カノッサからの道

カノッサからの道(1) - ハインリッヒ4世

ハインリッヒ4世から見れば、教皇の要求は、自分の幼年を良いことに自儘に振舞っていた諸侯たちと同様であった。帝国内において教会関係の領土はその何割かを占めており、封建諸侯でもある司教らの叙任権が教皇にあるとすれば、それらの領土は実質的に帝国領から離れて教皇領となるため呑めるはずがなかった。もちろん、実際には世俗権力による推薦や交渉と言った余地は残るが、最終決定権を教皇が握る限り、最終的に教皇領とされる危険性は存在した。

まだ25歳だが、幼年時から、臣下に捕らえられたりして苦労したハインリッヒ4世は狡猾であり、複数の敵と同時対決する愚を避け、各個撃破を基本方針としたようである。

このため、ザクセンの反乱時には教皇の要求を呑むかの姿勢を見せ、反乱を鎮圧した後に、改めて教皇と対決したのであるが、予想しなかったのは、破門になった後の帝国諸侯と民衆の反応だった。教皇のごり押しは世俗である帝国諸侯と民衆の反感を買うと予想していたが、民衆は教皇に同情的であり、帝国諸侯は皇帝権を弱める良い機会と捉えた。帝国諸侯と教皇との同時対決を避けるためにハインリッヒ4世が行った果敢な行動が、カノッサでの教皇への直談判であり、これにより破門を解かれて各個撃破が可能になった。

教皇の意図とは関係なく、ドイツではシュヴァーベン大公ルドルフが対立王となる準備をしており、ハインリッヒ4世の破門が解かれたにも係わらず、ザクセンの反乱勢力と結んで王位を宣言した。1080年1月のフラルヒハイムの戦いではルドルフが勝利し、教皇はハインリッヒ4世を再び破門してルドルフの王位を認めたが、しかし、人心は再度の破門を政治的な理由として支持しなかった。同年10月のエルステル川の戦いで、戦闘では勝利を収めながらルドルフが負傷し、まもなく死去すると、次いで対立王となったザルム伯ヘルマンは、もはや大きな脅威ではなかった。ハインリッヒ4世はシュヴァーベン大公位を娘婿であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒに与えている*12。

*12 ホーエンシュタウフェン家が大勢力としてドイツの政治に関わる端緒である。

流れはハインリッヒ4世に傾いており、1080年6月にドイツの聖職者を集めた会議でグレゴリウス7世の廃位を再び宣言し、クレメンス3世を対立教皇として立て、1081年から1082年にかけて、教皇を支持するトスカナ伯マティルダと戦い、ローマを包囲し、またビザンティンと同盟して、南イタリアのノルマン人勢力と戦った。1084年にはローマに入城して、クレメンス3世により皇帝として戴冠している。グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に篭っており、まもなくドラッツイオ攻囲から引き返してきたロベール・ジスカールに救出されたが、1085年にサレルノで死去した。恐らく怨念を残してであり、死ぬ前にハインリッヒ4世への聖戦を呼びかけていた。

果敢な行動力と優れた戦略により、グレゴリウス7世との闘争は概ね勝利に終わったが、その成果は息子達(コンラート、ハインリッヒ5世)の反乱と偉大な戦略家であるウルバヌス2世によって覆されることになる。その結果、本人にとっては、はなはだ不本意であろうが、カノッサの屈辱で城門に立たされた皇帝という印象だけが後世に残されることになった。

カノッサからの道(2) - ウルバヌス2世

グレゴリウス7世の死で改革派の勢いは弱まった。後継のウィクトル3世は基本的に修道士であり、教皇になることを拒んだ後、短い治世で亡くなり、ローマは依然として対立教皇クレメンス3世の下にあった。

しかし、1088年に教皇に選出されたウルバヌス2世は、直ちにハインリッヒ4世とクレメンス3世を破門し、バイエルン公ヴェルフ2世とマティルダとの結婚を取り持ち、北イタリアの各都市やノルマン人勢力と同盟するなど、着々と対皇帝の手を打っていった。

