フス戦争(1419〜1434年)は、ボヘミアのフス派と異端討伐を掲げた反フス派十字軍との戦い、及びボヘミアの内戦であるが、そこには宗教戦争、民族戦争、革命戦争の側面がある。
宗教戦争としては、カトリックから異端とされたフス派と十字軍との戦いであるが、同時にフス派内の各派においても教義・儀式の違いがあり、宗教戦争として見た場合、フス派の内戦は単なる主導権争い・権力闘争ではなく、宗教的違いから来る本質的な争いである。
民族戦争としては、フス派はほとんどがボヘミアのチェック人*1であるのに対して、王党派や十字軍の多くはドイツ人で、ボヘミアにおけるチェック人による外国人排斥運動の面がある*2。フスの教えはイングランドのウィクリフの考えを受け継いでいるが、各国のウィクリフ派(ロラード派)からの幅広い支持はなく、一方、同じスラブ系のポーランドからは支援を受けている。
革命戦争としては、庶民が多く加わっている点であり、特に急進派のタボル派は平等主義的な宗教共同体を形成しており、革命に相通じる面があった。穏健派のウトラキスト派も下層貴族や都市市民が多く、共和主義的な性格を持っていた。
*1 チェコ人と表記しても良い。
*2 但し近代のような民族主義ではなく、ドイツ人はチェック人やスラブ人と平和的に共存していた。ボヘミアでは新参のドイツ人が高位の役職を占めることへの反感、ポーランドではドイツ騎士団の侵略に対する反感があっただけで、ドイツ人一般に対する憎悪があった訳ではない。
フス戦争のおもなプレイヤーは、フス派(ウトラキスト派*3、タボル派、オレブ派*4、その他)、ボヘミアの王党派(大貴族、ドイツ系貴族、カトリック聖職者)、ボヘミア王・ハンガリー王・神聖ローマ皇帝ジギスムント(配下は主にハンガリー軍)、反フス派十字軍(ドイツ諸侯などドイツ人が多数)、ポーランド=リトアニア*5である。
*3 ウトラキスト自体に派の意味を含んでおり、ウトラク派と書くべきだが、既にウトラキストで知られているため、敢えてウトラキスト派と表記する。
*4 思想的にはウトラキスト派とタボル派の中間であり、後にタボル派から分離したヤン・ジシュカが加わり、彼の死後に「孤児」派と呼ばれるようになる。
*5 同じスラブ系の誼と対ドイツ騎士団でフス派と連携した。
フス戦争において、ボヘミアのフス派は、5回(1420、1421、1422、1427、1431年)の反フス派十字軍に対して全て勝利し、逆に周辺のドイツ、ハンガリー、ドイツ騎士団方面に侵攻しており、軍事的にはフス派の圧倒的勝利だった。政治的にも、ボヘミア王としてジギスムントを受け入れカトリックに復帰しているが、ボヘミアにおけるフス派の教義の自由を認めさせているため名を捨てて実を取っており、むしろフス派(ウトラキスト派)の勝利だった。その後もカトリックとの争いは続き、ルターの宗教改革後はプロテスタントとして30年戦争の白山の戦い(1620年)の敗北まで続いた。
以下にフス戦争の経緯を示す。
1415年のヤン・フスの処刑にボヘミアは沸き立ち、フス派とカトリックの対立は一層、強まり、1419年の第一次プラハ窓外投擲事件*6とヴェンツェル王の死去によりフス派は反乱に踏み切り、全土からカトリックの聖職者(主にドイツ人)*7が追放され王党派との内戦が始まり、タボル派は各地でピューリタン的*8なコミュニティ*9を形成した。
*6 一般的にフス戦争の始まりとされるが、むしろヴェンツェル王の死去の方が大きい。フスを裏切って死に追いやった張本人で、その後も異端撲滅を掲げてフス派に憎まれていたジギスムントがボヘミア王になるため反乱が一気に推進された。
