900-1050年の間は教皇の暗黒時代とも呼ばれる。カロリング朝のフランク王国が分割後、西ローマ皇帝位にはイタリア王が就いてきたが、イタリア王もまたイタリア、プロバンスの豪族達が争う名ばかりのものになっていた。924年にイタリア王ベレンガリオが亡くなると皇帝位を継ぐ者も無くなり、ローマ教皇はその時々にローマを支配するローマ貴族やイタリア貴族の支配下に入り、その意志により自由に任命、解任され、俗人であるその一族が若年で教皇になることも珍しくなかった。
951年に東フランク(ドイツ)王オットー1世(大帝)がイタリア王になった際には、ローマ教皇はスポレート公アルベリーコの支配下にあり、彼により任命されていた教皇アガペトゥス2世はオットーの皇帝就任を拒否している。しかし、次の教皇で18歳で教皇に就任したアルベリーコの子であるヨハネス12世は、イタリア王ベレンガリオ2世の攻撃に対処するためオットーに支援を求めて、962年に彼をローマ皇帝に戴冠した。皇帝位自体はカール大帝からの継続性を有しているが、これをもって神聖ローマ帝国の始まりとされる*1。
*1 国号に神聖が付くのは13世紀になってからだが、カロリング朝の西ローマ帝国と区別するために、最初から神聖ローマ帝国と呼ぶのが慣例である。
しかし、まもなくオットーの影響力を恐れて、ビザンティン等と組んで叛旗を翻がえそうとしたため、オットー大帝はヨハネス12世を追放してレオ8世を教皇に就けている。
以降、皇帝による教皇の任命が続いたが、オットー3世の死でザクセン(オットー)朝の直系が断絶し、選出された傍系のハインリッヒ2世は事実上の新王朝*2であり、さらにザリエリ(フランケン)朝のコンラートと新王朝が続き、ドイツ内外での諸問題に忙殺されため、ローマへの影響力は減少した。オットー3世の死後、1003年からローマ貴族クレスケンティウス家がローマを支配して教皇を牛耳り、やがて、これにローマ近郊のラティウムの貴族トゥスクルム伯家が対抗した。ローマに干渉する余裕がある時は皇帝が影響力を及ぼし、しばしば対立教皇が立てられ、ローマでは争乱が繰り広げられた。
*2 オットー大帝の弟ハインリッヒの子孫だが、代々、反乱を起こしており、満場一致で選出された訳ではない。
特に1032年トゥスクルム伯の子で教皇になったベネディクトゥス9世は、叔父2人に続いて18歳(一説では12歳ともいう)で就任しており、完全に世襲状態だった。若年からの僧侶生活に嫌気をさして結婚を望んで、1045年に代父だったグレゴリウス6世に多額の補償金と引き替えに教皇の座を譲った*3。
*3 グレゴリウス6世は真面目な聖職者であり、ベネディクトゥス9世が教皇の座を汚し続けるよりはと思い、敢えて金銭の支払いをしたという。
ところが、以前クレスケンティウス家の後押しで対立教皇だったシルウェステル3世が教皇位を主張し始め、さらに結婚に失敗したベネディクトゥス9世が前言を翻して再び教皇位を主張したため、3人の教皇が並立することになり、内戦を恐れた教会関係者達は皇帝ハインリッヒ3世に調停を依頼し、結局3人共廃位*4され、新たにドイツ人のクレメンス2世が任命された。この時、追放されたグレゴリウス6世に付いていた僧が若きヒルデブラント(グレゴリウス7世)*5だった。
*4 グレゴリウス6世は金銭を支払ったことを聖職売買(シモニア)と非難された。
*5 彼の皇帝権力に対する憎しみに近い敵対心は、この時に生まれたと思われる。
ザリエリ朝においては、帝国諸侯を抑えるために、世襲制にならない教会に権限を移すことが推進されており、ハインリッヒ3世も教皇庁の改革を望んでいたが、それはローマ貴族との癒着から離れて宗教活動に専念することで、当然、神聖ローマ皇帝の下に教会があり、皇帝の手足として機能することを望んでいた*6。
*6 つまり、世襲制でない汚職をしない清廉潔白な官僚を求めており、そのためには妻帯の禁止や聖職売買(シモニア)の禁止といった改革は必要だった。
以降、ハインリッヒ3世が実質的に任命した教皇が続くが、1049年に就任したレオ9世は、クリュニー修道院の理念に基づいた、後にグレゴリウス改革*7と呼ばれる一連の教会改革に着手しており、この時に集めた改革派の聖職者としてヒルデブラントも加わっている。彼の治世はコンスタンティノープル総司教との東西教会大分裂を招いただけで、改革の成果はあまり上がらなかったが、彼が集めた改革派が改革を推進していくことになる。
