スコットランド独立戦争

スコットランド独立戦争(1) - エドワード1世

何とも近代的な響きで、とても13世紀末からの14世紀の出来事を表す言葉とは思えない。たぶん近代のナショナリズム史観による言葉だろう。

共産主義政権の崩壊と欧州連合(EU)の成立以来、欧州では地域が独立・分離することが増えているが、最近ではスコットランドでも独立派の政党が支持を増やしており、独立を問う国民投票を行うよう働きかけているが、ここで取り上げるのは中世においてイングランド王がスコットランドを直接支配下に置こうとした試みとそれに対する抵抗戦争である。

独立とは言っても、欧州中世においては、君主が宗主国の皇帝、教皇、王の封建臣下となったり、血統からくる継承権により外国の王侯が君主となることは良くあることで、必ずしも望ましいことではないにしろ*1、それ程、抵抗のあることではない*2。当時の貴族達が気にしたのは、自国の法・慣習と自分達の権利(特権)が維持されることであり、誰が王かはさほど重要ではなかった。

*1 自国が軽視されること、法・慣習を押し付けられること、課税の強化等については警戒があった。
*2 欧州の王侯は早くから広い範囲で互いに通婚し共通の文化を有しているため、元々、ナショナリティ(民族性)は無かった。

しかし「スコットランドの鉄槌」と呼ばれたエドワード1世以下のイングランド王はイングランドの法・慣習を適用する併合を指向したため強い抵抗を受けることになり、またスコットランド貴族の党派争いを上手く利用しようとしたが、結果的に一方の党派を支援する形になり、他方の抵抗と求心力を一層、強いものに変えてしまった。

元々、大ブリテン島においてウェールズとスコットランドはイングランドよりはるかに弱体だったが、デーン、ノルマン、プランタジネットの諸王朝は北欧やフランスに関心が強く、辺境に過ぎないウェールズとスコットランドは間接支配で十分だと考えてきたため助かっていた面がある。

しかしプランタジネット家はジョン王の時にフランス領土の大部分を失い、ヘンリー3世が領土回復に失敗しそれを確定する和睦をフランスと結ぶと、次のエドワード1世はその代わりをブリテン島に求めることになった。

ウェールズは統一された国ではないため簡単だった。シモン・ド・モンフォールの乱(第二次バロン戦争)に乗じてルウェリン・ザ・ラストがウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を名乗っていたが、ウェールズ全体が服属している訳でもなく、豪族達の反乱を唆して簡単にルウェリンを屈服させ、最終的にはウェールズ全体を征服することに成功している。

一方、スコットランドはウェールズよりは大きく、古くから統一した王国を築いていたため、それ程、容易ではなかったが、折よく国王アレキサンダー3世には嫡出の息子がなく、女系の孫である幼いマーガレット(ノルウェーの乙女)が後継者とされたため、彼女を息子のエドワード(2世)と婚約させることで同君連合を企てた。しかし、1289年にノルウェーにいたマーガレットがスコットランドに向かう途中のオークニー諸島で亡くなり*3、白紙に戻ることになった。

*3 当然ながら疑惑がある。7歳と幼いため、長旅による自然死であっても不思議はないが、こういう事情とタイミングであるため、反イングランド派や国王になりたい貴族の陰謀の可能性はある。

最有力の継承候補者は有力な貴族のジョン・ベイリャルと老ロバート・ブルースだったが、両者が妥協に至らないため、さらに候補者が増え、遂には13人になり、内戦を恐れた貴族達はエドワード1世に調停を求めた*4。

*4 恐らく、エドワード1世自身の示唆であろう。スコットランド南部の貴族の多くはイングランドにも所領を持っており、イングランド王の封臣でもあった。

調停は1年半に渡り、その期間中、スコットランドはエドワード1世が統治しており、既にスコットランド支配は始まっていたと言える。最終的に縁戚関係*5があり性格的に御し易いと見られたジョン・ベイリャルに決定されたが、実質的に傀儡であり、エドワード1世の要求を全て呑まされることになった。

*5 ジョン・ベイリャルの妻はエドワード1世の従姉妹。

これに不満を抱いたスコットランド貴族は連合して評議会を作り、フランスと同盟して叛旗を翻すことをジョン・ベイリャル王に強要し、1296年にイングランドと開戦したが、ダンバーの戦いであっさり敗れ、ジョン・ベイリャルは捕虜となり、スコットランドはエドワード1世の直接支配下に入ることになった。