*7 チェック人の聖職者はほとんどがフス派になっていたため、カトリックの聖職者は多くがドイツ人だった。
*8 後に特定の宗派を指すようになったが、聖書に則った清貧な生活を信条とする人々。
*9 タボル山は聖書に出てくる地名で、タボル派の居住地や彼等の使用したワゴン(戦車)もタボルと呼ばれた。チェコ語でタボルは野営(キャンプ)と言う意味があり、両方の意味(ダブル・ミーニング)があるのかもしれない。
教皇マルチヌス5世*10は異端に対する十字軍を呼びかけ、1420年6月にジギスムントとハンガリー、ドイツ諸侯、欧州中からの志願者による第1回反フス派十字軍が結成された。
この危機に対して、フス派は個々の相違を調整し、次のプラハ4箇条*11を宣言した。
1. 神の言葉を説教する自由
2. パンとワインの二種聖餐*12
3. 聖職者は世俗の財産や権力を持たない
4. 身分や役職に係わらず罪は等しく罰せられる*13
*10 コンスタンツ公会議で選出された統一教皇。
*11 ほとんどウトラキストの教条であり、急進派のタボル派は不満だったが妥協した。
*12 カトリックではワインの秘蹟は聖職者に対してのみ行っていた。
*13 宗教上の罪と罰で、免罪符の否定を含む。
フス派軍は市民や農民や女性も含む寄せ集めの雑多な兵だったが、タボル派は宗教的なコミュニティの中で、ヤン・ジシュカ*14により工夫されたワゴン(戦車)戦術を用いた軍事訓練を行っていた。これは、ワゴンを用いた防御力と飛び道具(火器・クロスボウ)の効果的な使用により素人兵の弱点をカバーするもので、フス派全体に広まっていった。
ヴィシェフラドの戦いでは、大軍の十字軍は自信過剰だったため、敵の奇妙な戦術にも構わず重装騎士による突撃を掛け、フス派の火器・クロスボウの射撃をまともに喰らい、戸惑うところをワゴンの陰から現れた歩兵のハルバート(長槍斧)やフレイル(連接棍棒)により馬から引き摺り下ろされ、降伏も許されずに屠殺された。十字軍は敗走し、ボヘミアはフス派の手に落ちた。
*14 ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団との戦いで傭兵として活躍したボヘミアの隻眼の将軍で、フス戦争ではワゴン戦術を用いて不敗を誇った軍事的天才。
フス戦争
フス戦争(1) - 反フス派十字軍
フス戦争(2) - 華麗なる遠征
1421年にドイツ人を主体とした第2回反フス派十字軍がボヘミアに侵入したが、主要な都市を落とせず引き上げ、年末にやってきたジギスムントも翌年1月にクトナ・ホラの戦いで決定的に敗れ、1422年10月の第3回は各国の事情の為に成果なく引き上げている。
余裕が出来たボヘミアでは各派の宗教論争が再発し、煽動家ヤン・シュフラフスキが逮捕され処刑され、シュフラフスキを支持していた下層市民が暴動を起こしてプラハは内戦状態が続いた。
このような混乱を避けるためと援軍を受けるために、ボヘミア王位をポーランド=リトアニアに打診したが、ポーランド王ヨガイラはカトリック聖職者に配慮し断り、リトアニア大公ヴィタウタス(ヨガイラの従兄弟)*15は受け入れたがリトアニアを離れず、1422年にヨガイラの甥(弟の子)ジギマンタス・カリブタイチスが摂政として派遣された。
*15 この時点では、両国は同君連合ではなかった。小さな巨人リトアニア 参照
