イベリアのブルゴーニュ朝 - ポルトガルとカスティラ

カスティラもポルトガルもブルゴーニュ(ボルゴーニャ)朝が長かった*1が、その祖はブルゴーニュから来た二人の従兄弟だった。

*1 トラスタマラ朝もアヴィス朝も庶子とは言え男系であるため、それぞれハプスブルク朝に替わるまで続いたともいえる。

1086年のムラビト朝との「サグラーハスの戦い」で大敗したカスティラ・レオン王アルフォンソ6世エルシドをサラゴサから呼び戻しているが、同時にピレネーの向こうのフランス貴族達にも救援を求めていた。

要請に応えて、1087年に妻の実家であるブルゴーニュ公ウード等がカスティラに到着し、ムラビト朝はフランス勢の増援を恐れて引き上げ、勢いに乗ってトゥデラを包囲したが失敗に終わり、フランス勢は帰途についた。

ウードは引き上げる前に従兄弟のブルゴーニュ伯家*2の四男レーモンを嫡男のいないアルフォンソ6世の長女で王位の推定相続人であるウラッカと結婚させており、レーモンはガリシア伯を与えられた。

*2 ブルゴーニュには公領と伯領があり、別々の家で前者はカペー分家であるが、婚姻関係は密接だった。

ところが1093年にアルフォンソ6世に庶出だが男子のサンチョが誕生して、状況が怪しくなってきた。庶子のため、ウラッカの推定相続人の地位は変わらないが、アルフォンソ6世は密かにサンチョの継承を望んでいるようだった。

不安になったレーモンは、1096年ごろにウードの末弟のアンリを呼び寄せ、アルフォンソ6世の庶子のテレサ*3との結婚を取り持ち、アルフォンソ6世の死後に2人で王国を分割する密約を結んだと言われる。

*3 ちなみに1094年にはテレサの同母姉エルビラがやはり救援に来たトゥールズ伯レーモン・サンジルと結婚している。レーモンはこの後、第1回十字軍に参加してトリポリ伯国を建てる。

ところが、それを察したにアルフォンソ6世はガリシア南部のポルトカーレ(ポルトガル)・コインブラをアンリに与えたため、思惑通り両者は争い共に王の好意を得ようとし、王は息子サンチョを嫡子と認めさせる為の下工作を続けたようだ。

レーモンとウラッカの間には1105年にアルフォンソ(7世)が生まれていたが、1107年にレーモンが亡くなると、アルフォンソ6世は息子サンチョを継承者として宣言し、寡婦となったウラッカをアラゴン・ナバラ王アルフォンソ1世と結婚させる交渉を始めた*4。

*4 ウラッカは推定相続人から外されたため、反乱を避けるために、代わりにアラゴン王妃の座を与え追い払おうとしたのだろう。

ところが、1108年にムラビト朝との戦いでサンチョは戦死してしまい、1109年にアルフォンソ6世も亡くなったため、ウラッカが女王として即位した。

ウラッカの廷臣達は強力なアラゴン王との結婚には不安を感じていたが、ポルトカーレ伯アンリの影響力拡大を恐れて、アルフォンソ1世との結婚を進めたようだ。

これに対してポルトカーレ伯アンリとテレサの夫妻は遺領の相続権*5を主張してガリシアに攻め込んだ。アルフォンソ1世が鎮圧に向かったが、捕虜の扱いやアルフォンソ1世の高圧的な態度が女王であるウラッカと衝突した上、王太子であるアルフォンソ(7世)の側近達もアルフォンソ1世を警戒したため、1110年にウラッカは別居して両者は交戦するようになった。

*5 本来、庶子には相続権が無いが、庶子のサンチョが継承者となるならテレサにも相続権を認めるべきだと主張していた。

一転して、アルフォンソ1世はポルトカーレ伯にガリシアを与えて同盟し、ウラッカとその愛人で有力な貴族ゴメス・ゴンザレスやペドロ・ゴンザレス・デ・ララと戦ったが、1112年に同盟者のポルトカーレ伯アンリが亡くなったこともあり、ウラッカと休戦し結婚を無効にした。

しかしカスティラの多くをアラゴンに占領され、ザモラなどをポルトガルに占領されていたため、ウラッカは以降、その回復を目指し、アルフォンソ7世*6が1127年にアラゴンからカスティラを取り戻している。

*6 ウラッカは1126年に亡くなり、息子のアルフォンソ7世が跡を継いでカスティラ・レオンはブルゴーニュ朝となった。

一方、夫を失ったテレサは、トラヴァ伯フェルナンド・ペレスを愛人にして1116年に抗争を再開し、姉に対抗して女王を名乗ったが、1121年に捕虜となり、ポルトカーレ以外の領土を放棄して、レオンの封臣となることで解放された。

1122年に息子のアフォンソ(1世)は14歳となり母に反乱し、1128年にフェルナンド・ペレスを打ち破り、母を修道院に追放し、介入してきたカスティラのアルフォンソ7世も打ち破って、1129年にポルトカーレ公(プリンス)を名乗って独立し、ブルゴーニュ朝ポルトガル王国への道を開くことになる。

ちなみにアラゴン・ナバラのアルフォンソ1世はウラッカとの離婚の後は結婚せず*7、子供もおらず、1134年に死去する際に修道騎士団(テンプル、ホスピタルなど)にアラゴン・ナバラを与えることを望んだが、ナバラの貴族は王族ガルシア・ラミレス(エルシドの長女クリスティナの息子)を王に選出し、アラゴン貴族は修道士だった弟ラミロ2世を選んだが、ラミロ2世は娘ペトロニーラを作るとバルセロナ伯ラモン・ベランゲ4世と結婚させ、自分はさっさと修道院に戻ってしまい、アラゴンではバルセロナ朝が始まる。

*7 軍人王として多くを戦場で過ごしレコンキスタに貢献した。

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