教皇子午線というと、1492年のコロンブスの発見を受けて、翌年に悪名高いアレクサンデル6世が母国スペインのために世界を2つに分割したとして知られ、世界を自分の物と思ったヨーロッパ人の驕りの象徴として注目されることもある。
これは大航海時代の幕開けでも述べたが、そのような性質のものではない。
話は1452年に遡り、コンスタンティノープルが風前の灯となって、時の教皇ニコラス5世は西欧諸国に対オスマン十字軍を呼びかけていたが応じる国が無い中、既にアフリカ航路を開発していたポルトガル王アフォンソ5世は十字軍への支援を示唆して、今後、ポルトガルが征服した異教徒の土地と人*1をポルトガル王が所有することを認めるよう要望し、教皇はボハドル岬以南の征服地の領有を認めた教書"Dum Diversas"を発布した*2。これは1455、1456年の教書で再確認されている。
*1 つまり奴隷にして売買して良いということ
*2 これが欧米による植民地化を正当化したと言われるが、元々、十字軍で認めていたもので、東欧征服のドイツ騎士団などにも与えられている。
その後、ポルトガルはカスティラと王位継承*3やカナリー諸島の領有を巡って争い、1477年7月にイザベル(1世)の王位とカナリー諸島の領有をカスティラに認める代わりに、それ以外の地はポルトガルが所有するとしたアルカソヴァ条約を締結している。
*3 スペインの創生 参照
*4 1481年にシクストゥス4世の出した教書はアルカソヴァ条約を承認し、カナリー諸島以南をポルトガルに認めている。
この時点では、カスティラ、アラゴンにとって、イザベル1世のカスティラ王位の確定が最重要事項であり、さらに既存のカナリー諸島の領有の方が未知の土地より重要と考えたのだろうし、東(南)回り航路は既にポルトガルが大きく先行していた為、対抗することは難しかった。
そこで、スペイン*4はコロンブスの西回り航路に賭けてみたのだが、1492年にコロンブスが陸地を発見しインドに到着したと主張すると、ポルトガル王ジョアン2世はアルカソヴァ条約により、その土地はポルトガルのものであると主張して、すぐにでも艦隊を送って領有する構えを示した。
*4 以降、カスティラ、アラゴンの同君連合をスペインと表記する。
ポルトガルはコロンブスが発見した島には興味がなかったのだが、1488年に喜望峰を越えてインドへ行けることは確実になっており、その土地が本当にインドでスペインに先所有権を握られては困るからだった。
この時点では海軍力でポルトガルに敵わないスペインが、バレンシア出身の教皇アレクサンデル6世に働きかけて出させた*5のが、1493年の教書"Inter caetera"で*6、これで引かれた線が所謂、教皇子午線なのだ。
*5 アレクサンデル6世は、ナポリへの圧力としてスペインの支持を必要としていた。
*6 放っておけばスペインとポルトガルが争うのは必然であり、キリスト教国の調停を行うのは教皇の責務であり当然の行為だった。
これにより、既知の大西洋の島であるアゾレスとカーポベルデの全ての島より南で*7、かつ西に100リーグの経線を越えて発見・征服した土地はスペインの領有になるとした*8。
*7 北は既知の土地が含まれる為、除外されている。
*8 東は明示していないが、以前の教書と合わせると当然ポルトガルの所有となる。
ポルトガル王は教皇庁での交渉は不利と見て、スペイン両王と直接交渉して締結したのがトルデシリャス条約で、当初の線より270リーグ西に移動させている。これは、アフリカ航路の安全を確保する為とされたが、この結果、ブラジルがポルトガル側に含まれることになった。この時点ではブラジルは発見されていないが*9、多分、ポルトガルはその辺に陸地があることを知っており、その為に線をずらすことを強く主張したと思われる。
*9 1500年にカブラルが発見したことになっている。
トルデシリャス条約はスペインとポルトガル間の条約であり、他の国は関係なく、それを承認した教皇教書も新教国にとって意味がなく、フランスはガリカニスムに基づいて無視したが*10、東西航路共にスペインとポルトガルに大きく出遅れ、彼らに匹敵する海軍力を有するまで時間が掛かった為、それまではスペインとポルトガルの独占状態だった。
*10 フランス王フランシス1世は「それがアダムの意思というなら、見せてみろ!」と言ったそうだ。
この条約は要するに、二大海軍国のスペインとポルトガルが新たな発見地を両者で独占する為の縄張り分けで、それ以外の国に対しては両者が共同で排除する為、他国はゲリラ戦法である海賊行為により、両者の支配権を揺るがそうとしたのである。
なお、各教皇教書でポルトガルやスペインに与えられたのは南方の新発見地であり、この為、スペインはカナリー諸島より北に位置する北米地域(米国、カナダ)を積極的に殖民せず、出遅れたフランス、イングランド、オランダなどは、まず北米を植民地にすることができた。
トルデシリャス条約時の認識は、東回り、西回りの境界分けで、それを守る限り、先に発見した者が領有権を得ることになるが、1512年にポルトガルが香辛料の宝庫である香料諸島(モルッカ諸島)に到着した為、改めて論議を呼んだ。
ポルトガルは教皇レオ10世に働きかけ、1514年に線は大西洋側のみに適用されるとの教書を出させたが、スペインは1518年にトルデシリャス条約は反対側にも適用されるとし、1521年にマゼランがモルッカ諸島に到着すると、この島はスペイン側に入ると主張した。
この為、交渉が続けられ、1529年にサラゴサ条約が締結され、東経144度に線が引かれたが、モルッカ諸島は35万ダカットの補償金でポルトガルに残された。フィリピンは、この線より西だったが、1542年にカール5世が領有することを宣言し、ポルトガルは異議を唱えなかった*11。しかし、実際のフィリピンの植民地化はフェリペ2世による1571年頃からである。
*11 既にポルトガルとスペインの力の差は歴然としていた。