ジギマンタスは各派を調停し、穏健派はジギマンタスを受け入れたが、共和制指向のタボル派やオレブ派などの急進派は認めず、統治権を確立できないまま、1423年にポーランドとジギスムントの間に協定が結ばれ、ジギマンタスはリトアニアに呼び戻され再び内乱が再開した。ヤン・ジシュカは聖職者の影響力の強いタボル派から分離しオレブ派に合流したが、タボル派との友好関係は維持して穏健派との抗争に勝利してフス派の総司令官となった。1424年6月にはポーランドの意図に反してジギマンタスがボヘミアに戻っている。1424年10月にヤン・ジシュカはモラヴィア遠征中に亡くなり、大プロコプ(アンドレアス・プロコプ)がタボル派と孤児*16(オレブ)派の司令官となり、ジギマンタスが最高司令官となった。
*16 ヤン・ジシュカの死後、オレブ派は父を亡くした孤児のようだと嘆き、孤児派と呼ばれるようになった。
1426年〜27年の第4回反フス派十字軍はドイツ諸侯が中心で、イングランドのヘンリー・ボフォート枢機卿が教皇特使として参加したが、大プロコプが率いるフス派軍にタチョフの戦いで敗れて撤退した。
フス派は当初は十字軍の温床であるドイツを叩く方針で、「華麗なる遠征」と称する略奪遠征を始めたと思われるが、やがて略奪自体を目的として周辺の国を侵攻して回った。ドイツでは諸侯の領邦の割拠が仇となり統一的な抵抗ができず、ハンガリーはオスマン軍への対処で手が回らない状態だった。
カトリックとの和睦の動きは穏健派を中心に常に存在し、ジギマンタスがジギスムントと密かに交渉を進めていたが、1427年に急進派に漏れて逮捕されている。しかし、「華麗なる遠征」で被害を受けている周辺諸侯・都市からも和平が働きかけられ、1431年のバーゼル公会議で和睦が話し合われることになった。
教皇は最後の試みとして第5回反フス派十字軍を呼びかけ*17、ブランデンブルク侯やチェザリーニ枢機卿が率いたが失敗に終わり*18、バーゼル公会議における教皇の権威を低下させることになった。
*17 余談であるが、1430年3月にジャンヌ・ダルクがフス派討伐軍への参加の意向を示して挑戦状をフス派に送っている。その後、ブルゴーニュ軍に捕らえられなければ、第5回反フス派十字軍に参加していたかもしれず、後世に残るジャンヌの印象は随分、異なっていただろう。
*18 十字軍はフス派と対峙し、その賛美歌を聞いただけで怯えて逃げ出したと言われる。一般将兵には、どちらの教義が正しいとの確たる信念はなく、勝っている方を神が支持していると感じるのである。
1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで行進して祝ったのが最後の栄光となった。
バーゼルでの和平交渉が進むと、和平を望むウトラキスト派と武力による解決を図るタボル派との対立は激しくなり、ウトラキスト派はカトリック派と手を結びタボル派を攻撃し、1434年5月の「リパニの戦い」でタボル派、孤児派は決定的敗北を喫し、大プロコプ、小プロコプの指導者が戦死して壊滅した。1436年にウトラキストを中心とするフス派は、ジギスムントをボヘミア王として認め、ボヘミアにおける自分達の教義の維持*19を条件としてカトリックに復帰した。
*19 主にプラハ4箇条で示された内容。
これでフス戦争は終わったように書かれるが、対立は終わっておらず、1437年にジギスムントが死去し、教皇エウゲウス4世はバーゼル会議から主導権を奪いつつあった。ジギスムントの女婿としてボヘミア王になったハプスブルク家のアルブレヒトはボヘミアを統治しようとしたが、フス派の反撃に会い果たせず、1439年に死去し、後継者のラジスロー遺腹王は生まれたばかりで、ボヘミアはフス派とローマ派*20で二分された。1448年にフス派のイジー・ス・ポジェブラトが主導権を握り、1451年に幼年のラジスローの後見人*21で神聖ローマ皇帝となっていたフリードリヒ3世からボヘミアの摂政として承認された。
*20 一応、フス派もカトリックに復帰しているため、正統派カトリックとしてローマ教皇に従う人々を指す。