*7 一連の改革において、一貫して中心人物であったヒルデブラント(グレゴリウス7世)にちなんでいるが、本人はグレゴリウス1世(聖大グレゴリウス、在位:590年-604年)への回帰を指向したとしている。
カノッサへの道
カノッサへの道(1) - ハインリッヒ3世
カノッサへの道(2) - グレゴリウス7世
1056年にハインリッヒ3世が39歳で亡くなり、6歳のハインリッヒ4世が跡を継いだことで状況は大きく変わった。母のアグネスが摂政となり、ドイツ出身の教皇ウィクトル2世はその後見を頼まれていたが、彼も1057年に亡くなり、ローマへの影響力は減少した。幼君の場合、どうしても諸侯が気ままに振る舞い始め、宮廷への求心力は低下する。
次の教皇ステファヌス10世はハインリッヒ3世時代に反乱が絶えなかった下ロートリンゲン公ゴドフロワの弟であり、幼いハインリッヒ4世に替えて兄をドイツ王にすべく画策したが就任後わずか7ヶ月で死去した。
ドイツ宮廷の影響力が減少していたため、トゥスクルム伯の支持を受けたベネディクトゥス10世が選出されたが、ヒルデブラントらの改革派の枢機卿は帝国摂政アグネス達の支持を受けてニコラウス2世を選出し、ベネディクトゥス10世は後に廃位され対立教皇と見なされた。
このような二重選出を避けるために、ニコラウス2世は司教枢機卿のみによる教皇選出規則を定めた*8。さらに、武力の欠如を実感し、ローマ貴族や皇帝の武力と対抗できる勢力として、これまで敵対していた南イタリアのノルマン人達*9の領土所有を認め、彼等を封建臣下とした。しかし、「コンスタンティヌスの寄進状」に基づくとして、勝手に南イタリアの領土にノルマン人を封じたことは、皇帝として全イタリアの宗主を自認するドイツ宮廷の怒りを呼んだ。
*8 教皇選挙会議(コンクラーベ)の原型。現在の方式は、1274年にグレゴリウス10世により制定されたものである。
*9 ロベール・ジスカールを筆頭とするオートヴィル一族など。これらの領土は、後にシチリア王国となる。
1061年にニコラウス2世が亡くなると先に定めた教皇選出規則に基づいて改革派のアレクサンデル2世が選出されたが、ドイツ宮廷への承認を求めなかったため、ドイツ宮廷はこれを認めず、ホノリウス2世を選出した。しかし、1062年にケルン大司教アンノ達がハインリッヒ4世を誘拐してクーデタを起こし、アグネスを追放して政権を握ると、従来の政策を変更してアレクサンデル2世を教皇と認めた。
1066年にアレクサンデル2世はノルマンディ公ウイリアムのノルマン・コンクエストを承認して、その権威を高めている。一方、ドイツではハインリッヒ4世が成人して親政を始め、自儘に振舞っていた諸侯を抑えて、宮廷への権力の回復に勤め始めていた。
1073年に、これまで改革派の中心にいたヒルデブラントが満を持してグレゴリウス7世として教皇に就任し、妻帯の禁止や聖職売買(シモニア)の禁止の徹底に加えて、その拡大解釈*10とも言える、世俗による聖職者の任命の禁止、そして教会の中央集権化とも言える教皇のみが司教を叙任・解任できるという方針を推進した。
*10 世俗による指名はシモニアを伴うと主張するが、俗人も信徒であり、信徒の合意や選挙で聖職者を決めていけない理由はなく拡大解釈と言える。
ハインリッヒ4世はザクセン、チューリンゲンの反乱に対処している間は、これらの方針を了承する姿勢を示したが、ザクセンが平定されると、これを覆し、ミラノ大司教等の叙任を行った。さらにローマ貴族のチェンチオ・フランジパーニがグレゴリウス7世を監禁したが*11、これも皇帝が背後にいると疑われた。
*11 ローマの民衆により、まもなく救出されている。
これに怒ったグレゴリウス7世は、1075年に、教皇が神に認められた最高権威であり、皇帝廃位の権限を持つと、ドイツ王の廃位をも仄めかして非難すると、この侮辱に怒ったハインリッヒ4世も1076年のウオルムスの会議で教皇グレゴリウス7世の廃位を決定した。これに対して、教皇がハインリヒ4世を破門*12したことで、「カノッサの屈辱」事件に繋がっていく。
*12 教皇が国王などの世俗君主を破門したのは久しぶりで、この時点ではその効果は定かではなかった。
