アルビジョワ十字軍というのは、南仏で広がっていた異端のカタリ派(アルビ派)に対して派遣された十字軍で、これが従来の十字軍と異なるのは、対象がキリスト教の異端であることとアルビ派がカトリックの中に溶け込んでいることである。
異端の何がいけないかというと建前としては、「魔女と異端」で述べたように悪魔が広めた教えだからとなるが、キリスト教は元々、イスラム教のような教祖による教団と教典(コーラン)を持っておらず、直接の弟子(使徒)を中心にイエスをキリスト(救世主)と認める人々が、イエスの行動(福音)と十字架による磔(受難)の意味を考えて色々な解釈を行ったため、非常に幅広いものだった。
それが、ローマ帝国における公認及び国教化と並行して教義の統一が図られ、その論争に敗れた教え・思想*1は異端として排除され迫害・弾圧を受けた。ローマ帝国崩壊後は、そのような統制はとれず、異教徒への布教が優先で、異教の習慣も取り入れた教義や典礼が地域ごとに行われていたが、カール大帝によりキリスト教を基盤とした西ローマ帝国の概念が復活し、11世紀のグレゴリウス改革によりローマ教皇を中心とした体制が作られ、教皇庁で決めた教義*2が全てのカトリック世界に適用され、それに反するものは異端とされるようになった。
苦労して達成した教義の統一を守らねばの思いと、異端が広がり主流派となって自分たちが迫害・弾圧されることを危惧して、早い段階で潰そうと考えるのである。
*1 主なものに非カルケドン各派、アリウス派、ネストリウス派などがあるが、細かく見れば非常に多い。
*2 正確には教会議、公会議で決定されるが、11世紀以降は、教皇の見解がほとんどそのまま承認される。
カタリ(清浄)派という名前はかなり古く3-4世紀から存在するのだが、中世のカタリ派との直接の関係は明らかではなく、むしろワルド派と同様に、12世紀頃に起こった、より聖書に忠実に清貧な暮らしを勧める運動が、ブルガリアのボゴミル派の影響を受け、南ドイツから南仏、北イタリアに広まったものらしい。彼らには統一の指導者や組織はなく、地方ごとに色々な呼称があり、南仏ではアルビ派と呼ばれたものである*3。
*3 呼び名は彼らを異端と見なすカトリック側が付けるもので、当人たちは正統派のキリスト教と考えている。
カタリ派の教義は全て破壊されて残っておらず、カトリック側から書かれた物、および同系統と見なされているボゴミル派の教義から推測されるだけだが、二元論的なグノーシス主義とマニ教の影響を受けており、マニ教はユダヤ教やキリスト教に加えて拝火(ゾロアスター)教や仏教の影響も受けているため*4、様々な宗教的要素を持っている。
*4 当時の主要宗教の好いとこ取りなのだが、その分、個性が弱いため、他の宗教との競争に敗れて吸収されたのだろう。
しかし、他宗教から影響は受けていても、カタリ派の信条自体はより新約聖書に忠実なものであり、その解釈がカトリックなどの主流派と異なるだけである。
「悪魔学入門」でも触れたが、聖書を読むと、旧約と新約で唯一神の性格が随分変わっていることに驚くが、カタリ派では素直に旧約の神は悪神で新約の神を善神としており、神は清浄な魂として人間(天使)を創ったのだが、悪神(サタン)が人間を騙して、自らが創った地上(現生=地獄)に連れてきて(楽園追放)、肉体の檻に閉じ込めたと考えている。
このため、肉体を魂を捕えている枷と見なし、魂が肉体から解放され神の元にたどり着くことを願うが、生前の行いが悪ければ、再び生まれ変わって肉体に捕われるという思想は、まさに釈迦の教え仏教と似ているのである*5。仏教はバラモン教の輪廻思想により、魂は輪廻して、そのたびに肉体を持って病気、老いの苦痛を永遠に繰り返すが、悟りを開くことで成仏し永遠の存在になれるというもので、違いは神や天国の存在だけだが、浄土宗では阿弥陀仏と極楽浄土がその役割を果たしており、また厭離穢土という思想も似ている*6。
*5 マニ教からの影響だろう。あるいは、直接、仏教からの可能性もある。
*6 このため、仏教徒としては親近感がある。
現生と肉体を悪神の産物として嫌い、肉食、殺生、生殖、婚姻、所有など、いっさいの世俗生活を否定し、しばしば断食して苛烈な苦行を実行したと書かれると危険なカルトに見えるが、これは他宗教の聖職者や修行僧に値する人々のことで、どの宗教でも聖職者にはそのような制限が課されているものである。
カタリ派では完徳者と言って、聖職者階級とは違うのだが指導的な階層で、一般信者もいずれ完徳者になるのだが、それまでは普通の生活を営み、多くの一般信者は死を悟った時に唯一の秘蹟であるコンソラメントウム(救慰礼)を受けて完徳者として死去するため、肉体の枷から解き放たれるのである。
まあ、二元論や魂の輪廻などの教えを見れば、カトリックから異端扱いされるのは仕方がないと思えるが、実際に教義を理解しているのは聖職者階層だけで、一般信者は単にイエス=キリストを信じ、(新約)聖書に従えば天国に行けると理解しているだけで、豪奢な生活をして隠し妻などを持っているカトリックの聖職者より、より聖書に忠実で清貧なカタリ派の聖職者の方が尊敬に値すると考えて従っていたのである。
実際、聖ドミニコはアルビ派を回心させるために接触しており、一般信者が聖職者の清貧を慕っているのを見て、民衆の中で説教を行う清貧な托鉢修道会の必要性を痛感してドミニコ会を作ったのだ*7。清貧を説いて、腐敗した聖職者を非難したのは、アシジの聖フランチェスコも同様であるが、彼の場合は極端な清貧で危うく異端扱いされそうになり、これ以上、異端を増やしたくないイノケンティウス3世が手綱をつけておくために、この活動を仮承認したためフランシスコ会は助かったのである。
*7 聖ドミニコはアルビ派の清貧な態度は尊敬したが、教義自体は明確に異端と認識しており対抗すべきと考えていた。
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(1) - カタリ派
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(2) - 南仏
中世は残虐な世界であり、一つの町が皆殺しになることも前例がないわけではなく、十字軍はイスラム教徒や多神教徒に非常に残虐なことをしており、比較的、寛容だったユダヤ教徒に対しても、しばしば厳しい迫害を行っている。
南仏に同情して書かれたものでは、トゥルバドールなどの宮廷文化が花開いた平和な南仏に残虐な十字軍が来襲して、殺戮と略奪の限りを尽くしたと描かれがちだが*8、別に南仏も楽園だったわけではない。
*8 ファンタジー系によくある設定であるが、現実にはそんな無防備な国・社会は自力救済の中世には存在しない。
中世の他の地域と同様に小規模の争いは絶え間なくあり、都市では党派抗争が存在しているが、ゲルマン的、封建色の強い北フランスと比べると、都市の発達や比較的、自由民が多く開放的な点でイタリアに近い性格を持っている。
