エル・シド

エル・シド(1) - レコンキスタの伝説の騎士

エル・シドは叙事詩「我がシドの歌」等で知られるスペインの伝説的な英雄で、レコンキスタ(再征服運動)における代表的なキリスト教戦士として中世騎士の理想像の一つともされている。

もちろん、このような武勲詩は実在の人物をモデルにした創作で、現実の人物・歴史とは異なり、様々な創作や伝説が付け加えられて成長して行ったものである*1。

伝説上の人物と言う点ではアーサー王のようなもので、その愛刀ティゾーナやコラーダにはエクスカリバー並の伝説がある。実在の人物と言う点では、年代的には八幡太郎義家と同年代であるが、鬼退治の源頼光や鵺退治の源三位頼政、あるいは源義経*2に近いかもしれない。

*1 伝説の元となる「我がシドの歌」の前半は、ある程度、実際の出来事に基づいているが、後半の娘婿の話は古典的なストーリー展開に基づいた創作である。
*2 平家討伐時の簡単な史実しか残っておらず、京の五条の橋の上や烏天狗や弁慶や勧進帳など様々な逸話は、200年以上経って書かれた義経記や伝説に基づいている。

「我がシドの歌」や「若きロドリゴ(Mocedades de Rodrigo)」*3等の詩や伝説に基づくエル・シドの物語は、次のようなストーリーをベースとしている。

英傑エルシドはキリスト教国カスティラの為に奮戦していたが、その手柄を妬んだ邪悪なキリスト教徒(ガルシア・オルドニェス伯爵)により讒言され、善良なイスラム教徒(サラゴサ王)の下に逃れ、宗教に関わらず人々を愛し敬われ、やがてバレンシアを征服する。カスティラ王とも和解して、狂信的なイスラム勢力(ムラビト朝)と戦い勝利するも、やがて病死するが、死後も伝説となりイスパニアを守り続けた英雄である。

15世紀末まで、イベリア半島にはイスラム教徒とキリスト教徒が共存しており、エル・シドも時にはイスラム教徒と共にキリスト教徒と戦っているため、善のキリスト教徒 対 悪のイスラム教徒の構図を取りながら、少数の邪悪なキリスト教徒と少数の良いイスラム教徒がいる設定でエル・シドの行動が正当化されている。

*3「我がシドの歌」は前半生が抜けており、妻のヒメナに関わる若き日の伝説は「若きロドリゴ」に基づいている。

シドはマスター、ロードの意味の尊称で、日本で言えば「殿」や「旦那」と言ったニュアンスで、かって仕えていた吟遊詩人が主人を偲んで「我が殿(シド)の歌」の中でシドと呼んでいたのが有名になり、定冠詞エルを付けたエル・シドが固有名詞として定着したのだろう。

エル・シドのモデルである実在のカスティラの騎士ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(1043年頃 - 1099)は、十字軍以前に活躍した人であり、それから50~100年後に作られた武勲詩や伝説には、騎士道、キリスト教、忠誠と言った騎士道物語のキーワードが散りばめられているが、ロドリゴの生存時には、あまり無かった概念である*4。

*4 「騎士道と武士道」で述べたように十字軍以前の騎士は一人一党の乱暴なゲルマン戦士であり、キリスト教の影響も余り強くなかった。

エルシドの時代のイベリア半島はキリスト教、イスラム教勢力の入り乱れた、戦国時代と言って良かった。

レコンキスタ(再征服運動)は、その名の通り、イスラム帝国に領土を奪われた西ゴートやバスク系の貴族が失った領土を奪回しようとした行動で、本来、宗教はそれ程、重要ではなかった*5。

*5 十字軍が始まってから、レコンキスタが十字軍運動の一環と見なされるようになった。

それでも、ウマイヤ朝や後ウマイヤ朝時代は、イベリア半島の一大勢力である為、キリスト教の諸小国は協力してあたる必要があり、イスラム教 対 キリスト教的な図式もあったが、11世紀初頭には後ウマイヤ朝は内乱時代に入り、半ばにはタイファと呼ばれた小王国に分裂してしまい、一方、後ウマイヤ朝の圧力が無くなったキリスト教勢力も、しばしば分割相続により小王国に別れて相互に争った為、宗教に関わらず各小国の同盟*6・敵対関係が形成された。

*6 しばしば貢納国という形になるが、格下の同盟関係と言ってよい。

その中で頭角を現した若き騎士ロドリゴが戦功で名声を得て、やがて一国一城の主に成り上がるのは中世の騎士の夢であり、アメリカン・ドリームならぬイベリアン・ドリームの体現者として伝承されたのであり、キリスト教戦士の要素は後付けである。

エル・シド(2) - カンペアドール

エルシドことロゴリゴ・ディアス*7は、厳密には貴族とは言えないが、王の廷臣の家の出の為、幼いときからカスティラ・レオン王フェルナンド大王の長子サンチョ(2世)に仕え、14歳の初陣以来、騎士としての武名を得た。