*21 実際は自城に幽閉しており、ハプスブルク家の全権を握ろうとしていた。
1457年にラジスローが急死するとイジー・ス・ポジェブラトが王として即位したが、ローマ教皇はこれを認めず、1466年12月にパウルス2世はイジーを破門して廃位を通告し、これを受けてハンガリー王のマチアス・コルウヌスがボヘミア王を宣言した。イジーはポーランド王カジミェシュ4世の長男ウラースロー(2世)*22を後継者として、ポーランドの支援を仰いだ。
*22 ラジスロー遺腹王の姉がカジミェシュ4世の王妃で、その子に当たる。
1471年にイジー王が死去し、ヤギョヴォ家のウラースロー2世がボヘミア王となったが、1490年にハンガリー王となるとハンガリーに移り、1526年の「モハーチの戦い」でラヨシュ2世が戦死するまで、ボヘミアは貴族に任された状態でカトリックとウトラキストの協定が維持されていた。
この後、ボヘミア国王はハプスブルク家のフェルナンド1世となるが、ボヘミアではフス派の流れでプロテスタントが広まり、対抗宗教改革のハプスブルク家との緊張が続いた後、30年戦争における第二次プラハ窓外投擲事件から白山の戦い(1620年)の敗北でプロテスタントの指導者は追放され、ボヘミアはカトリックとハプスブルク家が支配する国となった。
余裕が出来たボヘミアでは各派の宗教論争が再発し、煽動家ヤン・シュフラフスキが逮捕され処刑され、シュフラフスキを支持していた下層市民が暴動を起こしてプラハは内戦状態が続いた。
このような混乱を避けるためと援軍を受けるために、ボヘミア王位をポーランド=リトアニアに打診したが、ポーランド王ヨガイラはカトリック聖職者に配慮し断り、リトアニア大公ヴィタウタス(ヨガイラの従兄弟)*15は受け入れたがリトアニアを離れず、1422年にヨガイラの甥(弟の子)ジギマンタス・カリブタイチスが摂政として派遣された。
*15 この時点では、両国は同君連合ではなかった。小さな巨人リトアニア 参照
ジギマンタスは各派を調停し、穏健派はジギマンタスを受け入れたが、共和制指向のタボル派やオレブ派などの急進派は認めず、統治権を確立できないまま、1423年にポーランドとジギスムントの間に協定が結ばれ、ジギマンタスはリトアニアに呼び戻され再び内乱が再開した。ヤン・ジシュカは聖職者の影響力の強いタボル派から分離しオレブ派に合流したが、タボル派との友好関係は維持して穏健派との抗争に勝利してフス派の総司令官となった。1424年6月にはポーランドの意図に反してジギマンタスがボヘミアに戻っている。1424年10月にヤン・ジシュカはモラヴィア遠征中に亡くなり、大プロコプ(アンドレアス・プロコプ)がタボル派と孤児*16(オレブ)派の司令官となり、ジギマンタスが最高司令官となった。
*16 ヤン・ジシュカの死後、オレブ派は父を亡くした孤児のようだと嘆き、孤児派と呼ばれるようになった。
1426年〜27年の第4回反フス派十字軍はドイツ諸侯が中心で、イングランドのヘンリー・ボフォート枢機卿が教皇特使として参加したが、大プロコプが率いるフス派軍にタチョフの戦いで敗れて撤退した。
フス派は当初は十字軍の温床であるドイツを叩く方針で、「華麗なる遠征」と称する略奪遠征を始めたと思われるが、やがて略奪自体を目的として周辺の国を侵攻して回った。ドイツでは諸侯の領邦の割拠が仇となり統一的な抵抗ができず、ハンガリーはオスマン軍への対処で手が回らない状態だった。
カトリックとの和睦の動きは穏健派を中心に常に存在し、ジギマンタスがジギスムントと密かに交渉を進めていたが、1427年に急進派に漏れて逮捕されている。しかし、「華麗なる遠征」で被害を受けている周辺諸侯・都市からも和平が働きかけられ、1431年のバーゼル公会議で和睦が話し合われることになった。
