大空位・選挙皇帝時代(1)

シチリアの晩鐘で述べたように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と激しい対立をした教皇イノケンティウス4世は、フリードリヒ2世を破門すると共に対立王を物色していた。

神聖ローマ皇帝というのは、ドイツの選帝侯により選挙で選ばれると、この時点で、まずドイツ王・ローマ王としてドイツの君主となり、その後、教皇や諸侯との調整の結果、時期を見計らってイタリアに行き、鉄王冠で戴冠してイタリア王になり、最後にローマでローマ教皇からローマ皇帝としての戴冠を受け、正式な皇帝になるのである。但し、ドイツ王・ローマ王になった時点で、通常は皇帝と呼ばれる。

ローマ教皇は、かってはヴェルフ家を支持して、皇帝家のホーエンシュタウフェン家と争わせてきた*1が、ヴェルフ家のオットー4世*2も皇帝になると、やはり教皇と対立する政策を取っため、ドイツに基盤を持たない外国の王族か、弱体な中小諸侯を皇帝に推挙しようと考えた。一方、ドイツの大諸侯も、自分たちの中から皇帝が出るのはお互いに牽制しあい、また、現役の皇帝フリードリヒ2世に対抗するのはリスクが大きいため、あえてなろうとするものはいなかった。

*1 これがイタリアでは、皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の争いの語源となった。
*2 フリードリヒ2世の前の皇帝。

そこで教皇と選帝侯たちは、1247年に若干20歳弱のホラント伯ウイリアムを対立王に選んだ。ホラント伯はオランダの語源になったように、ネーデルラントでは有力な諸侯であるが、神聖ローマ帝国全体の中では公でも辺境伯や宮中伯でもない1伯にすぎない。当初から、ウイリアムは、強力なフリードリヒ2世と本気で対立する気はなかったようで、フランドルと争うなど、ドイツ王の肩書を利用してネーデルラント内での勢力拡大を考えていたようである。フリードリヒ2世が亡くなったのは1250年、跡を継いだコンラート4世が亡くなったのが1254年だが、ウイリアムは最後までネーデルラント内の戦いに明け暮れ、1256年に敗走中、馬ごと湖に転落し溺死した。

国内の弱小諸侯では役に立たないと考えたか、教皇と選帝侯のうち4人は、次にイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを選んだが、選帝侯の残りの3人はカスティラ王のアルフォンソ10世を選んだ。彼の母がホーエンシュタウフェン家*3であるため、反教皇、親ホーエンシュタウフェン派の支持を受けたのである。選帝侯による選挙は、通常、多数決ではなく大勢を占めた方に他が同調*4して全会一致で選出するのだが、このように拮抗すると、それぞれが別々に選挙を行って別の王を選出してしまう*5ことがあるので、これを避けるために選挙規則を明文化したのが後のカール4世の金印勅書なのだ。

いずれにしろ外国の王族を御輿にして、自分たちが好きに振舞おうという考えである。

リチャードは何度かドイツを訪れ、王権を確立しようとしたが果たせず、イングランドでシモン・ド・モンフォール等のバロンの乱が起こり手が離せなくなり、一方、カスティラ国王であるアルフォンソ10世は一度もドイツを訪れなかった。どちらも王として機能しておらず、この時代を大空位時代と呼ぶ。

こうして、1272年にリチャードが亡くなると、アルフォンソ10世は存命ながら、改めて選挙が行われることになった。ここで、選帝侯の1人のボヘミア王オトカル2世が皇帝位を狙い始めてきた。彼は、バーベンベルク家が途絶えたオーストリアを獲得し、さらにハンガリーやポーランドと姻戚関係を結んで、積極的に勢力拡大に務めており、現時点で神聖ローマ帝国内の最大の実力者であるといってもよく、さらに彼の母がホーエンシュタウフェン家*3であった。しかし、当然ながら、他の選帝侯はこのような強力な皇帝を必要としておらず、かといって、外国の王族やあまりにも弱小な諸侯では、オトカル2世に実力で制せられてしまうかもしれない危惧が有った。