*7 当時のイスパニアでは、サーネームとして父親の名を名乗ることが多く、ディアスはディエゴの子の意味で、ディアス同士でも親族ではない。

フェルナンド大王はパンプローナ王国のサンチョ3世の次男だったが、遺領は3人の息子に分けられ(ナバラ、カスティラ、アラゴン)、カスティラ王国を継いだフェルナンドはレオン王国を併合し、イスパニア皇帝を名乗って覇を示したが、やはり遺領を三人の息子(サンチョ、アルフォンソ、ガルシア)にそれぞれ、カスティラ、レオン、ガリシアを分割して与えている*8。

*8 一応、長子サンチョ2世のカスティラ王国を宗主として協力することを誓わせたのだが、実際は兄は統一しようとし、弟達は反抗した。

1065年に即位したサンチョ2世は、叔父や従兄弟に当たるナバラ、アラゴンと戦い、さらに父の遺領の統一を図って弟達(アルフォンソ、ガルシア)と戦い屈服させており、若きエルシドはその腹心として活躍し将軍に抜擢されている*9。

*9 カンペアドール(戦場の勇者)の称号で呼ばれ、署名にも使用している。

ところが、1072年に姉のウラッカの領するサモラを包囲中に、サンチョ2世は内通して来たサモラの貴族を謁見した際に暗殺され、嫡男が居なかった為、弟のアルフォンソが王位に就いた。

しかし、新王アルフォンソ6世は暗殺を指示したと思われる姉ウラッカを罰せず顧問として迎えた為、カスティラ貴族はアルフォンソも暗殺の共謀者だと疑い、また、以前はレオン王として敵対関係にあった為、レオンの臣下が幅を利かすことを恐れて反発した。エルシドはその代表として、アルフォンソ6世に「暗殺には関わっていない」と聖書に誓わせた為、それを侮辱として恨まれたとされる。

しかし、当初は王の親族であるヒメナ・ディアス*10と結婚する等、宥和策を取ったようだが、王の腹心であるガルシア・オルドニェスと対立し、関係は悪化していった。1079年にセビリアに貢納金を受け取りに行った時に、グラナダ王とガルシア・オルドニェスら一部カスティラ貴族がセビリアに攻め込んできたが、その際にセビリアに加勢して防衛しただけでなく、さらにグラナダにまで侵攻したことがアルフォンソ王を怒らせた*11。

*10 王から見て、かなり遠い縁戚であるが、一応、親族扱いされている。
*11 セビリアはカスティラの貢納国である為、その防衛は妥当だが、王の許可なくグラナダに侵攻するのは越権である。但し、実際は反エルシドのカスティラ貴族が加わっている為、そう単純な話ではない。

1080年にエルシドは追放され、当初はバルセロナ伯の元に向かったが受け入れられず、サラゴサのアミール(王)*12に仕え、デニア・トルトサの領主ムンズィル・アル・ハーイブやアラゴン王、バルセロナ伯などと戦った。

*12 ユースフ王は数学者だったそうで、文化レベルの高い国だったようだ。

アルフォンソ6世は内紛を収めた後、拡大政策を取り、1085年にトレド、1086年にバレンシアを支配下に収め、サラゴサを包囲した。タイファ諸国の救援要請を受けてモロッコのムラビト朝がイベリア半島に上陸し、アルフォンソ6世はアラゴンの救援を受けて立ち向かったが「サグラーハスの戦い」で大敗した。

この為、アルフォンソ6世は、1087年にエルシドを許してカスティラに呼び戻したが、1089年に再びムラビト朝軍が来襲し、アルフォンソ6世が迎え撃った時にエルシドは参加せず、再び追放処分を受けたようだ。仕方の無い事情で参戦できなかったのをカスティラ宮廷が難癖を付けて追放したのかもしれないし、エルシドの方が意図的に日和見して怠戦したのかもしれない*13。

*13 エルシドから見ればアルフォンソ6世に大した義理はなく、サラゴザの方が余程、親しみがあっただろう。

この時、彼の家族はカスティラに残されており、エルシドの性格を考慮して自由にやらせるが、カスティラの利益には反しないように人質を取ったということだろう。

エル・シド(3) - イベリアン・ドリーム

エルシドは再びサラゴサに行き、アル・ムスタイーン王と協力しながら、トルトサの領主ムンズィルやバルセロナ伯ベレンゲと戦い、1090年の「テバルの戦い」でベレンゲを捕虜としたが、後に和解して、エルシドの次女マリアが甥のラモン・ベレンゲ(3世)*14と結婚している。

*14 ラモン・ベレンゲの子孫がアラゴン・バルセロナ同君連合の王となるのだが、マリアとの間に子はできなかった。

ムラビト朝はイスラム宗教集団を母体とした政権で、イスラムの大義を掲げてイベリア半島のタイファ諸国を救援したが、タイファ諸国から見るとムラビト朝は狂信的であり、「サグラーハスの戦い」で完勝すると、ムラビト朝を脅威と感じてキリスト教国と結ぶ動きを見せた為、ムラビト朝のユスフ・イブン・タシュフィンは1090年からタイファ諸国の征服を始めており、1094年までに残っていたのはサラゴサとバレンシアだけだった。

