小さな巨人リトアニア

小さな巨人リトアニア(1) - ミンダウカス

リトアニアというとバルト三国として一括りにされるか、少し歴史に詳しい人なら、かっての大国だったポーランド=リトアニアの構成国として認識するか、ヘタリアの好きな人なら能天気なポーランドに振り回される一見女性のような優男を思い出すかもしれない。

現代の地図を見れば、リトアニアの首都ヴィリニュスが国境近くにあることに気づくだろう。当然ながら、これは国境近くに首都を造ったのではなく、大公国時代のリトアニアは現在の版図よりはるかに大きく、ベラルーシからウクラナイナまでの広大な領土を持っていたからなのだ。

リトアニアはドイツ騎士団によって激減させられたバルト系民族の1つであるが、なかなかユニークな栄光の歴史を持っている。バルト系の民族は小さな部族などに分かれて、互いに争ったり、ドイツ、ポーランド、ルーシー*1の諸公国と争っていたが、13世紀に入るとデンマーク、スエーデン、ドイツ等の北方十字軍が始まり、特にドイツ騎士団とリヴォニア(帯剣)騎士団は東方の征服権を得て、大々的に侵攻を始めていた。

本来、北方十字軍の趣旨としては、多神教徒(パガン)*2のカトリックへの改宗であり、伝道がまず有って、それでも改宗しない者に対して武力を用いるはずだが、これらの騎士団は領土獲得を主目的*3としており、修道士による伝道を妨げることすらあった*4。

*1 ロシアと同義であるが、現在のロシア、ベラルーシー、ウクライナを含んでいる。
*2 他の啓典宗教(一神教)信者を異教徒(infidel)と呼ぶ。
*3 十字軍と呼ぶ以前からドイツ、北欧系の東方征服活動は始まっており、それに十字軍の大義名分を与えたのである。
*4 先に改宗されてしまうと征服できないからである。

これに対してリトアニアの部族は1219年に21人の公が集まって連合を作った。ミンダウカスは有力な家系の出身で、当初は有力な5人の公の1人だったが、1230年代半ばにはライバルを制して君主(大公)*5の座を得たようである。

*5 これは現地の言語では王の中の王と言った意味だが、カトリック世界では異教徒は公、大公(プリンス)としか呼ばなかった。

元々、キリスト教騎士団の侵攻に対抗するための連合だったが、ルーシーと関係している諸公にはギリシア正教徒もおり、キリスト教に対する抵抗感が特に強かった訳ではなく、騎士団による強制と征服に抵抗していたようだ。

ミンダウカスは君主になったとは言え、有力な公や一族の力は強く、それと対抗して君主権を強化するためと、また狂信的で精強な修道騎士団と戦うより、より手頃なルーシー*6に領土拡張する方が得策であり、キリスト教への改宗を考えるようになったようだ。

特に1236年の「ザウレの戦い」でリヴォニア帯剣騎士団に勝利しその圧迫を緩めたもののドイツ騎士団との合併によりリトアニアは両面からの攻撃に備えなければならず、またザウレの勝利の立役者で権威を高めた有力者ヴィキンタス*7を抑えるために、カトリックに改宗して、リヴォニア騎士団と同盟することを選び、1253年にローマ教皇イノケンティウス4世から王号を承認されリトアニア王となっている*8。この時点での領土は現在のリトアニアに近く、30万人程度を支配する規模だった。

*6 1237年から1241年のモンゴルの欧州侵攻にリトアニアは直接的な影響は受けていないが、西ルーシーは比較的被害が少ないとは言えタタールの軛により弱体化していた。
*7 娘婿であるが、有力なサモギティアの公であり、王位のライバルであった。
*8 信頼できる史料が少なく、年代は当てにならないものが多いのだが、これは教皇教書が残っているため比較的信頼できる。

カトリックに改宗することで騎士団との抗争が避けられ、その武力を利用し、教皇の権威と西欧文化の導入により、西欧風の国家体制を取り入れて君主の権威を高め、黒ルーシー*9への領土を拡張したが、リトアニア全体では改宗は進んでおらず、1260年からのプロシアの反乱によりドイツ騎士団の力が弱まりその支援が期待できなくなると、ミンダウカスも多神教に戻ったようである。

