イングランドの大憲章(マグナ・カルタ)と言えば、名前も大層であり、英国議会制の基礎となった基本法として中学歴史にも出てくるため、名前だけは非常に知られているが、中身を知っている人はほとんどいない。
これは失政、圧政を繰返したジョン王(欠地王)に対して、諸侯が封建慣習的権利を守るために要求したもので、既にジョンの曾祖父にあたるヘンリー1世の時に、一般的な封建的権利を保証した自由憲章が制定されており、この内容をほぼ繰り返すと共に、具体的なジョン王の行為に対する規制*1、そして、25人の評議会で王が憲章を守っていないと判定された際、王の財産、権力の停止を規定した反抗権(第61条*2)を含むものだった。
1215年にラミニードで、この憲章はジョン王に要求され承認されたが、その後、ジョン王の請願により、時のローマ教皇イノケンティウス3世によって無効にされた*3。
*1 この時代の法は、原則論的な内容と具体的な規制や権利が並列に述べられているのである。
*2 ただし原文は、条項に分かれておらず、後の研究者によって番号が振られたものである。
*3 誓約は神への誓いであり、教皇の手で無効にすることができた。また、名目的にはジョン王の時に教皇はイングランドの宗主になっており、干渉する権利があると看做していた。
このため、諸侯はフランス王太子ルイ(8世)を擁して反乱を起こしたが、まもなくジョン王は病死し、跡を継いだ年少のヘンリー3世を補佐するウイリアム・マーシャルらは、このラミニード憲章から、第61条など王の権限を大幅に制限する条項を除いた憲章を認めることで諸侯と妥協した。
この憲章は、ヘンリー3世の時代に、少しづつ内容を変えて、何度も再確認*4されており、1217年に森林に関する条項のいくつかが森林憲章*5として分離し、2つの憲章になったため、大きい方を大憲章(マグナ・カルタ)と呼ぶようになったが、便宜上、それ以前のものも同じ名で呼ばれる。
*4 この時代の法は定期的に再確認しないと忘れられてしまうのである。
*5 森林の利用権(狩猟、木材採取、木の実の採取、豚の飼育などのための立ち入り)は中世においては重要な問題だった。
この後もエドワード1世、3世の代に何度か変更されたが、エドワード1世が1297年に制定した版で、ほぼ形が決まり、1354年のエドワード3世の版がほぼ最終版となり、その後、1423年にヘンリー6世が再確認するまで30回以上、再確認されている。
しかし、薔薇戦争後に成立したチューダー朝では、絶対王政を指向し、マグナ・カルタは無視され、忘れ去られることになった。元々、マグナ・カルタは中世的な貴族の権利の保証の性格を持つものであり、その内容の多くは議会制が確立した近世においては、当然の事か、意味がないか、あるいは中央集権的統治の害となるものであり、意図的に無視したというより、必要性を失ったといった方が良いかもしれない。
大憲章の中では自由人(Free man)の権利という風に書かれているため誤解され易いが、中世の自由人は貴族とそれに準じる騎士・地主(ジェントリ)・上級都市市民など支配者階級のことであり、彼らの権利を守ることは、彼らに従う従属階級の庶民(農奴、使用人)には不利になることが多いのである。これらの庶民にとっては、その領主、主人の気まぐれに左右されるより、王の下で統一的な扱いを受ける方が概ねマシなのである。
チューダー朝における歴史的再確認という点では、ローマ教会から分離して国教会が成立した後は、ジョン王をローマ教皇に抵抗した英主で、それに反抗した諸侯や大憲章は、否定的に受け止められるようになり、シェークスピアの史劇「ジョン王」でも、そのような観点で書かれている。
ところが、スチュアート朝になると、王権神授説に基づく議会に優越する絶対王政指向に対して、議会制を擁護する立場から、大憲章がイングランドのアングロ・サクソン以来の祖法であり、議会に従わず、それらの法を守らない王は排除することができると、社会契約説に基づいた正当化に用いられるようになり、所謂、清教徒革命、名誉革命の際に、革命の正当性の基盤として大いに持ち上げられた。また、米国の独立やその他の英植民地の独立の際にも、大憲章の精神に基づくものとして正当化された。
そのため、大憲章は最も重要な歴史的な法として認識されており、現在でも英国の法体系の一部(前文のわずかな部分が有効に残っているだけだが)であり、2006年のBBC歴史の「英国の日(Britain Day)」に相応しい日では、1215年6月15日のラミニードにおける大憲章制定が第1位に輝いている。
また、それぞれの時代に配布された歴史的な大憲章のコピーは、オークションで高値で取引され、しばしば話題になっている。
中世においては各国で暴政を行った王や無能な王に対して、封建領主、貴族層がこのような封建的権利を保護する憲章を制定させることはしばしば行われているが、それらは概ね、王権の弱体化と封建領主の割拠を固定化し、国内の混乱につながるものとして否定的に扱われることが多い。
イングランドでは、征服王朝として、当初から強かった王権が、適度に制限を受けて上手くバランスが取れたのがプラスの結果に繋がったのであろう。
大憲章が評価されるのは、その内容ではなく、その歴史的な取扱の上で、議会制の確立と革命の正当化に用いられた点である。