地域の大貴族はトゥールズ伯であるが、これも中世らしく領主の連邦国家として親族関係と封建関係を通じて緩やかに繋がっているだけで一元的に支配しているわけではなく、フォワ伯、トランカヴェル副伯といった有力な領主がおり、他にアラゴン王(バルセロナ伯)が南仏の各所に所領や宗主権を持っており、領土争いや勢力争いは常だった。また、コミューン(宣誓共同体)が発達しており、トゥールズですらコミューンによる自治が行われ、トゥールズ伯の思いのままになるわけではなかった。
南仏のアルビ派は、都市コミューンの一員として受け入れられており*9、従って、教皇からアルビ派の弾圧を要請されても、コミューンはその一員であるアルビ派の市民を守ろうとし*10、領主たちの中にもアルビ派のシンパは存在し、そうでなくとも臣下や役人として問題なく義務を果たしている者をアルビ派というだけで追放したり処刑したいとは思わず、仮にトゥールズ伯が教皇の要請を受け入れたとしても深刻な内戦になる可能性は高いのである。
領主階層はさすがにカトリックを敵にしたくないため信者になる者は少ないが、アルビ派に好意を持っている者も多かった*11。現地のカトリックの聖職者も現実を認識しており、あえてアルビ派と激しく対立しようとはしなかった。
*9 ただし、南仏が全てアルビ派を受け入れていたわけではなく、都市の党派抗争では、片方が親アルビ派であれば、片方が親カトリックとしてアルビ派を攻撃することもあった。
*10 コミューンというのは成員の共同防衛を誓った誓約団であり、理由の如何を問わず外部の勢力から成員を守り、裁く必要があれば内部で裁くのである。
*11 カタリ派は教会の財産や世俗権力への干渉を批判していたため、領主層にとっては都合が良かった。後の宗教改革が権力者に支持されたのは、その理由が大きい。
1147年に当時の教皇エゲニウス3世が南仏を中心に広がる異端を否定しており、クレルボーのベルナール*12が説得に行ったが効果は少なく、1163年のトゥール教会議でアルビ派の名で異端と認定したが効果はなかった。1167年にはアルビ派は独自の教会議*13を開き各地に司教区を設置するなど、その勢いは無視できないものになり、1179年の第3回ラテラン公会議で異端への武力弾圧を認め、1180年には枢機卿が小規模な軍勢でトランカヴェル領のラヴァールを奪ったが、それで引き上げているようだ*14。
*12 クレルボー修道院を開き、当時、非常に尊敬され、第2回十字軍の勧誘や教皇選出などに強い影響力を及ぼした。
*13 ボゴミル派の総主教や北仏や北イタリアのカタリ派からも参加者が集まった。
*14 枢機卿とナルボンヌ大司教の争いやナルボンヌ女伯、トランカヴェル副伯 対 トゥールズ伯の争いも絡んでいるようだが、詳細は良く分からない。
こうして、アルビ派に対して打つ手が無くなっていたようだが、1198年に最強の教皇イノケンティウス3世が選出されて事態は動き始めた。
最強の教皇と言えども、政治情勢には左右される*15。トゥールズ伯は南仏の独立的な勢力であるが、アンジュー帝国とフランスの争いに無関係ではなく、以前からアキテーヌ公はトゥールズ伯領の所有権を主張しており、アリエノール・ダキテーヌと結婚したヘンリー2世もこの主張を受け継いだため、当時のトゥールズ伯レーモン5世はルイ7世に援助を求めて、その妹のコンスタンスと結婚しており、その間の子がレーモン6世である。
しかし、この後、トゥールズ伯はプランタジネット家と和解して、レーモン6世はヘンリー2世の娘ジョーンと結婚しており、その間の子がレーモン7世であり、レーモン6世にとってフランス王フィリップ2世は従兄弟だが、隣接するアキテーヌ・ガスコーニュを領有するプランタジネット家のリチャード獅子心王、ジョン王とは義理の兄弟の関係にあった。そのアンジュー帝国が1204年に大陸領土を奪われて崩壊したため、トゥールズ伯の立場は微妙になっており、教皇側の態度が強硬になってきたのである。
*15 というより自らの武力を持たない教皇は政界の風見鶏であり、その微妙な風向きに合わせて世俗王侯に圧力を掛けるのである。
1204年にシトー会修道院長アーノルト・アモーリがアルビ派対策の教皇特使に任命された。彼も強硬だったが、それ以上に、その部下として直接、交渉を担当したシトー会修道士ピエール・カステルノーは高圧的であり、1206年に地元の領主層にアルビ派を弾圧するよう強要し、断られると彼らを罵り破門した。一介の修道士に王侯を破門する権限はないが*16、1207年にイノケンティウス3世はこれを認めてトゥールズ伯レーモン6世を破門したため、両者の間で交渉が行われ、1208年1月にカステルノーが異端の弾圧を要求して激しい口論になり、改めてレーモン6世に破門を宣告した後に帰り道で暗殺された。犯人は不明であり、レーモン6世の関与も明確ではないが、教皇特使の暗殺に既にカトリック世界の最高権威と自認していた教皇のプライドは傷付き、これまで異教徒にのみ行われてきた十字軍を異端に向けたのだった。
*16 教条的には、聖職者はあらゆる信徒を破門する権限を持っていたが、実際には身分・管轄に合わせた者が行っていた。
南仏に同情して書かれたものでは、トゥルバドールなどの宮廷文化が花開いた平和な南仏に残虐な十字軍が来襲して、殺戮と略奪の限りを尽くしたと描かれがちだが*8、別に南仏も楽園だったわけではない。
*8 ファンタジー系によくある設定であるが、現実にはそんな無防備な国・社会は自力救済の中世には存在しない。
中世の他の地域と同様に小規模の争いは絶え間なくあり、都市では党派抗争が存在しているが、ゲルマン的、封建色の強い北フランスと比べると、都市の発達や比較的、自由民が多く開放的な点でイタリアに近い性格を持っている。
地域の大貴族はトゥールズ伯であるが、これも中世らしく領主の連邦国家として親族関係と封建関係を通じて緩やかに繋がっているだけで一元的に支配しているわけではなく、フォワ伯、トランカヴェル副伯といった有力な領主がおり、他にアラゴン王(バルセロナ伯)が南仏の各所に所領や宗主権を持っており、領土争いや勢力争いは常だった。また、コミューン(宣誓共同体)が発達しており、トゥールズですらコミューンによる自治が行われ、トゥールズ伯の思いのままになるわけではなかった。
南仏のアルビ派は、都市コミューンの一員として受け入れられており*9、従って、教皇からアルビ派の弾圧を要請されても、コミューンはその一員であるアルビ派の市民を守ろうとし*10、領主たちの中にもアルビ派のシンパは存在し、そうでなくとも臣下や役人として問題なく義務を果たしている者をアルビ派というだけで追放したり処刑したいとは思わず、仮にトゥールズ伯が教皇の要請を受け入れたとしても深刻な内戦になる可能性は高いのである。
領主階層はさすがにカトリックを敵にしたくないため信者になる者は少ないが、アルビ派に好意を持っている者も多かった*11。現地のカトリックの聖職者も現実を認識しており、あえてアルビ派と激しく対立しようとはしなかった。
*9 ただし、南仏が全てアルビ派を受け入れていたわけではなく、都市の党派抗争では、片方が親アルビ派であれば、片方が親カトリックとしてアルビ派を攻撃することもあった。