そこで、1伯ながら、シュバーベン南部で勢力を拡大してきたハプスブルク伯のルドルフが候補に上がってきた。ハプスブルク家は現在のスイス東部の伯で、これまでは国政レベルの歴史に名前が出ることはなかったが、ルドルフの代でフリードリヒ2世の与党として活躍し、その後の空位時代にも着実に勢力を築いてシュバーベンの最有力者になっていた。

ルドルフはホーエンシュタウフェン派だったが、教皇もオトカル2世を避けるために賛同し、アルフォンソ10世に退位を勧め、新たな選挙ではルドルフが選出された。当初、オトカル2世はルドルフを認めなかったが、ルドルフはドイツ王の権威を利用して中小諸侯を従え、ハンガリーを味方に引き入れるなど、政治的・外交的手腕を発揮してオトカル2世を屈服させた。さらに、ドイツ王として、大空位時代に諸侯が自儘に奪った領土の返還を命令した。しかし、支持者の多くに対しては改めてその所有を認めているため、これは実質的にオトカルや反対派に向けたものだった。

オトカル2世は反対派を糾合してルドルフに挑んだが、マルヒフェルトの戦いで敗死し、ルドルフはオーストリアを確保して、以降、600年に及ぶハプスブルク家の繁栄の礎を築いた。

*3 どちらもフリードリヒ2世の叔父にあたるドイツ王フィリップの娘
*4 ここで代償などが交渉される。この時代の選挙というのは買収合戦なのである。
*5 選挙会議の定足数などが定められていないため、自派だけで開いて全会一致としてしまう。

大空位・選挙皇帝時代(2)

こうしてドイツ王としての権威を高め、ハプスブルク家の基礎を築いたルドルフ1世だが、弱体な皇帝を期待していた大諸侯は、ハプスブルク家の世襲を望まなかった。

ルドルフ1世は、存命中に跡継ぎのアルブレヒト(1世)の選出を望んだが、選帝侯たちはこれを拒否し、1291年にルドルフが亡くなるとアルブレヒトではなく、弱小のナッソー伯アドルフを選出した。オトカル2世の息子であるボヘミア王ヴァツラフ2世が反ハプスブルクで動き、3人の大司教(選帝侯)もドイツ王の世襲を望まなかったのである。

アドルフは選出にあたって多大な約束を選帝侯たちにさせられたが、即位後はこれを守らず、積極的に自勢力の拡大に努め始めた。チューリンゲンやマイセン辺境伯領を帝国に収めた結果、大諸侯の警戒と反発を呼び、宿敵同士のヴァツラフ2世とアルブレヒト(1世)も手を結び、1298年に選帝侯たちはアルブレヒトを選出してアドルフを廃位した。その後、アドルフはアルブレヒトとのゲルハルムの戦いで敗死し、ナッソー家はその後も弱小諸侯*6のままだった。

*6 このアドルフの家は現在のルクセンブルク大公家の先祖で、オランダ王家のナッソー家はそれ以前に分かれた家である。いずれも弱小だったが、後者はオラニエ公を継承してから、運が開けている。

念願のドイツ王となったハプスブルク家のアルブレヒト1世であるが、ヴァツラフ3世死後に男系の絶えたボヘミア王に自分の長男ルドルフを就けさせようとしたり*7、ハンガリーの王位継承に干渉してオーストリア領を増やそうとしたが、ルドルフが急死するなど上手くいかず、原初スイス同盟がハプスブルク支配から抜け出そうとする中で、1308年に、思いがけず足元をすくわれる形で、相続の不満から甥(弟の息子)に暗殺され、当然、王位を世襲にすることもできなかった。

*7 ヴァツラフ2世の娘との結婚によるが、他の娘の夫と継承争いとなった。

1308年には、既にフランスのフィリップ4世はローマ教皇との争いに勝利*8して、フランス出身のクレメンス5世が教皇に就いていた。フィリップ4世は、弟のヴァロア伯シャルル*9をドイツ王に推したが、反フランス勢力はライン宮中伯ルドルフを対抗馬とした。そこで、トリエル大司教(選帝侯)の兄で、フランス語圏であるルクセンブルク伯のハインリヒ(7世)が、フランス王の封建臣下となっていたため妥協案として浮上し、1309年にドイツ王に選出された。