教皇は最後の試みとして第5回反フス派十字軍を呼びかけ*17、ブランデンブルク侯やチェザリーニ枢機卿が率いたが失敗に終わり*18、バーゼル公会議における教皇の権威を低下させることになった。
*17 余談であるが、1430年3月にジャンヌ・ダルクがフス派討伐軍への参加の意向を示して挑戦状をフス派に送っている。その後、ブルゴーニュ軍に捕らえられなければ、第5回反フス派十字軍に参加していたかもしれず、後世に残るジャンヌの印象は随分、異なっていただろう。
*18 十字軍はフス派と対峙し、その賛美歌を聞いただけで怯えて逃げ出したと言われる。一般将兵には、どちらの教義が正しいとの確たる信念はなく、勝っている方を神が支持していると感じるのである。
1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで行進して祝ったのが最後の栄光となった。
バーゼルでの和平交渉が進むと、和平を望むウトラキスト派と武力による解決を図るタボル派との対立は激しくなり、ウトラキスト派はカトリック派と手を結びタボル派を攻撃し、1434年5月の「リパニの戦い」でタボル派、孤児派は決定的敗北を喫し、大プロコプ、小プロコプの指導者が戦死して壊滅した。1436年にウトラキストを中心とするフス派は、ジギスムントをボヘミア王として認め、ボヘミアにおける自分達の教義の維持*19を条件としてカトリックに復帰した。
*19 主にプラハ4箇条で示された内容。
これでフス戦争は終わったように書かれるが、対立は終わっておらず、1437年にジギスムントが死去し、教皇エウゲウス4世はバーゼル会議から主導権を奪いつつあった。ジギスムントの女婿としてボヘミア王になったハプスブルク家のアルブレヒトはボヘミアを統治しようとしたが、フス派の反撃に会い果たせず、1439年に死去し、後継者のラジスロー遺腹王は生まれたばかりで、ボヘミアはフス派とローマ派*20で二分された。1448年にフス派のイジー・ス・ポジェブラトが主導権を握り、1451年に幼年のラジスローの後見人*21で神聖ローマ皇帝となっていたフリードリヒ3世からボヘミアの摂政として承認された。
*20 一応、フス派もカトリックに復帰しているため、正統派カトリックとしてローマ教皇に従う人々を指す。
*21 実際は自城に幽閉しており、ハプスブルク家の全権を握ろうとしていた。
1457年にラジスローが急死するとイジー・ス・ポジェブラトが王として即位したが、ローマ教皇はこれを認めず、1466年12月にパウルス2世はイジーを破門して廃位を通告し、これを受けてハンガリー王のマチアス・コルウヌスがボヘミア王を宣言した。イジーはポーランド王カジミェシュ4世の長男ウラースロー(2世)*22を後継者として、ポーランドの支援を仰いだ。
*22 ラジスロー遺腹王の姉がカジミェシュ4世の王妃で、その子に当たる。
1471年にイジー王が死去し、ヤギョヴォ家のウラースロー2世がボヘミア王となったが、1490年にハンガリー王となるとハンガリーに移り、1526年の「モハーチの戦い」でラヨシュ2世が戦死するまで、ボヘミアは貴族に任された状態でカトリックとウトラキストの協定が維持されていた。
この後、ボヘミア国王はハプスブルク家のフェルナンド1世となるが、ボヘミアではフス派の流れでプロテスタントが広まり、対抗宗教改革のハプスブルク家との緊張が続いた後、30年戦争における第二次プラハ窓外投擲事件から白山の戦い(1620年)の敗北でプロテスタントの指導者は追放され、ボヘミアはカトリックとハプスブルク家が支配する国となった。