*10 コミューンというのは成員の共同防衛を誓った誓約団であり、理由の如何を問わず外部の勢力から成員を守り、裁く必要があれば内部で裁くのである。
*11 カタリ派は教会の財産や世俗権力への干渉を批判していたため、領主層にとっては都合が良かった。後の宗教改革が権力者に支持されたのは、その理由が大きい。
1147年に当時の教皇エゲニウス3世が南仏を中心に広がる異端を否定しており、クレルボーのベルナール*12が説得に行ったが効果は少なく、1163年のトゥール教会議でアルビ派の名で異端と認定したが効果はなかった。1167年にはアルビ派は独自の教会議*13を開き各地に司教区を設置するなど、その勢いは無視できないものになり、1179年の第3回ラテラン公会議で異端への武力弾圧を認め、1180年には枢機卿が小規模な軍勢でトランカヴェル領のラヴァールを奪ったが、それで引き上げているようだ*14。
*12 クレルボー修道院を開き、当時、非常に尊敬され、第2回十字軍の勧誘や教皇選出などに強い影響力を及ぼした。
*13 ボゴミル派の総主教や北仏や北イタリアのカタリ派からも参加者が集まった。
*14 枢機卿とナルボンヌ大司教の争いやナルボンヌ女伯、トランカヴェル副伯 対 トゥールズ伯の争いも絡んでいるようだが、詳細は良く分からない。
こうして、アルビ派に対して打つ手が無くなっていたようだが、1198年に最強の教皇イノケンティウス3世が選出されて事態は動き始めた。
最強の教皇と言えども、政治情勢には左右される*15。トゥールズ伯は南仏の独立的な勢力であるが、アンジュー帝国とフランスの争いに無関係ではなく、以前からアキテーヌ公はトゥールズ伯領の所有権を主張しており、アリエノール・ダキテーヌと結婚したヘンリー2世もこの主張を受け継いだため、当時のトゥールズ伯レーモン5世はルイ7世に援助を求めて、その妹のコンスタンスと結婚しており、その間の子がレーモン6世である。
しかし、この後、トゥールズ伯はプランタジネット家と和解して、レーモン6世はヘンリー2世の娘ジョーンと結婚しており、その間の子がレーモン7世であり、レーモン6世にとってフランス王フィリップ2世は従兄弟だが、隣接するアキテーヌ・ガスコーニュを領有するプランタジネット家のリチャード獅子心王、ジョン王とは義理の兄弟の関係にあった。そのアンジュー帝国が1204年に大陸領土を奪われて崩壊したため、トゥールズ伯の立場は微妙になっており、教皇側の態度が強硬になってきたのである。
*15 というより自らの武力を持たない教皇は政界の風見鶏であり、その微妙な風向きに合わせて世俗王侯に圧力を掛けるのである。
1204年にシトー会修道院長アーノルト・アモーリがアルビ派対策の教皇特使に任命された。彼も強硬だったが、それ以上に、その部下として直接、交渉を担当したシトー会修道士ピエール・カステルノーは高圧的であり、1206年に地元の領主層にアルビ派を弾圧するよう強要し、断られると彼らを罵り破門した。一介の修道士に王侯を破門する権限はないが*16、1207年にイノケンティウス3世はこれを認めてトゥールズ伯レーモン6世を破門したため、両者の間で交渉が行われ、1208年1月にカステルノーが異端の弾圧を要求して激しい口論になり、改めてレーモン6世に破門を宣告した後に帰り道で暗殺された。犯人は不明であり、レーモン6世の関与も明確ではないが、教皇特使の暗殺に既にカトリック世界の最高権威と自認していた教皇のプライドは傷付き、これまで異教徒にのみ行われてきた十字軍を異端に向けたのだった。
*16 教条的には、聖職者はあらゆる信徒を破門する権限を持っていたが、実際には身分・管轄に合わせた者が行っていた。
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(3) - シモン・ド・モンフォール
イノケンティウス3世はアルビジョワ十字軍を率いるようフィリップ2世に要請したが断られたため*17、南仏諸侯の領土は切り取り次第与えると北フランスの騎士たちに呼び掛けた*18。
十字軍の問題は、相手が異教徒だから何をしても良く、西欧の戦争で存在した騎士道、慣習法、教会による保護と言ったルールが一切なく、通常はモラルの守護者であり戦争の抑止や生命・身体の保護の力となる教会が殺戮や略奪を推奨するため、歯止めもなく残虐な行為が行われることにある。
*17 大陸領土の回復を狙うジョン王と対峙していることを理由とした。南仏を教皇の思うままに荒らされたくないとの思いもあったが、教皇の機嫌を損じたくもないため、北フランスの騎士が参加することは止めなかった。
*18 基本的に十字軍は占領した土地を私有でき、免罪など全て通常の十字軍と同じ条件だった。
アルビジョワ十字軍のリーダーとなったシモン・ド・モンフォール*19は、第4回十字軍では同じキリスト教徒のザラ攻撃に反対して、少数の同調者と共に真っ直ぐに聖地に向かったのだが、今回、イノケンティウス3世の誘いに乗ったのは、聖地の実態を見て幻滅し、ラテン帝国を立てた仲間たちが大きな領地を得たのを羨んで後悔したのだろう*20。
このため、南仏の土地を欲した北仏の騎士が参加したと書かれるが、大部分の者は短期の参加であり、領地には興味がなかった。罪を犯して免罪のために来る者や報酬や略奪目当ての傭兵もいたが、この時代の騎士・貴族にとって、十字軍への参加は体面的に一度はすべき義務に近く、同じ参加するなら海を越えたレバントより、近場の南仏の方が安くつくとの計算が働いている。
*19 同名の息子がヘンリー3世時代のイングランドで、第二次バロン戦争(シモン・ド・モンフォールの乱)の主要人物となった。
*20 女系継承でイングランドのレスター伯の権利があったのだが、ジョン王はフィリップ2世を主たる主君(リージロード)とする者のイングランド領土を没収しており権利を奪われていた。
南仏の諸侯は異端を積極的に弾圧しなかっただけでカトリックに十字軍が向けられたことに驚愕し、直ちに屈服して*21、弾圧に協力することを誓った。本来ならこれで目的を果たしたとして引き上げれば良いはずだが、元々、アルビ派に同情的で弾圧を好まなかった領主たちがどれだけ熱心に異端弾圧に励むかは疑問だし、何よりも餌で集めた十字軍を手ぶらで返すわけにはいかなかった。
*21 まだ十字軍は正義の軍と言う認識が強く(官軍、錦の御旗と似ているだろう)、それと戦うことには心理的抵抗が大きかった。
教皇特使の暗殺を指示したと見做されたトゥールズ伯レーモン6世の帰順は認められたが*22、カタリ派の多いアルビ、ベジェ、カルカソンヌの領主であるレーモン・ロジェ・トランカヴェルがスケープゴートにされ、教皇特使アーノルト・アモーリはトランカヴェルの帰順を拒絶し、1209年7月21日からベジェを第一目標とした。
*22 トゥールズ伯が中心となって抵抗されると手強いと判断したのだろう。
ベジェは必ずしも領主のトランカヴェルに忠実なわけではないが、コミューンの建前としてアルビ派を引き渡すわけにはいかず、小競り合いの多い南仏で戦い慣れており、ある程度の期間の防衛にはそれなりの自信を持っていたようだ。