*9 現在の白(ベラ)ルーシー以外に黒ルーシ、赤ルーシなどがあった。諸説あるが、おそらくモンゴルかそれ以前からの遊牧民の影響で中国の五行説による方角(東西南北:青白赤黒)を表わしているのだろう。

しかしカトリックの後ろ楯を失ったことで、ライバルは動きやすくなったのであろう。1263年に暗殺された直接の原因は結婚を巡る争いであるが、それは切っ掛けに過ぎず、甥の実力者トレニオタによる簒奪である。これ以降、しばらくリトアニアは有力者間の争いが続き、ミンダウカスの頃の領土の一部を失っており、再び拡張を再開するのは1295年にヴィテニスが大公になってからである。

ミンダウカスの日和見的態度はカトリック側からも後のリトアニア民族主義的立場からも微妙な扱いを受けているが、この当時の多神教徒の宗教観というのは、どちらが得かと言うもので、フランク族の改宗を進めたクロヴィスも願を掛けた戦争に勝利したことでカトリックに改宗しており、このような態度はごく普通のことであった。

小さな巨人リトアニア(2) - ゲディミナス

その後、ミンダウカスの一族や他の有力者の間で権力闘争が継続し、1295年頃から大公位に就いたヴィテニスは有力な家系であることは間違いなく、ミンダウカス家との姻戚関係はあるかもしれないが、(たぶん)ミンダウカスの子孫ではなく別系統の家である。

短期の公が入れ替わっていた後の最初の安定した大公で、サモギティア*10への騎士団の侵攻に激しく抵抗し、逆にリヴォニアのリガやプロシアのドイツ騎士団領にしばしば攻勢をかけていた。一方、この頃にはドイツ騎士団とポーランドの関係が悪化しており*11、同じカトリックながらポーランドはリトアニアとの協力を考え始めている。

*10 ドイツ騎士団とその傘下になったリヴォニア騎士団は、プロシアとリヴォニアの間に挟まるこの地を征服して、2つの領土を連結することを狙っていた。
*11 ポーランドの衰退時に、多くの領土が多神教徒の支配下に入っていたが、それらの土地を征服して、そのまま騎士団領にしてしまうため。騎士団は教皇直属であるため、ポーランドなど世俗の王侯の権限が及ばなかった。

しかしミンダウカスの頃からリトアニアの方針は、ドイツ騎士団に対しては防衛と宥和で、領土拡張の狙いはルーシーにあり、むしろギリシア正教に改宗し、その府主教座として、ハルーチ・ボルーニ、トヴェリ、モスクワ*12と対抗してルーシーの中心となることも考えていたようだが、ヴィテニスの急死により頓挫したようである。

*12 いずれもリューリクの子孫(リューリク朝)が公で、キエフが没落してから、ハルーチ公が王をウラジミル公が大公を名乗っており、アレクサンドル・ネフスキーの子孫であるトヴェリ公とモスクワ公がウラジミル大公位を争っていた。

1316年から大公となったゲディミナスはヴィテニスの弟とされているが、実ははっきりしないようで、馬の口取りだったのがヴィテニスを暗殺して取って代わったという説すらある。彼の王朝がゲディミナス朝と呼ばれるように、継承というより簒奪した可能性も高い*13。

*13 その後のリトアニア大公は全てゲディミナスの子孫であるため、簒奪を隠して、弟として正統に継承したことにしたのかもしれない。

ゲディミナスはドイツ騎士団に対してはカトリックへの改宗を示唆することで対応しようとしたが、配下に多神教のリトアニア人、ギリシア正教のルーシー人を多く抱えているため、カトリックへの改宗は新たな対立を生む可能性があり、その方針は不明瞭になりがちであった*14