一方、エルシドもバレンシアの攻略を始めており、1092年までにバレンシアのかなりの領域を侵食していた。バレンシア王アル・カーディルはカスティラに貢納金を払っていたが、その弱腰が臣下の不信感を買い、ムラビト朝の指嗾を受けた反乱により殺害された。好機と見たエルシドはバレンシアの包囲を開始し、ムラビト朝の救援軍を打ち破って、1094年に開城させ、遂に一国の主となった*15。

*15 カスティラを宗主国とし、人質だった妻子も呼び寄せている為、バレンシア攻略はアルフォンソ6世の承認を得た行動だったのだろう。

バレンシアではキリスト教徒もイスラム教徒も同様にエルシドの臣下として扱われ、エルシドはカスティラ、サラゴサと共にムラビト朝と戦い、良くバレンシアを防衛したが、1097年に再びムラビト朝の大攻勢が始まり、同年の「コンスエグラの戦い」ではカスティラ軍と共に戦ったエルシドの1人息子ディエゴが戦死している。

1099年7月にエルシドは死去し、嫡男が居なかったため妻のヒメナが後継してアルフォンソ6世の救援を受けたが、1102年に守りきれないと見てエルシドの遺体を持ってブルゴスに移り、バレンシアはムラビト朝に奪われた。

エルシドの長女クリスティナはナバラの王族ラミーロと結婚しており、その息子ガルシア・ラミレス5世が1134年にナバラ王となったため、エルシドの血統はスペイン王家は元より、欧州中の王侯家に伝わっている。なお、次女マリアが結婚したバルセロナ伯ラモン・ベレンゲ3世の子ラモン・ベレンゲ4世がアラゴン女王と結婚してバルセロナ朝アラゴン王家を始めているが、マリアの子ではなくエルシドの血統を受け継いでいない。しかし、マリアの娘ヒメナがフォワ伯と結婚しており、そちらに伝わっている。

エルシドの死後、すぐに遺体は崇拝の対象になり、伝説、詩歌が作られ始めたようである。伝説ではエルシドの遺体を愛馬バビエカに乗せて突撃すると、包囲していたムラビト朝軍は恐れて逃げたため、ヒメナ達はバレンシアを無事に脱出できたと言われる*16。

*16 「死せるエルシド、生けるムラビトを走らせる」で、どこでも似た話は作られるものである。

愛馬はバビエカで、愛剣はティゾーナ(Tizona)とコラーダ(Colada)とされている。実在したかも不明だが、ロドリゴ・ディアスが実在の人物だけに、現在でも何本かティゾーナと伝えられる剣が存在する。

かっては、ティーゾ(Tiso)と呼ばれたアラゴン王ハイメ1世征服王(1208 - 1276年)の所有していた剣と思われていた。バルセロナ伯の所有物だったもので、エルシドの娘マリアから伝わった可能性はあるが、ハイメ1世の自叙伝*17にはティーゾについて詳しく書かれているにも関わらず、エルシドについては言及してないため*18、たまたま似た名前に過ぎないようだ。

*17 ハイメ1世は詳しい自叙伝形式の記録を残している。但し、ハイメ1世の口述を基に祐筆が著述した可能性もある。
*18 既にエルシドは伝説の英雄であり、エルシドの所有物と伝わっていれば言及しているはずである。

また、セゴビアの王城(アルカサル)の武器蔵に「シド所有のティゾーナ」と名札が付いていた剣があったそうだが、他に証拠はなく真偽は不明で、現在はマドリッドの王室武器庫に所蔵されているらしい。

現在、最も有名なのは、15世紀末にカトリック両王がファルセス侯爵家の先祖に与えたとされる剣で、ご丁寧に銘にティゾーナ(Tizona)と刻まれているが*19、、古い「我がシドの歌」ではティゾン(Tizon)と表記されており、Tizonaとなったのは14世紀半ば以降だそうだ。鑑定では、コルドバで作製されダマスカス鋼が使われているが、剣の作りは15世紀末の仕様とされる。

*19 名前は大概、後に付けられるもので、日本刀の鬼丸や童子切なども作成者の銘が入っているだけである。

2003年にスペイン文化遺産に指定された*20が、所有者のファルセス侯爵がスペイン文化省に売却を持ちかけた所、エルシドが所有したという史学的証拠がなく、値段が20万~30万ユーロと高いことから断られたが、2007年にブルゴスの博物館が観光資源として160万ユーロで買い取り、現在は博物館の目玉として他のエルシドの遺物とされる物と共に展示されているそうだ。

*20 エルシドの所有物かは兎も角、15~16世紀から伝わっている美麗な作りの剣である為、文化遺産ではある。

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