しかし、比較的穏やかな南仏の騎士と違い、北仏の騎士は予想以上に乱暴で戦巧者であり*23、何よりも十字軍として常識やマナーを超えた戦い方をしてきた。士気自体は旺盛だったベジェは城内からの突撃を敢行したが*24、その戻る際に付入れられ、一気に制圧されてしまった。防衛していた者が撫で斬りにされるのは、どこの落城でもそうだが、教会などに避難していた非戦闘員に対して、カトリック、異端の区別なく全員が虐殺された。区別を聞かれた教皇特使アーノルトが「皆殺しにしろ。誰かは神が知りたもう」と述べたとされるのは有名である。
*23 上方武者と坂東武者の対比に似ているのかもしれない。そう言えば、アルビジョワ十字軍を題材にした小説「オクシタニア」では、南仏の言葉(オック語)は関西弁で表現されていたそうである。
*24 西欧の城攻めでは城側の常套手段である。殻に閉じ籠って防衛するだけでなく機を見て突撃し、敵の攻城兵器を破壊したり重要人物を打ち取って、敵の士気を挫き味方の士気を上げるのだ。
しかし、この悲報を聞いてもトランカヴェルが籠るカルカソンヌは防衛を選択した*25。アラゴン王ペドロ2世は南仏にも多くの領地を持ち、カルカソンヌの宗主でもあったため仲介を試みたが、教皇特使アーノルトは強硬に攻撃を主張し、8月1日から攻撃が始まった。
*25 現在、世界遺産として残る城壁は後に建設された物であるが、この時代にも堅牢な城壁を有していた。
カルカソンヌの弱点は水の手であり、城外の川から水を取っていたが、そこを奪われたのである*26。トランカヴェルは降伏交渉に向かったが、安全を保障されていたにも拘らず逮捕され、地下牢に閉じ込められ獄死させられ*27、8月15日にカルカソンヌは降伏した。住民の命は助けられたが、何一つ持つことを許されず追放された。
*26 水汲み場は堅牢に防備されている。
*27 地下牢での獄死は、一息に斬首されるより辛い死に方である。
これに震え上がった他の都市は戦わずして降伏し*28、トランカヴェルの領地はシモン・ド・モンフォールに与えられ、サンポール伯やヌベール伯などの南部の領地に興味のない者は帰還し、8月末には概ね十字軍は終了した。
*28 ベジェの虐殺もモンゴルのように後の抵抗を減らすために意図したのかもしれない。アルビ派は予め退去して、より堅牢なアルビ派の拠点に移ったのだろう。
十字軍の問題は、相手が異教徒だから何をしても良く、西欧の戦争で存在した騎士道、慣習法、教会による保護と言ったルールが一切なく、通常はモラルの守護者であり戦争の抑止や生命・身体の保護の力となる教会が殺戮や略奪を推奨するため、歯止めもなく残虐な行為が行われることにある。
*17 大陸領土の回復を狙うジョン王と対峙していることを理由とした。南仏を教皇の思うままに荒らされたくないとの思いもあったが、教皇の機嫌を損じたくもないため、北フランスの騎士が参加することは止めなかった。
*18 基本的に十字軍は占領した土地を私有でき、免罪など全て通常の十字軍と同じ条件だった。
アルビジョワ十字軍のリーダーとなったシモン・ド・モンフォール*19は、第4回十字軍では同じキリスト教徒のザラ攻撃に反対して、少数の同調者と共に真っ直ぐに聖地に向かったのだが、今回、イノケンティウス3世の誘いに乗ったのは、聖地の実態を見て幻滅し、ラテン帝国を立てた仲間たちが大きな領地を得たのを羨んで後悔したのだろう*20。
このため、南仏の土地を欲した北仏の騎士が参加したと書かれるが、大部分の者は短期の参加であり、領地には興味がなかった。罪を犯して免罪のために来る者や報酬や略奪目当ての傭兵もいたが、この時代の騎士・貴族にとって、十字軍への参加は体面的に一度はすべき義務に近く、同じ参加するなら海を越えたレバントより、近場の南仏の方が安くつくとの計算が働いている。
*19 同名の息子がヘンリー3世時代のイングランドで、第二次バロン戦争(シモン・ド・モンフォールの乱)の主要人物となった。
*20 女系継承でイングランドのレスター伯の権利があったのだが、ジョン王はフィリップ2世を主たる主君(リージロード)とする者のイングランド領土を没収しており権利を奪われていた。
南仏の諸侯は異端を積極的に弾圧しなかっただけでカトリックに十字軍が向けられたことに驚愕し、直ちに屈服して*21、弾圧に協力することを誓った。本来ならこれで目的を果たしたとして引き上げれば良いはずだが、元々、アルビ派に同情的で弾圧を好まなかった領主たちがどれだけ熱心に異端弾圧に励むかは疑問だし、何よりも餌で集めた十字軍を手ぶらで返すわけにはいかなかった。
*21 まだ十字軍は正義の軍と言う認識が強く(官軍、錦の御旗と似ているだろう)、それと戦うことには心理的抵抗が大きかった。
教皇特使の暗殺を指示したと見做されたトゥールズ伯レーモン6世の帰順は認められたが*22、カタリ派の多いアルビ、ベジェ、カルカソンヌの領主であるレーモン・ロジェ・トランカヴェルがスケープゴートにされ、教皇特使アーノルト・アモーリはトランカヴェルの帰順を拒絶し、1209年7月21日からベジェを第一目標とした。
*22 トゥールズ伯が中心となって抵抗されると手強いと判断したのだろう。
ベジェは必ずしも領主のトランカヴェルに忠実なわけではないが、コミューンの建前としてアルビ派を引き渡すわけにはいかず、小競り合いの多い南仏で戦い慣れており、ある程度の期間の防衛にはそれなりの自信を持っていたようだ。
しかし、比較的穏やかな南仏の騎士と違い、北仏の騎士は予想以上に乱暴で戦巧者であり*23、何よりも十字軍として常識やマナーを超えた戦い方をしてきた。士気自体は旺盛だったベジェは城内からの突撃を敢行したが*24、その戻る際に付入れられ、一気に制圧されてしまった。防衛していた者が撫で斬りにされるのは、どこの落城でもそうだが、教会などに避難していた非戦闘員に対して、カトリック、異端の区別なく全員が虐殺された。区別を聞かれた教皇特使アーノルトが「皆殺しにしろ。誰かは神が知りたもう」と述べたとされるのは有名である。
*23 上方武者と坂東武者の対比に似ているのかもしれない。そう言えば、アルビジョワ十字軍を題材にした小説「オクシタニア」では、南仏の言葉(オック語)は関西弁で表現されていたそうである。
*24 西欧の城攻めでは城側の常套手段である。殻に閉じ籠って防衛するだけでなく機を見て突撃し、敵の攻城兵器を破壊したり重要人物を打ち取って、敵の士気を挫き味方の士気を上げるのだ。
しかし、この悲報を聞いてもトランカヴェルが籠るカルカソンヌは防衛を選択した*25。アラゴン王ペドロ2世は南仏にも多くの領地を持ち、カルカソンヌの宗主でもあったため仲介を試みたが、教皇特使アーノルトは強硬に攻撃を主張し、8月1日から攻撃が始まった。
*25 現在、世界遺産として残る城壁は後に建設された物であるが、この時代にも堅牢な城壁を有していた。
カルカソンヌの弱点は水の手であり、城外の川から水を取っていたが、そこを奪われたのである*26。トランカヴェルは降伏交渉に向かったが、安全を保障されていたにも拘らず逮捕され、地下牢に閉じ込められ獄死させられ*27、8月15日にカルカソンヌは降伏した。住民の命は助けられたが、何一つ持つことを許されず追放された。