*14 あるいは政略として意図的に各宗教に対して思わせぶりをしたのかもしれない。

1322年にアヴィニョンの教皇ヨハネス22世への手紙ではカトリックへの改宗を示唆しており、教皇特使の派遣を要請しているが、翌年に実際に特使が来ると、国内の多神教徒や正教徒の反対の強さを配慮して受け入れを中止した。しかし、密かに特使に自分の窮状と洗礼を受ける意図を伝え、特使も理解を示したとされるが、ドイツ騎士団はゲディミナスを非難して1325年には攻撃を再開した。一方、ポーランドとは同年に娘のアルドナをカジミェシュ3世と結婚させ、対ドイツ騎士団で同盟している。

一方、ルーシー方面では、末子のリュバルタス(ドミトリ)とハルーチ・ボルーニの公女との結婚により大幅な拡大に成功している。

西ウクライナのハルーチ・ボルーニは、13世紀半ばのモンゴルの欧州侵攻による被害が比較的少なく、モンゴルに臣従する一方でローマ教皇から王号をもらい、モンゴルとカトリック勢力に両天秤をかける形で繁栄してきたが、14世紀に入るとポーランド、ドイツ騎士団、リトアニア、モンゴル(キプチャク汗国)の争いの中で衰退し始め、1323年に共同統治王であるアンドリイとレーヴ兄弟がモンゴルとの戦闘で嫡男の無いまま戦死すると姻戚関係にあるポーランドとリトアニアは共に後継を狙い、ハルーチは妥協策として両者の共通の縁者であるマゾフシェ・ピャスト家の弱冠14歳のボレスワフ・ユーリー2世が後継者となり、ボルーニはリュバルタスが継承した。

ゲディミナスはこの機にハルーチ・ボルーニの影響下にあったキエフ・ルーシー地域に侵攻し、イルピン川の戦いでルーシー諸公連合軍を破りキエフを占領しリトアニアの影響力を強めたが、この地域のモンゴルへの臣従状態は変わらず、完全にリトアニア領となるのは1362年の青水の戦いの勝利以降である。

1340年にカトリックを優遇するボレスワフ・ユーリー2世が不満をもつ正教徒の貴族達に暗殺されると、1349年にはハルーチはポーランド領となったが、その後もハルーチ・ボルーニの所有を巡ってリトアニアとポーランド/ハンガリー*15の争いは続き、最終的にヨガイラがポーランド王を兼ねる*16まで続いた。

*15 ハンガリーのラヨッシュ大王はカジミェシュ3世の女婿で、後にはポーランド王の後継者となっている。
*16 1386年にゲディミナスの孫のヨガイラがラヨッシュ大王の娘ヤドヴィガと結婚してポーランド王となり、ポーランド=リトアニア同君連合が誕生した。

ゲディミナスはヴィリュニスを首都にするなどリトアニア大公国の真の創始者と見られることもあり、黒海沿岸までベラルーシー、西ウクライナの多くを影響下に収め、リトアニアの勢力を大きく拡大した。

彼には多くの子供がおり、政略結婚に利用すると共に、勢力拡大した土地を息子たちに担当させているが、一族間の争いの潜在的な要因となった。おそらく妻の影響で、多神教の子供達(アルギルダス、ケストティス)とギリシア正教の子供達(ナリマンタス、カリヨタス、リュバルタス)がおり、次期継承者を巡って争いがあったと思われ、1341年に暗殺されたようである。

小さな巨人リトアニア(3) - ポーランド=リトアニア連合

ゲディミナスの死後、息子のヤヴヌティスが大公位を継承したのは、ギリシア正教徒の妻の子ながら多神教徒だったため妥協の産物と思われるが、数年でアルギルダス、ケストティス兄弟に廃位され追放されている。

1345年に大公となったアルギルダスは同母弟のケストティスと東西に分けて分担したようである。そのためアルギルダスがモンゴル(タタール)に対する華々しい戦果とキエフを含む黒海まで至るルーシーの征服を担当し、リトアニア本国のケストティスがドイツ騎士団やポーランドに対する防衛を担当したようである。