*8 アナーニ事件とアヴィニョン捕囚参照。
*9 後のフランス王フィリップ6世の父。父や兄の思惑でアラゴン十字軍時にアラゴン王を与えられたりもしているが、実際に王になることはなかった。

ボヘミアではヴァツラフ3世死後、ハプスブルク家とケルンテン公ハインリヒが争っており、どちらも嫌ったボヘミア貴族の一部が、1310年にハインリヒ7世の息子ヨハン(ヤン、盲目王)とヴァツラフ2世の娘を結婚させ、ボヘミア王にすることを提案してきた。ハインリヒ7世はケルンテン公ハインリヒを追い払い、ハプスブルク家とも話をつけ、以降、ボヘミア王位はルクセンブルク家の権力基盤となる。

1310年に、代々の神聖ローマ皇帝の命取りとなったイタリア遠征を始める。本来はイタリア王、神聖ローマ皇帝として戴冠するためのイタリア入りだが、ゲルフ、ゲベリンの争いの中で反抗する都市を鎮圧や懐柔しながらであり、ローマに入ったのは1312年だった。ここでも、ナポリ王ロベルトやローマ貴族のオルシーニ一族などの抵抗を受け、さらにアヴィニョンの教皇クレメンス5世もローマに現れなかったため枢機卿の手で戴冠したが、これによりフリードリヒ2世以来の初の正式なローマ皇帝と見なされる。その後、シチリア王フェルディナンドと同盟して、ナポリ王ロベルトの討伐を宣言しシエーナを包囲したが、陣中でマラリアに罹り亡くなった。

大空位・選挙皇帝時代(3)

このため、彼も息子ヨハンをドイツ王にすることはできず、1314年の選挙では、ヴィッテルスバッハ家ルートヴィヒ4世とハプスブルク家フリードリヒ美王が、それぞれの支持者のみの選帝会議を開いて、それぞれ選出された*10。これまでは、ローマ教皇の思惑もからんで、外国王族や弱小諸侯を選出してきたが、弱小だったハプスブルク家やルクセンブルク家が王位を利用してのし上がってきたのを見て、大諸侯*11が乗り出してきた感がある。両者の争いは当初、フリードリヒ美王が優勢だったが、1322年のミュールドルフの戦いでルートヴィヒ4世が決定的な勝利を収め、フリードリヒ美王を捕虜とした。その後に和解して、フリードリヒ美王がローマ王としてドイツを統治し、ルートヴィヒ4世が神聖ローマ皇帝として帝国全体を統治するとした。

*10 ルートヴィヒ4世は5票、フリードリヒ3世は4票得ている。合計が7票を超えているが、ザクセンとボヘミアに対立侯が存在して両派に分かれているためである。ルクセンブルク家のボヘミア王ヨハンはルートヴィヒ4世を支持している。
*11 ハプスブルク家も既に大諸侯であり、ヴィッテルスバッハ家は名門でバイエルン公やライン宮中伯を有する最有力諸侯である。

しかし、ローマ教皇ヨハネス22世は皇帝選出に対する影響力の回復を狙ってルートヴィヒ4世を認めず、両者の対立が激化した結果、1324年に教皇は皇帝を破門した。しかし、1326年にハプスブルク家と和解したルートヴィヒ4世は、翌1327年にイタリアに入りミラノでイタリア王に戴冠し、1328年にはローマに入り元老院議員*12により皇帝として戴冠し、さらに教皇ヨハネス22世を異端として糾弾して、対立教皇ニコラウス5世を立てた。しかし翌年には、ナポリ王ロベルトがローマに進撃してきたため撤退し、ニコラウス5世は後に捕らえられてアヴィニョンに送られた。