*26 水汲み場は堅牢に防備されている。
*27 地下牢での獄死は、一息に斬首されるより辛い死に方である。
これに震え上がった他の都市は戦わずして降伏し*28、トランカヴェルの領地はシモン・ド・モンフォールに与えられ、サンポール伯やヌベール伯などの南部の領地に興味のない者は帰還し、8月末には概ね十字軍は終了した。
*28 ベジェの虐殺もモンゴルのように後の抵抗を減らすために意図したのかもしれない。アルビ派は予め退去して、より堅牢なアルビ派の拠点に移ったのだろう。
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(4) - 南仏戦争
しかし、モンフォールらの征服欲はそれで留まらず、フォワ伯の領地に侵攻したが*29、当初の驚きから覚めた各都市は反乱を起こし*30、領地を奪われた領主たち(Faidit:追放者)はミネルヴ、テルム、カバルなどに籠りゲリラ戦を展開した。特にラストゥル-カバルの領主であるピエール・ロジェ・ド・カバルはモンフォールの副将を捕えるなど奮戦した。
*29 退去・避難したアルビ派はトランカヴェル領外に移っているため名分はあるが、地元の領主からすれば際限もなく侵略が続けられると感じる。
*30 既にアルビ派は退去しているため、北の侵略者に対する抵抗を名分とすることができる。
しかし、モンフォールは翌年(1210年)に新たな兵員・物資を得て、抵抗の拠点となっていたブラム、ミネルヴ、テルムを順に攻撃し、それぞれ激しい抵抗を示したが陥落し、ミネルヴでは回心を拒否したアルビ派140人が火刑となっている*31。
*31 アルビジョワ十字軍における初めての火刑だった。以降、要塞・拠点が陥ちるごとにアルビ派の火刑が行われた。
1211年1月にアーノルト・アモーリがトゥールズの主要市民を異端として糾弾したが、トゥールズ伯レーモン6世は逮捕を拒否したため再び破門された。出席していたアラゴン王ペドロ2世も十字軍の行動に抗議しており、アラゴン王の支援を期待できたトゥールズ伯は南仏の諸侯(フォワ伯、コマンジュ伯など)*32の協力体制を作り上げた。
*32 要求がエスカレートして、攻撃がトランカヴェル領に留まらないことに危機感を感じていた。
しかし、十字軍は常に新たな増援を期待でき、3月には激しい抵抗を続けてきたカバレがモンフォールの副官を解放し、城塞を明け渡す条件で屈服している。いくつかの城塞が落ちたあと、6月にトゥールズが包囲されたが、フォワ伯、コマンジュ伯などの援軍が到来したため2週間で包囲は終わり、これが転機となった。
これに勢いづいた南仏軍(トゥールズ伯、フォワ伯)は反撃に転じカステルノーダリを包囲した。既に難戦や十字軍の性格に失望して帰る者が多かったため、兵力不足だったモンフォールは戦闘には勝ったが、カステルノーダリはトゥールズ伯が奪い、以降、多くの都市・城塞が奪回された。
1212年に入ると再び増援を受けたモンフォールが反撃して、戦況は完全に泥沼化した。既に主要な都市にはアルビ派を公然と名乗る者は存在せず、単なる領土争いであることは明らかなのだが、十字軍として認められている以上、他の地域の王侯が南仏側に援助・加勢しずらい状況だった。
しかし、1213年に入るとナバス・デ・トロサの戦い(1212年7月)に勝利して余裕ができたアラゴン王ペドロ2世が自ら参戦し*33、トゥールズ伯、フォワ伯、コマンジュ伯を糾合した*34。ところが、この攻勢が裏目に出て、9月にミューレでモンフォール軍を包囲した際に、反撃を受けてペドロ2世は戦死してしまった*35。
*33 十字軍を名乗る相手に宗教的な正当性の面で対抗できると感じたのだろう。
*34 本来、トゥールズ伯は南仏の宗主権を巡ってアラゴン王と争うことが多かったのだが、アルビジョワ十字軍が始まってからは、唯一の頼れる支援者となりつつあった。
*35 ナバス・デ・トロサの勝利で自信過剰だったのかもしれない。
期待が大きかっただけに、アラゴン王の戦死は物的・心理的の両面に打撃を与え、1214年4月に強硬派だったアーノルト・アモーリの代わりの教皇特使が任命されたのを契機に、フォワ伯、コマンジュ伯は帰順し、トゥールズ伯はイングランドに亡命した*36。
*36 レーモン6世は、かってジョン王の姉と結婚しており、レーモン7世はジョン王の甥である。
1214年7月のブービーヌの戦いで、フランス王フィリップ2世が皇帝オットー4世とイングランド、フランドル連合軍に勝利してヨーロッパの力関係は劇的に変化し、1215年の第4回ラテラン公会議では、トゥールズ伯領の没収とモンフォールへの授与が決定された*37。
*37 この会議には レーモン6世自身も出席して立場の表明と抗議を行っている。プロヴァンス侯位は残されており、十字軍そのものを除けば、教会が一定の秩序と平和に貢献している。
しかし、南仏ではトゥールズ伯領やトランカヴェル家領の没収は不当と見なされ*38、ミューレでの敗戦のショックも薄れ、北からの占領者に各都市の不満は高まり、南仏が共同して北部者を追い払おうとの機運が高まっていた。
*38 そもそも教皇にそんな権限があるのかと言う点で、フランス王なども警戒していた。
*29 退去・避難したアルビ派はトランカヴェル領外に移っているため名分はあるが、地元の領主からすれば際限もなく侵略が続けられると感じる。
*30 既にアルビ派は退去しているため、北の侵略者に対する抵抗を名分とすることができる。
しかし、モンフォールは翌年(1210年)に新たな兵員・物資を得て、抵抗の拠点となっていたブラム、ミネルヴ、テルムを順に攻撃し、それぞれ激しい抵抗を示したが陥落し、ミネルヴでは回心を拒否したアルビ派140人が火刑となっている*31。
*31 アルビジョワ十字軍における初めての火刑だった。以降、要塞・拠点が陥ちるごとにアルビ派の火刑が行われた。
1211年1月にアーノルト・アモーリがトゥールズの主要市民を異端として糾弾したが、トゥールズ伯レーモン6世は逮捕を拒否したため再び破門された。出席していたアラゴン王ペドロ2世も十字軍の行動に抗議しており、アラゴン王の支援を期待できたトゥールズ伯は南仏の諸侯(フォワ伯、コマンジュ伯など)*32の協力体制を作り上げた。
*32 要求がエスカレートして、攻撃がトランカヴェル領に留まらないことに危機感を感じていた。
しかし、十字軍は常に新たな増援を期待でき、3月には激しい抵抗を続けてきたカバレがモンフォールの副官を解放し、城塞を明け渡す条件で屈服している。いくつかの城塞が落ちたあと、6月にトゥールズが包囲されたが、フォワ伯、コマンジュ伯などの援軍が到来したため2週間で包囲は終わり、これが転機となった。
これに勢いづいた南仏軍(トゥールズ伯、フォワ伯)は反撃に転じカステルノーダリを包囲した。既に難戦や十字軍の性格に失望して帰る者が多かったため、兵力不足だったモンフォールは戦闘には勝ったが、カステルノーダリはトゥールズ伯が奪い、以降、多くの都市・城塞が奪回された。