マキャベリは「征服した土地を統治する最も良い方法は君主が直接、その地に住むことである」*6と述べているが、ギエンヌ、フランドルを巡ってフランスのフィリップ4世との戦争の真っ最中であるエドワード1世には、そんな余裕はなく、スコットランド総督に任命されたサリー伯ジョン・ド・ワーレンはスコットランドの気候を嫌って現地に行かず、統治は各州の長官(シェリフ)に任されていた。

*6 例えば、織田信長は征服地の美濃に居住し本拠地としており、これを実証していると言える。

スコットランド独立戦争(2) - ウィリアム・ウォレス

末端の官僚と兵による支配は現地の不満を呼び易く、各地で反乱が発生したが、ここで登場するのが後にスコットランドの英雄と祭り上げられたウィリアム・ウォレス*7である。実は彼について確かなことは、1297年にラナークの州長官を殺害して反乱を起こし、サー・アンドリュー・マリーと共にスターリング・ブリッジの戦いに勝利し、スコットランド王国守護者(王軍総指揮官)となるが、1298年のフォルカークの戦いで破れた後、王国守護者を辞任して消息不明だったが、1305年に逮捕され、大逆罪として残酷な四つ裂き*8の刑に処されたことだけで、それ以外の物語や逸話は15世紀の吟遊詩人である盲目のハリーの詩をベースとするもので、様々な過去の創作物や伝説が取り入れられており根拠は乏しい*9。

*7 映画「ブレイブ・ハート」で一躍有名になったスコットランドの伝説的愛国者。
*8 興味のある人は調べれば分かるが、大逆罪に対してエドワード1世が採用した非常に残酷な刑である。原型となる刑罰はそれ以前からあったが、この形式になったのはウェールズ大公の弟ダフィズに適用されてからである。
*9 彗星のように現れ、活躍して悲劇の死を迎え、物語としては良く知られているが史実と言えるものはごく少ないという点で義経に似ているかもしれない。

さて、現実の政治は物語ほど単純ではなく、スコットランドの貴族は王を誰にするかでベイリャル派とブルース派に分かれており、お互いに警戒し牽制しあっていた。また平民のウィリアム・ウォレスの場合は一旦、反乱を起こした以上、捕まれば処刑されるため、戦い続けるしかないのであるが、貴族は帰順することが可能であり、守るものが多いだけに、常に状況に応じて和戦両方を考慮することになり、単純に愛国者/裏切り者と分けられるものではない。当初の反乱は、どちらかと言うとベイリャル派が中心で、ブルース派は様子見の状況であり、ロバート・ブルース(老の孫)は陰で反乱を支援しながらも表面上はイングランド王に従っていた。

物語的脚色を除いて書けば、恐らく小地主の次男以下であったウィリアム・ウォレスは傭兵となっていたが、地元に戻った際に何らかのトラブル*10に巻き込まれ、州長官を襲撃することになり、そのまま反乱のリーダーとして頭角を表し、やがてアンドリュー・マリーの軍と合同してスターリング・ブリッジの戦いで勝利する。この戦いではイングランド指揮官のサリー伯ワーレンの不手際が批判されるが、騎士道精神によれば相手が布陣を敷くまで攻撃すべきではなく*11、スコットランド軍はそれを破っているのである。格上のアンドリュー・マリーが指揮権を握っていたとも思われるが、負傷によりまもなく死亡したため、その功績はウォレスが受けることになった。

*10 妻の死が原因と言うのは、可能性はあるが根拠はない。
*11 宋襄の仁と同じであり、現代では愚かとされるが、孔子はその行為を賞賛している。現代風に言えば交戦法規に反しているとも言えるが、貴族ではないウォレスは気にせず、この後もゲリラ戦法を続けていき、後にロバート・ブルースもこれを採用することになる。

騎士に叙任されたとは言え、平民出身のウォレスが王軍総指揮官とされたのは、両派が互いに牽制し合ったため、一躍、英雄視されることになったウォレスを立てたのだろう。ウォレスは派閥争いには無縁だったと思われるが、純朴に前王のジョン・ベイリャルが正統と考えていたため、ベイリャル派の支持を受けたようで、フォルカークの戦いに参加した貴族は主にベイリャル派である。いずれにしろ、ゲリラ戦を指向したせいもあるが、平民出身のウォレスの指揮下に入ることは好まれず貴族は少数だった。