*12 元老院議員による戴冠は、無論、破門されていたためでもあるが、ローマ総主教が皇帝の下にいた、ローマ帝国時代への回帰を指向してもいるのだろう。

帝国諸侯は、対皇帝のために教皇を頼ることもあるが、皇帝選出に対する教皇の干渉には反発し、1338年にレーエンに選帝侯が集まり、選帝会議で選出されたドイツ王は教皇の承認を必要とせず自動的に皇帝となると宣言し、ルートヴィヒ4世を支持した。

また同年にルートヴィヒ4世は対フランス、教皇のために、イングランド王エドワード3世と同盟したが、これでエドワード3世はフランスに宣戦布告し百年戦争が始まっている。

しかし、ルートヴィヒ4世の国内での勢力伸長策はやはり大諸侯の警戒を呼び、1346年に、教皇クレメンス6世の強い後押しで、ルクセンブルク家のボヘミア王ヨハンの息子カール(4世)がドイツ王に選ばれたが、同年に行われた百年戦争のクレシーの戦いにヨハン盲目王とカール(4世)は参戦しており、盲目王は戦死、カールは命からがら逃げ帰っている。

しかし、1347年にルートヴィヒ4世が脳卒中で急死したため、長期の内戦は避けられた。1349年にヴィッテルスバッハ派はシュヴァルツブルク伯ギュンターを選出したが、カール4世に敗れ、間もなく病死した。

カール4世の当初のドイツでの評価は低かった。彼はフランス宮廷で育っており、彼の姉はフランス王太子ジャン(2世)の妻であり、クレシーの戦いに参戦したように完全なフランス・教皇派だと見られていた。実際に王選出の際にも多大な譲歩を教皇に行ったと言われ、反教皇でルートヴィヒ4世の保護を受けていたウイリアム・オッカム*13は「坊主皇帝」と嘲笑的に仇名している。

*13 オッカムの剃刀で知られるイングランド出身の神学者、思想家

しかし、まずは権力基盤のボヘミアの繁栄を第1におき、イタリア政策においては教皇との協調路線を保ち、帝国内の諸侯に対しては1356年の金印勅書によりその権利を承認して、安定体制を築いた。つまり凡ヨーロッパ的権威、ローマ皇帝としての虚名を捨て、ドイツが事実上、領邦国家の連合体であることを認めた上で皇帝家の繁栄を計るという、後にハプスブルク家にも踏襲された路線を敷いたのである。これにより、ルクセンブルク家の皇帝位は安定して、ついに1376年に息子ヴェンツェルをドイツ王に選出することに成功し、ホーエンシュタウフェン家以来初めての世襲を成し遂げたのである。1377年には教皇のアヴィニョンからローマへの帰還にも助力しており、1378年におそらく満足して亡くなっている。

しかしヴェンツェルはあまり有能な君主とはいえず、教会大分裂の解決を怠っているとして、1400年にはヴィッテルスバッハ家の宮中伯ループレヒトが選出されるが、その後もヴェンツェルは王位を放棄した訳ではなく、1410年にループレヒトが亡くなった後は、ルクセンブルク家のモラヴィア辺境伯ヨープストとハンガリー王ジギスムントがそれぞれ選出されるなどルクセンブルク家が事実上、世襲している状態だった。ジギスムントは教会大分裂を解決し、神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王として称号上は栄華を極めた*14が、男子継承者がいないまま1437年に亡くなると、ハプスブルク家のアルブレヒト2世がドイツ王となり、次代のフリードリヒ3世以降、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の世襲*15となった。

「ヴィッテルスバッハが撞き、ルクセンブルクが捏ねし天下餅、座りしままに食うはハプスブルク」字余り。

*14 ハンガリーが中心となったオスマン・トルコに対するニコポリス十字軍で大敗したり、フスの火刑によりボヘミアの反感を買うなど内政的には問題は山積みだったが。
*15 マリア・テレジアの時にヴィッテルスバッハ家から対立皇帝が出ているが、夫のフランツが皇帝になることで解決している。

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