1212年に入ると再び増援を受けたモンフォールが反撃して、戦況は完全に泥沼化した。既に主要な都市にはアルビ派を公然と名乗る者は存在せず、単なる領土争いであることは明らかなのだが、十字軍として認められている以上、他の地域の王侯が南仏側に援助・加勢しずらい状況だった。
しかし、1213年に入るとナバス・デ・トロサの戦い(1212年7月)に勝利して余裕ができたアラゴン王ペドロ2世が自ら参戦し*33、トゥールズ伯、フォワ伯、コマンジュ伯を糾合した*34。ところが、この攻勢が裏目に出て、9月にミューレでモンフォール軍を包囲した際に、反撃を受けてペドロ2世は戦死してしまった*35。
*33 十字軍を名乗る相手に宗教的な正当性の面で対抗できると感じたのだろう。
*34 本来、トゥールズ伯は南仏の宗主権を巡ってアラゴン王と争うことが多かったのだが、アルビジョワ十字軍が始まってからは、唯一の頼れる支援者となりつつあった。
*35 ナバス・デ・トロサの勝利で自信過剰だったのかもしれない。
期待が大きかっただけに、アラゴン王の戦死は物的・心理的の両面に打撃を与え、1214年4月に強硬派だったアーノルト・アモーリの代わりの教皇特使が任命されたのを契機に、フォワ伯、コマンジュ伯は帰順し、トゥールズ伯はイングランドに亡命した*36。
*36 レーモン6世は、かってジョン王の姉と結婚しており、レーモン7世はジョン王の甥である。
1214年7月のブービーヌの戦いで、フランス王フィリップ2世が皇帝オットー4世とイングランド、フランドル連合軍に勝利してヨーロッパの力関係は劇的に変化し、1215年の第4回ラテラン公会議では、トゥールズ伯領の没収とモンフォールへの授与が決定された*37。
*37 この会議には レーモン6世自身も出席して立場の表明と抗議を行っている。プロヴァンス侯位は残されており、十字軍そのものを除けば、教会が一定の秩序と平和に貢献している。
しかし、南仏ではトゥールズ伯領やトランカヴェル家領の没収は不当と見なされ*38、ミューレでの敗戦のショックも薄れ、北からの占領者に各都市の不満は高まり、南仏が共同して北部者を追い払おうとの機運が高まっていた。
*38 そもそも教皇にそんな権限があるのかと言う点で、フランス王なども警戒していた。
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(5) - 鴫と蛤の争い
1216年4月にレーモン6世とその世子レーモン7世がマルセイユに戻ると、多くの都市はその旗の下に集結した。
プロヴァンスのボーケールをモンフォールが占領していたが、これを5月にレーモン7世が陥落させたのが再び転機となった*39。1216年7月にはイノケンティウス3世が死去し、比較的、穏健なホノリウス3世に代わったことも幸いした。
*39 プロヴァンスはモンフォールに与えられた地域ではないため、レーモン7世の方に名分がある。
モンフォールが各所の鎮圧に追われている隙を突いて、アラゴンの支援を受けたレーモン7世が1217年9月にトゥールズを奪回し、1218年の春からモンフォールがトゥールズの包囲を始めたが、その最中に城側から発射された石が頭にあたり死亡した。投石器を操作していたのは女性だったと伝えられている*40。
*40 このように都市の防衛には女性が大きな役割を果たしていた。
モンフォールの死は大きかった。既に十字軍は名前だけでモンフォールが自領を守るために十字軍の名で傭兵を集めて戦っていたようなものであり、そのリーダーシップに代わる人間はおらず、跡を継いだ息子のアモーリ・ド・モンフォールには十字軍を纏める力はなかった。
フィリップ2世はここで王太子ルイ(8世)を派遣したが、すぐに呼び戻してしまい*41、1219年6月のトゥールズ包囲が失敗すると、流れはレーモン7世側に傾き、1220年、21年とアモーリ・ド・モンフォールの敗北は続き、多くの領土が回復し、アルビ派が再び表面で活動するようになり、カトリックの司教は逃げ出した*42。1222年にレーモン6世は亡くなったが、レーモン7世が名実ともに当主でリーダーとなり影響はなかった。
*41 教皇の要請に形だけ従ってみせたが、南仏側に勢いがあるのを見て、両者が力尽きるのを待ったのだろう。
*42 本来の地元の司教はアルビ派と共存しており、それらが解任されて強硬派の司教が任命されていた。彼らが逃げ出し、元の司教・神父が復活している。
1224年1月に遂にアモーリ・ド・モンフォールはカルカソンヌを放棄して北部に逃げ戻り、占領地の権利をフランス王*43に譲渡した。トランカヴェルがカルカソンヌに復帰して、南仏は概ね十字軍以前の状態に戻り、奇しくも同年に教皇特使だったアーノルト・アモーリが死去している。
*43 1223年にフィリップ2世は死去し、ルイ8世が即位している。
しかし、フランス王からすれば機は熟していた。南仏の権利を譲り受けて大義名分はあり、これ以上の争いを嫌う都市や領主たちはフランス王を受け入れると思われた*44。
*44 フランス王は法に従って公正に行動すると期待された。また、この期に及んではローマ教会もフランス王に頼らざるを得なかった。
1225年のブルージュ教会議でレーモン7世は破門され、新たな十字軍のための1/10税が決められ、1226年6月からルイ8世が自ら十字軍を率いた。戦いに疲れた都市はフランス王を歓迎し、多くの領主は帰順したが、トゥールズ伯とフォワ伯の帰順は認められず、やむなく抵抗を続けたが、カルカソンヌも降伏し、トランカヴェルはフォワ伯の元に逃げている。目立った戦いは神聖ローマ帝国内のアヴィニョンが包囲に対し3か月の抵抗を示しただけである。ルイ8世の戦闘はそれだけで、まもなく病気に罹りオーベルニュで死去している。
残されたルイ9世(聖王)は若干12歳だったが、母ブランシュは摂政として十字軍を継続させた*45。フォワ伯は自領の防衛で手一杯で、トゥールズ伯は独力で戦わねばならず、幼年の王に対するフランス貴族の反乱やイングランド王ヘンリー3世の画策*46もあったが成功せず、1228年からトゥールズの包囲が始まり周辺の地域は荒らされた。1229年1月に孤立無援のレーモン7世は王妃ブランシュの提案を受け入れ、一人娘のジャンヌをルイ9世の弟アルフォンスと結婚させ、共同の跡継ぎとする条件で屈服し*47、フォワ伯は帰順を求めて6月に認められ*48、アルビジョワ戦争は概ね終結し*49、南仏はフランス王の支配下に入った*50。「鴫と蛤の争いは漁夫が利を得る」を地で行ったと言えよう。
*45 結局、フランスの南仏征服が成功したのは、幼年の王を支えて貴族の反乱を抑え、十字軍を継続させた摂政フランシュの力と言える。
*46 この機に、ヘンリー3世も大陸領土の回復を計ったが成功しなかった。
*47 一見、寛容な条件に見えるが、新たに男子が生まれても跡継ぎにできず、ジャンヌに子ができなければ王領に編入されるという一方的な条件だった。しかも条約締結後、しばらく牢に入れられている。ジャンヌには子ができず、1271年に亡くなった際には領地の一部を親族に譲ることさえも許されなかった。