比較的、短期間に教皇権が皇帝を脅かすほどの力を持つようになったのは、レオ9世以来、概ね一貫して改革派が、明確なビジョンを持って教皇権を握っていたからだろう。通常、教皇の在位期間は短く、各派閥のバランスにより新教皇が選ばれるため、前教皇の政策が覆されることも珍しくなかったが、ヒルデブラントらの指導力により、改革派の推進力は緩むことがなかった。
次の教皇ステファヌス10世はハインリッヒ3世時代に反乱が絶えなかった下ロートリンゲン公ゴドフロワの弟であり、幼いハインリッヒ4世に替えて兄をドイツ王にすべく画策したが就任後わずか7ヶ月で死去した。
ドイツ宮廷の影響力が減少していたため、トゥスクルム伯の支持を受けたベネディクトゥス10世が選出されたが、ヒルデブラントらの改革派の枢機卿は帝国摂政アグネス達の支持を受けてニコラウス2世を選出し、ベネディクトゥス10世は後に廃位され対立教皇と見なされた。
このような二重選出を避けるために、ニコラウス2世は司教枢機卿のみによる教皇選出規則を定めた*8。さらに、武力の欠如を実感し、ローマ貴族や皇帝の武力と対抗できる勢力として、これまで敵対していた南イタリアのノルマン人達*9の領土所有を認め、彼等を封建臣下とした。しかし、「コンスタンティヌスの寄進状」に基づくとして、勝手に南イタリアの領土にノルマン人を封じたことは、皇帝として全イタリアの宗主を自認するドイツ宮廷の怒りを呼んだ。
*8 教皇選挙会議(コンクラーベ)の原型。現在の方式は、1274年にグレゴリウス10世により制定されたものである。
*9 ロベール・ジスカールを筆頭とするオートヴィル一族など。これらの領土は、後にシチリア王国となる。
1061年にニコラウス2世が亡くなると先に定めた教皇選出規則に基づいて改革派のアレクサンデル2世が選出されたが、ドイツ宮廷への承認を求めなかったため、ドイツ宮廷はこれを認めず、ホノリウス2世を選出した。しかし、1062年にケルン大司教アンノ達がハインリッヒ4世を誘拐してクーデタを起こし、アグネスを追放して政権を握ると、従来の政策を変更してアレクサンデル2世を教皇と認めた。
1066年にアレクサンデル2世はノルマンディ公ウイリアムのノルマン・コンクエストを承認して、その権威を高めている。一方、ドイツではハインリッヒ4世が成人して親政を始め、自儘に振舞っていた諸侯を抑えて、宮廷への権力の回復に勤め始めていた。
1073年に、これまで改革派の中心にいたヒルデブラントが満を持してグレゴリウス7世として教皇に就任し、妻帯の禁止や聖職売買(シモニア)の禁止の徹底に加えて、その拡大解釈*10とも言える、世俗による聖職者の任命の禁止、そして教会の中央集権化とも言える教皇のみが司教を叙任・解任できるという方針を推進した。
*10 世俗による指名はシモニアを伴うと主張するが、俗人も信徒であり、信徒の合意や選挙で聖職者を決めていけない理由はなく拡大解釈と言える。
ハインリッヒ4世はザクセン、チューリンゲンの反乱に対処している間は、これらの方針を了承する姿勢を示したが、ザクセンが平定されると、これを覆し、ミラノ大司教等の叙任を行った。さらにローマ貴族のチェンチオ・フランジパーニがグレゴリウス7世を監禁したが*11、これも皇帝が背後にいると疑われた。
*11 ローマの民衆により、まもなく救出されている。
これに怒ったグレゴリウス7世は、1075年に、教皇が神に認められた最高権威であり、皇帝廃位の権限を持つと、ドイツ王の廃位をも仄めかして非難すると、この侮辱に怒ったハインリッヒ4世も1076年のウオルムスの会議で教皇グレゴリウス7世の廃位を決定した。これに対して、教皇がハインリヒ4世を破門*12したことで、「カノッサの屈辱」事件に繋がっていく。
*12 教皇が国王などの世俗君主を破門したのは久しぶりで、この時点ではその効果は定かではなかった。
比較的、短期間に教皇権が皇帝を脅かすほどの力を持つようになったのは、レオ9世以来、概ね一貫して改革派が、明確なビジョンを持って教皇権を握っていたからだろう。通常、教皇の在位期間は短く、各派閥のバランスにより新教皇が選ばれるため、前教皇の政策が覆されることも珍しくなかったが、ヒルデブラントらの指導力により、改革派の推進力は緩むことがなかった。