中でも1093年にハインリッヒ4世の長子コンラートを父に反乱させ、ハインリッヒ4世の2番目の妻であるキエフ出身のアーデルハイトを離反させ*13、ハインリッヒ4世に大きな打撃を与えた。また、離婚問題からフランス王フィリップ1世を破門している。

*13 1095年に行われた証言では、ハインリッヒ4世がグノーシス主義の影響を受けた異端を信じており、その淫行に両者が加わることを強制されたため離反したとのことである。真偽は定かではないが、ローマ皇帝として、後のフリードリヒ2世のように、異端的な信仰や一夫多妻的な発想を持っていた可能性はある。

しかし、何と言っても、1095年にクレルモン教会議で十字軍を呼びかけたことが教皇権の隆盛を決定づけることになった。同年初頭にあったビザンティン帝国からの援助要請を機敏に上手く利用したもので、本来なら、このような軍事行動は「戦う人」の長である神聖ローマ皇帝や国王が中心となるはずだが、ウルバヌス2世は皇帝、王を素通りしてフランスと南イタリアを中心とした諸侯・騎士・庶民に直接、呼びかけて、熱狂的な支持を得ている。

十字軍により軍事においても教皇が強い影響力を持ち得ることが示され、後には異教徒のみでなく、異端や単に教皇に従わない王侯に対しても利用されることになる。また十字軍後に各地で創設されたテンプル騎士団等の修道騎士団は教皇直属であり、教皇の意のままに動く訳ではなかったが、世俗の王侯から独立した軍事力として存在した。

また第1回十字軍が曲がりなりにもエルサレムを回復して成功を収めたことにより、教皇の権威は大いに強まり、相対的に無視された形の神聖ローマ皇帝とフランス王の権威は低下し、対立教皇クレメンス3世の存在感はほとんど失われた。

もっともウルバヌス2世は十字軍成功の報を聞く前の1099年7月に亡くなっており、その成果は後継のパスカリス2世が受け取ることになる。

コンラートは1098年に廃嫡され、次男のハインリッヒ(5世)が太子となったが、彼もまた1104年に父に反乱したのは、教皇との確執を持ち権威を低下させた父に代わって叙任権問題を解決し、皇帝権の回復を図ろうと考えたと思われる。反乱の際は教皇パスカリス2世の支持を求めているが、皇帝となった後はやはり叙任権問題において教皇と対立した。

1111年に戴冠のためローマに遠征した際に、「神聖ローマ帝国において、皇帝が教会の叙任権を放棄する代わりに、教会がカール大帝以降に受けた世俗的な土地、財産を返還する」という合意をパスカリス2世との間に結んだが、禄を奪われるドイツの聖職者の猛反対*14により戴冠式は混乱に陥り、ハインリッヒ5世はパスカリス2世と枢機卿達を拉致して、叙任権は皇帝にあることを認める協約を強制した。

*14 皇帝が叙任権を放棄するとすれば、司教たちが封土を返還して純粋な聖職者に戻るしかないのであるが、それが実現不可能であることは双方とも承知していたはずあり、より現実的な提案に歩みよらせるために敢えて提起したように思える。

帝国内に反抗勢力がある限り、強制された約束はすぐに反故にされることになる。ザクセン公ロタール・ズップリンブルク(後のロタール3世)などが相変わらず反乱を起こしており、ロタールとの争いにおいて、ロタールの娘婿であるバイエルン公ヴェルフ2世は反乱側に付き、ハインリッヒ4世の娘婿であるホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒはハインリッヒ5世に付いて、以降、ヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の皇帝位争い、そしてゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)の争いに引き継がれることになる。

1122年のウォルムスの和約でも、「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」と取り決められたが、皇帝が封土を与える方が先であり、実質的に皇帝が実を取り、教皇が名を取っているのであるが、教皇を地上における神の代理人と認めることで、世俗の皇帝、王の権威が直接、神から与えられるのではなく、教皇を通して与えられることになり、カトリック世界において教皇が最高権威だという認識が強まることになった。

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