フォルカークの戦いの敗北によってウォレスは失脚し、ロバート・ブルースとベイリャル派のジョン・カミンが王国守護者となるが両者の対立は消えず、やがて共に辞任して反乱は尻すぼみになっていく。ウォレスの消息は不明であるが、フランスに居たとの説が有力であり、また教皇の支持を得るためにローマに派遣されたとも言われるが、スコットランド貴族の多くがエドワード1世に屈服したため、密かに帰国した後、いくつかの襲撃を行ったが、1305年に密告により逮捕され、前述のように処刑されている。

スコットランド独立戦争(3) - ロバート・ブルース

エドワード1世に従いつつも反乱を起こす機会を伺ってはいたと思われるが、ロバート・ブルースが1306年に再び挙兵し王位を宣言したのは、直接的にはあまり積極的な理由ではないようである。ロバート・ブルースの主張によるとジョン・カミンが密告したため逮捕されそうになり、逃れた後、ダンフリーズの教会でジョン・カミンと会見し、裏切りを非難して殺害したとのことだが、エドワード1世が逮捕を命じたという記録はなく、単に意見の違いによる口論の末に殺害した可能性も高い。

ともかく、これで反乱せざるを得なくなりロバート1世として戴冠したが、イングランドの追討軍にメスヴェンの戦いで敗れて、沖合のどこかの島に逃れたようだが、洞窟に隠れていた時に、蜘蛛が何度、網を破られても、その度に張り直すのを見て、粘り強い抵抗とゲリラ戦を思いついたとの伝説が教訓譚として知られている。その後、ノルウェーに亡命したとも言われるが、所領は没収され、教会での殺人により破門されることになった。

しかしロバート1世の運は尽きておらず、1307年7月にエドワード1世が死去し、軟弱・怠惰で知られていたエドワード2世が即位すると、ロバート1世は帰国して反イングランド戦を再開した。

エドワード2世はスコットランド遠征には乗り気ではなく、父により追放されていた寵臣ピエール・ガベストン*12を呼び戻し、通常は王族に与えられるコーンウォール伯を与えるなど寵愛したため、ランカスター伯トーマスを筆頭とするイングランド貴族の強い不満を買った。1310年には貴族21人からなる評議会が作られ、全ての重要事項は評議会と議会の賛同を必要とするとする1311年の政令が制定されたが、1312年にガベストンがランカスター伯らに処刑されると貴族間で権力闘争が起こり、エドワード2世はいくらか権力を回復することができた。

*12 ガスコーニュ出身の騎士で、エドワード2世と同性愛関係にあったと噂されており、出自が比較的低いことと外国人であるためイングランド貴族からは毛嫌いされた。

その間に、ロバート1世はダグラス一族らと共にイングランドの占有する城塞、都市を奪回していったが、むしろ戦いの多くはベイリャル派のカミン一族とその同盟者マクドゥガール氏族との戦いで占められ、敗れたベイリャル派はイングランドに亡命している。

1309年までにはスコットランドの大部分を平定し、最初の議会を開いており、以降、残るイングランドの城を1つづつ陥し、1314年にはスコットランドに残る最後のイングランドの城スターリング城を包囲した。スコットランドの亡命貴族の要請もあり、ここに至って危機感を抱いたエドワード2世はイングランド貴族と和解して自ら救援軍を率いたが、軍事的能力は全くなく、数的に劣るロバート1世のスコットランド軍にバノックバーンの戦いで記録的な大敗を喫した。

イングランド軍はスコットランドから完全に追い出され、攻勢に立ったロバート1世はしばしばイングランドに侵入すると共に、弟のエドワード・ブルースがアイルランドに侵攻した。1320年には独立についてのスコットランドの強い意志を示すアーブロース宣言を行い、ローマ教皇に破門を取り消すよう働きかけている。

イングランドでは内戦が起こり、ランカスター伯トーマスは敗れて処刑され、エドワード2世が権力を回復したが、今度は若ヒュー・ディスペンサーを寵愛したため、ロジャー・モーティマなどの貴族だけでなく、王妃イザベラとも不仲になり、イザベラは1325年に息子エドワード(3世)と共にフランスに渡り、既に亡命していたモーティマと組んで、1326年に少数の傭兵と共にイングランドに侵攻し、エドワード2世を捕らえて廃位した*13。

*13 エドワード2世は肛門に焼け火箸を差し込まれて殺害されたとの噂が広く知られているが確証はなく、生死についても様々な説がある。若ヒュー・ディスペンサーは四つ裂きの刑を受けている。

エドワード3世が王位に就いたが、実質は母のイザベラとその愛人ロジャー・モーティマが実権を握っており、イザベラはフランスの意向を受けて、1328年にスコットランドの独立とロバート1世の王位を認め、その後継者デビッド(2世)と娘のジョーンを結婚させるノーザンプトンの和を結んだが、イングランド貴族には屈辱的と受け止められ、エドワード3世も不満を抱いたと思われる。