アルギルダスは、1362年青水の戦いの勝利によりタタールの勢力を減退させ、ノブゴロドの一部市民と結ぶことで影響力を強め、モスクワ大公国とはしばしば戦って領土を拡大し、モスクワも何度か包囲している。宗教的には、ルーシー地域を担当したためギリシア正教に対する親しみがあり、改宗を匂わせたこともあるようだが、リトアニア人に配慮して多神教を維持したようである。

一方、ケストティスはカトリックに親しみを持ち、ドイツ騎士団と平和関係を保つために、1349年にアヴィニョンの教皇クレメンス6世に改宗と王位を交渉したが、ポーランド王カジミェシュ3世の干渉により流れたようであり、その後もハンガリーと交渉するなどしているが、カトリックに改宗することはなかったようである。

アルギルダスとケストティスは明確に担当を分担し争うこと無く協力し合ったため、1377年までの32年間のアルギルダスの治世の間にリトアニアは黒海まで続くベラルーシと西ウクライナにその領土を拡大しただけでなく、ドイツ騎士団、ポーランド、タタール、モスクワ、ノブゴロドが関わる東欧において、影響力を大きく拡大して地域大国となっている。

しかし、1377年にアルギルダスが亡くなり、息子のヨガイラが跡を継ぎ大公となると状況は変わった。

元々、ヨガイラは長男ではなく、アルギルダスの二番目の妻トヴェリ公女ウリヤナの長男で、最初の妻のビチェプスク公女マリヤとの間にアンドリュやドミトリの兄がおり、彼らはモスクワ大公ドミトリ・ドンスコイと結んでヨガイラの大公位を狙い、それに対してヨガイラはタタールの青帳汗国*17の実力者ママイと組んでこれに対抗した。

*17 チンギス・ハンの長男ジョチの子孫が有するモンゴル国家は、キプチャク汗国、金帳汗国、ジョチ・ウルス、タタールなどと呼ばれる。初期から東を領するバトゥと西を領するオルダの領国に別れ、それぞれ青帳汗国、白帳汗国と呼ばれた。

1380年の「クリコボの戦い」では、ヨガイラは戦場への到着が遅れ、モスクワ大公ドミトリ・ドンスコイとルーシ諸公、アンドリュやドミトリの連合軍が、タタールのママイを破った。モスクワは勝利したものの被害も大きかった上、ママイと敵対していた白帳汗国のトクタミシュがティムールの援助を受けてママイを破り、タタールを再統一してモスクワを屈服させ、モスクワの勢力はむしろ一時的に減退した。

ヨガイラはケストティスに対処する余裕ができ、ケストティスに無断でリヴォニア騎士団と休戦し、さらにドイツ騎士団総長と密約を結び、ケストティスへの攻撃を認めた。

ドイツ騎士団の攻撃を受けた後、密約の存在を知ったケストティスは、1381年にヨガイラが首都ヴィリニュスを離れた時を見計らってクーデタを起こし大公位に就いた。ヨガイラは逮捕されたが、ケストティスを大公と認めることで本領を安堵され解放された。

しかし1382年にケストティスと息子のヴィタウタスがノブゴロド遠征に行っている際に、ヴィリニュスの市民が蜂起してヨガイラを迎え入れた。ケストティスの反ドイツ騎士団の方針はドイツ騎士団領における商人の交易を妨げていたからである。

大公に復帰したヨガイラはドイツ騎士団と同盟し、ケストティスとヴィタウタスはサモギティアなどの兵を集め、これに組するリュバルタスはハルーチ・ボルーニの兵を率いて、両陣営は決戦をするかに思われたが、和平交渉が行われた。ケストティスとヴィタウタスはヨガイラの陣営を訪れたが、そこで逮捕され、監禁中にケストティスは殺害され、ヴィタウタスは後に脱出して、当初マゾフシェに逃れたが援助を得られず、最終的に仇敵であるドイツ騎士団を頼った。

ヨガイラとドイツ騎士団の関係は悪化し、騎士団とヴィタウタスはリトアニアに侵攻したが、1384年にヨガイラは世襲領土を返還する条件でヴィタウタスと和解し、ヴィタウタスはヨガイラを大公と認めて臣従した。