*48 いくらかの所領を没収されたものの、生き残ったことで、この地域の有力貴族として繁栄していくことになる。
*49 アルビ派が籠る山中の要塞はいくつか残っており、1244年に最後の主要な要塞が陥落するまで続いた。なお、1255年に攻撃された人里離れた山奥に残された小さなアルビ派の拠点が本当の最後だった。
*50 イングランドやアラゴンとの争いは残っていたが1243年の条約で確定し、トゥールズ伯領は1271年のジャンヌの死後に王領に編入された。
プロヴァンスのボーケールをモンフォールが占領していたが、これを5月にレーモン7世が陥落させたのが再び転機となった*39。1216年7月にはイノケンティウス3世が死去し、比較的、穏健なホノリウス3世に代わったことも幸いした。
*39 プロヴァンスはモンフォールに与えられた地域ではないため、レーモン7世の方に名分がある。
モンフォールが各所の鎮圧に追われている隙を突いて、アラゴンの支援を受けたレーモン7世が1217年9月にトゥールズを奪回し、1218年の春からモンフォールがトゥールズの包囲を始めたが、その最中に城側から発射された石が頭にあたり死亡した。投石器を操作していたのは女性だったと伝えられている*40。
*40 このように都市の防衛には女性が大きな役割を果たしていた。
モンフォールの死は大きかった。既に十字軍は名前だけでモンフォールが自領を守るために十字軍の名で傭兵を集めて戦っていたようなものであり、そのリーダーシップに代わる人間はおらず、跡を継いだ息子のアモーリ・ド・モンフォールには十字軍を纏める力はなかった。
フィリップ2世はここで王太子ルイ(8世)を派遣したが、すぐに呼び戻してしまい*41、1219年6月のトゥールズ包囲が失敗すると、流れはレーモン7世側に傾き、1220年、21年とアモーリ・ド・モンフォールの敗北は続き、多くの領土が回復し、アルビ派が再び表面で活動するようになり、カトリックの司教は逃げ出した*42。1222年にレーモン6世は亡くなったが、レーモン7世が名実ともに当主でリーダーとなり影響はなかった。
*41 教皇の要請に形だけ従ってみせたが、南仏側に勢いがあるのを見て、両者が力尽きるのを待ったのだろう。
*42 本来の地元の司教はアルビ派と共存しており、それらが解任されて強硬派の司教が任命されていた。彼らが逃げ出し、元の司教・神父が復活している。
1224年1月に遂にアモーリ・ド・モンフォールはカルカソンヌを放棄して北部に逃げ戻り、占領地の権利をフランス王*43に譲渡した。トランカヴェルがカルカソンヌに復帰して、南仏は概ね十字軍以前の状態に戻り、奇しくも同年に教皇特使だったアーノルト・アモーリが死去している。
*43 1223年にフィリップ2世は死去し、ルイ8世が即位している。
しかし、フランス王からすれば機は熟していた。南仏の権利を譲り受けて大義名分はあり、これ以上の争いを嫌う都市や領主たちはフランス王を受け入れると思われた*44。
*44 フランス王は法に従って公正に行動すると期待された。また、この期に及んではローマ教会もフランス王に頼らざるを得なかった。
1225年のブルージュ教会議でレーモン7世は破門され、新たな十字軍のための1/10税が決められ、1226年6月からルイ8世が自ら十字軍を率いた。戦いに疲れた都市はフランス王を歓迎し、多くの領主は帰順したが、トゥールズ伯とフォワ伯の帰順は認められず、やむなく抵抗を続けたが、カルカソンヌも降伏し、トランカヴェルはフォワ伯の元に逃げている。目立った戦いは神聖ローマ帝国内のアヴィニョンが包囲に対し3か月の抵抗を示しただけである。ルイ8世の戦闘はそれだけで、まもなく病気に罹りオーベルニュで死去している。
残されたルイ9世(聖王)は若干12歳だったが、母ブランシュは摂政として十字軍を継続させた*45。フォワ伯は自領の防衛で手一杯で、トゥールズ伯は独力で戦わねばならず、幼年の王に対するフランス貴族の反乱やイングランド王ヘンリー3世の画策*46もあったが成功せず、1228年からトゥールズの包囲が始まり周辺の地域は荒らされた。1229年1月に孤立無援のレーモン7世は王妃ブランシュの提案を受け入れ、一人娘のジャンヌをルイ9世の弟アルフォンスと結婚させ、共同の跡継ぎとする条件で屈服し*47、フォワ伯は帰順を求めて6月に認められ*48、アルビジョワ戦争は概ね終結し*49、南仏はフランス王の支配下に入った*50。「鴫と蛤の争いは漁夫が利を得る」を地で行ったと言えよう。
*45 結局、フランスの南仏征服が成功したのは、幼年の王を支えて貴族の反乱を抑え、十字軍を継続させた摂政フランシュの力と言える。
*46 この機に、ヘンリー3世も大陸領土の回復を計ったが成功しなかった。
*47 一見、寛容な条件に見えるが、新たに男子が生まれても跡継ぎにできず、ジャンヌに子ができなければ王領に編入されるという一方的な条件だった。しかも条約締結後、しばらく牢に入れられている。ジャンヌには子ができず、1271年に亡くなった際には領地の一部を親族に譲ることさえも許されなかった。
*48 いくらかの所領を没収されたものの、生き残ったことで、この地域の有力貴族として繁栄していくことになる。
*49 アルビ派が籠る山中の要塞はいくつか残っており、1244年に最後の主要な要塞が陥落するまで続いた。なお、1255年に攻撃された人里離れた山奥に残された小さなアルビ派の拠点が本当の最後だった。
*50 イングランドやアラゴンとの争いは残っていたが1243年の条約で確定し、トゥールズ伯領は1271年のジャンヌの死後に王領に編入された。
南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(6) - 異端審問
政治的な戦争は終わったが、むしろ宗教的な戦争はこれからだった。既に信念を持ったアルビ派の信者の多くは山中の要塞に移っており、それらが1244年までに順に攻撃され、陥落・降伏した要塞の信者たちは自ら身を投げるか、回心を拒んで火刑となった。
信者の一部は隠れ信者として都市に残っており、民衆の中に潜んでいるアルビ派をあぶり出し、かっての信者やシンパで今は回心したと称する者が本心からなのかを確認するために、異端審問が1229年からトゥールズで始められ*51、1233年からドミニコ会*52に委ねられ激しさを増し凄惨を極めた*53。
拷問を用いることが許されている審問自体が大きな恐怖であった。積極的に異端への迫害を行った人間以外はカトリックでも審問の対象になる可能性があり*54、まともな生活に戻れると期待していた人々は戦々恐々となった。その激しさは大きな抵抗を受け、1235年にはナルボンヌ、カルカソンヌ、トゥールズ、アルビなど多くの暴動が起こり、異端審問者が殺害された。
*51 異端審問自体は以前から地域ごとに行われてきたが、これ以降、教皇庁が主導する異端審問が活発になった。
*52 その行動から、ラテン語の名称をもじって主の犬(ドミニ・カンヌ)と称された。