1329年にロバート1世が死去した際には王国は安定していたが、後継のデビッド2世は4歳と幼少であった。

スコットランド独立戦争(4) - スチュアート朝

1330年にイングランドでクーデタが起き、ロジャー・モーティマが処刑され、母イザベラを排除してエドワード3世が実権を握り、以前の政策を覆し始めた。

これを受けて、イングランドに亡命していたベイリャル派はジョン・ベイリャルの息子エドワードを担ぎ、1332年にイングランド王の支援を受けて侵攻し、ダプリン・ムーアの戦いに勝利してエドワード・ベイリャルを戴冠させたが、その支持は広がらなかった。アナンで孤立し、アーチボルト・ダグラスに襲撃されたエドワード・ベイリャルはイングランドに逃げ帰り、1333年にエドワード3世はスコットランドに侵攻してハリドン・ヒルの戦いでアーチボルト・ダグラス率いるスコットランド軍を破った。

再びエドワード・ベイリャルが王位に据えられ、デビッド2世はフランスに亡命した。エドワード3世はバロワ朝のフランス王フィリップ6世に引渡しを求めたが、拒否されたことが原因の1つとなり、1337年に百年戦争が始まった。これにより、エドワード3世は大陸での戦争に注力することになり、スコットランドではブルース派が失地を回復し、1341年にはデビッド2世も帰国することができ、「古い同盟」に基づいたフランスの要請を受けて、1346年には空き巣狙いのごとく主力のいないイングランドに侵攻したが、ネヴィルズ・クロスの戦いでヨーク大司教率いる留守番部隊に対して完敗し、デビッド2世も捕虜となった。

しかし、エドワード・ベイリャルのスコットランドでの立場は改善せず、ロバート1世の女系の孫で推定相続人であるロバート・スチュアートが摂政となりブルース朝を維持した。その後、エドワード・ベイリャルは年金と引き替えに継承権をエドワード3世に譲り、デビッド2世もエドワード3世の息子の1人を推定相続人とする条件で解放されることを望んだが、スコットランド議会はこれを拒否し、1371年にデビッド2世が跡継ぎなく死去するとロバート・スチュアートがロバート2世としてスチュアート朝を開いた。

その後もジェームス1世が18年間イングランドで捕囚として過ごすなど、イングランドに押されることが多かったが、百年戦争におけるイングランドの劣勢により独立を維持することができた。

この間、スコットランドはフランスと同盟(古い同盟)を結んでイングランドと対抗してきたが、薔薇戦争の後にイングランドとの和平が成立し、ジェームズ4世とチューダー朝ヘンリー7世の娘マーガレットが結婚している。その後もフランスとの同盟を維持し、しばしばイングランドと争ったが、チューダー家がエリザベス1世になるとジェームズ4世とマーガレットの孫に当たるスコットランド女王メアリーが新教・旧教の争いの中でイングランド王位を主張したが、反乱で母国を追われイングランドに亡命した後、反逆罪の容疑で処刑された。しかし、その息子ジェームズはエリザベス1世の後継者となり、1603年にイングランド王に即位し両国は同君連合となった。

スコットランド王がイングランド王を兼ねるため、スコットランド貴族も文句がないはずであるが*14、元々、王侯にとってナショナリティ(国、民族)は意味がなく、イングランド王ジェームズ1世としてロンドンから統治を行いスコットランドに戻ることはなかった。

*14 アーブロース宣言はイングランド王に従う王は廃位するとしているが、イングランド王になっていけないとは述べていない。

それでもチャールズ1世までは同君連合であったが、清教徒革命、名誉革命により、スコットランドはイングランドに実質的に併合されて、1707年の合同法によりブリテン連合王国(イギリス)となった。以降もジャコバイトなどを中心として独立の動きはあったが、イギリスが大英帝国と呼ばれるほど発展するとスコットランドもその恩恵を受け、その一員として繁栄した。

しかし第二次大戦後の大英帝国の解体とイギリスの地位の地盤沈下により、スコットランドでも独立への指向が現れ、近年には300年ぶりにスコットランド議会が再開され、EUの下での独立への支持も増加する傾向にある*15。

*15 小国が不利な点は防衛力と国内市場の規模であるが、NATOとEUに加盟していれば、これらの問題は存在せず、EUの構成国として発言権を持つ方が英国の1地域であるより有利な面がある。

最新

ページのトップへ戻る