ヨガイラはドイツ騎士団との交渉時にはカトリックへの改宗を示唆し、モスクワ大公国との交渉ではギリシア正教への改宗を匂わせていたが、1382年にハンガリーとポーランド王であるラヨシュ大王が亡くなるとポーランド貴族は次女のヤドヴィガを女王に選び*18、その夫としてヨガイラがカトリックに改宗した上で結婚してポーランド王となることが打診されると、1386年にリトアニア全体がカトリックに改宗し、ヨガイラはポーランド王ヴワディスワフ2世として戴冠した。

*18 ポーランド貴族はハンガリーとの同君連合の継続や長女マーリアと結婚してハンガリー王となったルクセンブルク家のジギスムントを拒否し、リトアニアとの同盟を望んでいた。中欧三国志参照

ヴィタウタスはポーランドへの同化を恐れるリトアニア貴族の支持を得て、1389年から再度、反乱を起こし、ドイツ騎士団と再び結んでヴィリニュスを攻撃した*19。

*19 この時に、イングランドのヘンリー・ボリンブログ(後のヘンリー4世)が参加している。西欧の騎士にとってドイツ騎士団の遠征への参加は、十字軍のロマンを味わえ人気があった。対オスマンでも1396年のニコポリス十字軍などがあるが、こちらはルール無用の殺し合いだった。

ヨガイラもヴィタウタスも決定的勝利は得られず、1392年に和解して、ヨガイラの宗主権を認めてヴィタウタスがリトアニア大公となった。ヴィタウタスはルーシーへのさらなる勢力拡張のためモンゴル(タタール)の争いに介入し、「テレク河畔」の戦いでティムールに敗れたトクタミシュと組んで、1399年の「ヴォルスクラ川の戦い」でティムールに従うエディゲ、ティムール・クトルクと戦ったが完敗し、ルーシー方面への野望は阻止された*20。

*20 同時に、密かに企てていたポーランド/ヨガイラへの離反も実現不能となったようで、ポーランド=リトアニア連合は三百年に亘り継続することになる。

ヴィタウタスに再び裏切られたドイツ騎士団はリトアニアへの攻撃*21を強め、これに対してヨガイラとヴィタウタスのポーランド=リトアニア連合が決定的勝利を得るのが、1410年の「タンネンベルク(グルンヴァルト)の戦い」である。この指揮を取ったヴィタウタスはリトアニア大公として「偉大」の称号を得ている*22。1429年に神聖ローマ皇帝ジギスムントからリトアニア王として王冠をもらっているのだが、ポーランド貴族に妨害されており、1430年に亡くなったため、リトアニア王と呼ばれることはなかった。

*21 既にリトアニアは名目的とは言え、カトリックに改宗しているのだが。
*22 皇帝や王なら大帝や大王だが、大大公とはあまり言わないため表現に困る。

Lithuania_and_Poland_1387.pngこの後、リトアニアの歴史はポーランドの歴史に組み込まれていくのだが、これを大国ポーランドが小国リトアニアを吸収したと考えてはならない。この時点では国土の大きさや人口の点ではリトアニアの方がはるかに大きく、ポーランドは海岸部をドイツ騎士団に、ボヘミアやハンガリーに隣接する地域はそれぞれに併合されており、リトアニアの西方に張り付いている比較的小さな国に過ぎなかった(図参照)。

しかし、カトリック文化圏に属し、商業や文化・技術の点で先進であったため、次第にリトアニア貴族達はポーランドに同化していくことなるのである。また、ポーランドは元々王権が弱く、ヨガイラの子孫のヤギェウォ朝は貴族に多くの特権を委譲しており、後に貴族共和制と呼ばれるように貴族の力が強かったのだが、リトアニアでもカトリックの貴族はポーランド貴族と同等の権利が得られたため、正教徒だったルーシー系のリトアニア貴族のカトリックへの改宗と同化が進んだのである。

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