*53 清貧を信条とする托鉢修道会に参加する人は真面目な人だと思うが、生真面目な人々がこの方向に走ると非常に恐ろしいことになる。
*54 多くの市民はアルビ派のシンパか同情的だったため、審問の対象と成り得た。
南仏の開放的な文化が抑圧されたのは、戦争自体より、その後の異端審問の影響が大きい。中世の陰鬱なカトリックのイメージもまた異端審問から発する部分が多く、それまでは、教会はモラルの担い手*55で人々の保護と弱者の救済を心掛けており、横暴な君主・領主、乱暴な騎士に対する民衆の味方と言ってよかった。
*55 教会自体のモラルはあまり高くなく、アルビ派やワルド派などの異端が支持される理由だが、一般信者に対しては常にモラルを呼び掛けている。
教会が色々な悪徳を非難しても力はなく、ローマ教皇は婚姻の承認・無効、聖務停止・破門などの手段を活用しながら、王侯貴族間の微妙なパワーバランスを操り影響力を維持してきたのだが、アルビジョワ十字軍により意に逆らう王侯に武力を差し向け、異端審問により王侯貴族でも異端として裁ける力を手にしてしまったのである*56。
*56 教皇直属の異端審問官は、地元の司教も領主も逆らい難い強い権限を持っていた。
中世というのは、一般の認識とは違い、意外と慣習・法(コモン・ロー)と一般人の常識(コモン・センス)が通用する時代で*57、犯罪の容疑を受けても同僚の合意が無ければ*58、権力者が一方的に重罪にすることはできないのである。というのは、それぞれのレベルで人々は共同防衛体制を作っているからで、貴族は共同で君主に対抗し、都市市民はコミューンやギルドで守られ、農奴ですら、領主を怒らせなければ、財産として領主により守られているからだ。
*57 権力が分散しているため、一つの権力が無茶しにくい。
*58 後に陪審員制度として確立される慣習である。
ところが異端審問は、人の心の中の信仰という目に見えない物を理由*59に、それらの共同防衛を超越して罪に問うことができるのである。血縁、地縁、コミューン、ギルドなどの共同体で守られている人々を、密告の奨励や拷問により、告白と他者の告発に追い込んだため、「魔女と異端」で述べたような告発の連鎖が起こり、人々を疑心暗鬼に陥れたのだ*60。
*59 目に見えないため誰であれ容疑をかけることができ、拷問が許されていたため審問への呼び出し自体が脅迫的効果を持っていた。
*60 尤も、中世の人間もおとなしくはなく、所々で異端審問官への闇討ちや民衆による襲撃が行われたため、まもなく異端審問官もあまり無茶はしなくなった。
こうして力を手に入れた教皇は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と全面的に対決し、ホーエンシュタウフェン家を滅亡に追いやったのだが、その代償も大きく、フランスの勢力が拡大する一方、アラゴンは反教皇となり、ドイツでも教皇への警戒と反発が広がり、一層、フランス・ナポリに頼ることになった教皇権は、フランス王フィリップ4世によりアナーニ事件で大きな打撃を受けるのである。
信者の一部は隠れ信者として都市に残っており、民衆の中に潜んでいるアルビ派をあぶり出し、かっての信者やシンパで今は回心したと称する者が本心からなのかを確認するために、異端審問が1229年からトゥールズで始められ*51、1233年からドミニコ会*52に委ねられ激しさを増し凄惨を極めた*53。
拷問を用いることが許されている審問自体が大きな恐怖であった。積極的に異端への迫害を行った人間以外はカトリックでも審問の対象になる可能性があり*54、まともな生活に戻れると期待していた人々は戦々恐々となった。その激しさは大きな抵抗を受け、1235年にはナルボンヌ、カルカソンヌ、トゥールズ、アルビなど多くの暴動が起こり、異端審問者が殺害された。
*51 異端審問自体は以前から地域ごとに行われてきたが、これ以降、教皇庁が主導する異端審問が活発になった。
*52 その行動から、ラテン語の名称をもじって主の犬(ドミニ・カンヌ)と称された。
*53 清貧を信条とする托鉢修道会に参加する人は真面目な人だと思うが、生真面目な人々がこの方向に走ると非常に恐ろしいことになる。
*54 多くの市民はアルビ派のシンパか同情的だったため、審問の対象と成り得た。
南仏の開放的な文化が抑圧されたのは、戦争自体より、その後の異端審問の影響が大きい。中世の陰鬱なカトリックのイメージもまた異端審問から発する部分が多く、それまでは、教会はモラルの担い手*55で人々の保護と弱者の救済を心掛けており、横暴な君主・領主、乱暴な騎士に対する民衆の味方と言ってよかった。
*55 教会自体のモラルはあまり高くなく、アルビ派やワルド派などの異端が支持される理由だが、一般信者に対しては常にモラルを呼び掛けている。
教会が色々な悪徳を非難しても力はなく、ローマ教皇は婚姻の承認・無効、聖務停止・破門などの手段を活用しながら、王侯貴族間の微妙なパワーバランスを操り影響力を維持してきたのだが、アルビジョワ十字軍により意に逆らう王侯に武力を差し向け、異端審問により王侯貴族でも異端として裁ける力を手にしてしまったのである*56。
*56 教皇直属の異端審問官は、地元の司教も領主も逆らい難い強い権限を持っていた。
中世というのは、一般の認識とは違い、意外と慣習・法(コモン・ロー)と一般人の常識(コモン・センス)が通用する時代で*57、犯罪の容疑を受けても同僚の合意が無ければ*58、権力者が一方的に重罪にすることはできないのである。というのは、それぞれのレベルで人々は共同防衛体制を作っているからで、貴族は共同で君主に対抗し、都市市民はコミューンやギルドで守られ、農奴ですら、領主を怒らせなければ、財産として領主により守られているからだ。
*57 権力が分散しているため、一つの権力が無茶しにくい。
*58 後に陪審員制度として確立される慣習である。
ところが異端審問は、人の心の中の信仰という目に見えない物を理由*59に、それらの共同防衛を超越して罪に問うことができるのである。血縁、地縁、コミューン、ギルドなどの共同体で守られている人々を、密告の奨励や拷問により、告白と他者の告発に追い込んだため、「魔女と異端」で述べたような告発の連鎖が起こり、人々を疑心暗鬼に陥れたのだ*60。
*59 目に見えないため誰であれ容疑をかけることができ、拷問が許されていたため審問への呼び出し自体が脅迫的効果を持っていた。
*60 尤も、中世の人間もおとなしくはなく、所々で異端審問官への闇討ちや民衆による襲撃が行われたため、まもなく異端審問官もあまり無茶はしなくなった。
こうして力を手に入れた教皇は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と全面的に対決し、ホーエンシュタウフェン家を滅亡に追いやったのだが、その代償も大きく、フランスの勢力が拡大する一方、アラゴンは反教皇となり、ドイツでも教皇への警戒と反発が広がり、一層、フランス・ナポリに頼ることになった教皇権は、フランス王フィリップ4世によりアナーニ事件で大きな打撃を受けるのである。