と対立があり、教皇庁が再審に関与する*23ことを嫌っていたことと、当時、ルーアン大司教など裁判に関係した多くの人間が生存しており、現在ではシャルル7世を王として認めているため、彼等を非難することはしたくなかったのである。

*22 後にガリカニスムとして知られるフランス教会の方針である。
*23 ルーアンはフランスの教会なのである。

教皇庁では、1453年のコンスタンティノープル陥落を受けて、対オスマン十字軍の結成を企てており、イングランドとフランスの講和を望んでいたため、イングランドを怒らせるような行動は避けていたのだが*24、1455年には薔薇戦争が始まっており、イングランドには反対する余裕も十字軍に参加する可能性もなくなっていた。であれば、フランス教会に教皇庁が干渉するチャンスであり、新たに教皇に就任していたカリストゥス3世*25は教皇特使を通じて、1455年にジャンヌの家族が教皇に訴えるように仕向けて再審を命じた。

*24 デストートヴィル枢機卿の本来の任務は英仏間の和平だったが、自分の思惑で再調査を勧めていた。
*25 ボルジア教皇で、あのアレクサンデル6世の叔父。

担当したランス大司教は、ピエール・コーションの後にブーベ司教だったことがあり、ガリカニスムの信奉者でもあったため、教皇の干渉を避け、裁判に関連した生存している人間やフランス教会の権威を傷つけない方針で、かつシャルル7世が異端の魔女の助けを受けて王位に就いたという汚名を拭うべく、単に前回の裁判の手続きが誤っているため無効であるとし、ジャンヌの正統性や異端性を争点としなかった。

調査では100人以上の証言が集められ、いずれもジャンヌの純粋さ、誠実さ、勇気を証言しているが、一部の者は協力的ではなく、ただ良く覚えていないと答えている。また重要な関係者の中にも証言を得られていない者もいた*26。

*26 要するにジャンヌの利益となる証言が集められた。ジャンヌを良く思っていない者は言葉を濁すか、最初から聞かれなかったのである。

審問官は、ジャンヌが殉教者であり、ブーベ司教ピエール・コーションは世俗的な復讐のために無実の女性を罪に陥れた異端者である*27と示唆した報告を行ったが、1456年の再審の判決では、誤った告訴により裁判された1431年の判決は無効であるとしたのみで、ジャンヌの正統性や当時の裁判関係者の責任は一切問われなかった。

*27 この時点で既に故人であるため気遣う必要がなかった。

このようにジャンヌの復権はあまり目立たないように配慮されたため、16世紀にはフランスのカトリック同盟*28のシンボルとして扱われたりもしたが、オルレアンの乙女ことジャンヌ・ダルクの名前はそれ程、世に知られていなかった。フランス革命前後のナショナリズムの昂揚により彼女への関心が高まり国民的英雄として知られるようになり、またカトリックでは、1909年に福者となり、1920年に聖人となっている。現代では文学作品や世界の偉人として、歴史上で最も知られている人間の1人であろう。

*28 フランスの宗教戦争であるユグノー戦争時におけるカトリック諸侯の同盟

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