フス戦争(3) - ワゴン戦術
フス派の強さの原因となったのが、火器・クロスボウと組み合わせたワゴン(戦車)戦術である。
軍事的天才ヤン・ジシュカが工夫したワゴン戦術は、フス派の特性やボヘミアの地形、当時の最新技術を考慮したもので極めて合理的であり、ヤン・ジシュカの死後もフス派が無敵を誇ったことが、この戦術の効果を証明している。敵として体験したハンガリーでは、後にフニャディやマチアスが採用して高い戦果を得ている。
フス派の特性として、女性を含む民衆レベルの参加があり、諸国から大軍を集めた十字軍に対して数で対抗することが可能であり、また、その革命的、宗教的性格は、士気が高く、勇猛な戦いが期待できる。その一方で、まともに対戦すれば、軍事的素人の寄せ集めの烏合の衆で簡単に騎士隊に蹴散らされる可能性は高く、革命的、宗教的性格は神頼みの無鉄砲な攻撃に繋がり易い。しかし、このような庶民兵でも都市の城壁防衛なら役に立つのである。
歩兵が騎士に勝つ方法は、既にイングランドのロングボウが14世紀半ばに確立しており、また15世紀初頭のスイス歩兵が規律ある集団戦術により騎士に打ち勝つようになっていたが*23、前者はロングボウを操るための長期間の訓練が必要であり、後者は山岳地で鍛えられた体力と密接なコミュニティにおける協力関係に支えられていた。
*23 騎士と歩兵 参照
ボヘミアのフス派は、市民、農民、女性を含む寄せ集めであり、少々訓練した程度では、とてもロングボウに習熟したり、集団歩兵戦術を身につけることはできない。
そこで素人でも扱い易く、重装の騎士に対して離れて攻撃できる火器・クロスボウを採用したが、これらは射撃間隔が長いという欠点があり、その間の防御のために、鉄板や厚い板で側面を補強し、銃眼を空け、車輪にも鉄の輪をつけた大型のワゴン(戦車)*24の中に隠れ、ハルバート(長槍斧)兵*25とフレイル(連接棍棒)兵*26で防衛するのである。
*24 大型の荷車を改造しただけの粗末なものだが、大量に用意でき実用的だった。
*25 突く、叩くの両用に使える歩兵武器で、スイス歩兵も使用したが、ボヘミアでは主に馬の脚を払ったり、騎士を引っ掛けて落すために用いた。
*26 これは脱穀に使う農具を改造したもので、農民が使い慣れており、騎士の甲冑を通して衝撃を与える効果があった。
標準的なワゴンは、10-20人で構成され、2人の重装の御者、2人のハンドガン、6人のクロスボウ、4人のフレイル、4人のハルバート、2人の大盾持ちから構成される(20人の場合)。戦術単位は10台で、戦線は50〜100台のワゴンから形成される。
このワゴンの車輪同士を鎖で連結するか、並べて大盾を隙間に配置するかして、円形や方形の陣を組み、(時間があれば)周りに溝を掘り、中に軽騎兵、歩兵部隊、及び非戦闘員、馬、荷駄を置いて野戦陣地・臨時要塞とするのである*27。
*27 当時の絵は遠近感が無く分かり辛く、このページの模型が分かり易い。
携帯火器は2種類あり、1つは口径2インチで、長さ4-5フィートの細長い「笛」と呼ばれたハンドガン、もう1つは口径8-12インチでずんぐりとした全長の短い臼砲(ハンドキャノン)で手で運べるがワゴンに取り付けて使用し、取り付けるワゴンは振動に耐えるように補強されていた。他にも様々なサイズの砲がワゴンに設置され移動砲台のように使用された。ワゴンには小石を積んでおり、弾や矢が切れた際の投擲用にすると共に、重しとしてワゴンを安定させ敵にひっくり返され難くしている。
火器の利用が注目されがちだが、当時の火器の威力はクロスボウとそう変わらず、その音で騎士の馬を驚かせる効果や散弾の利用などの為に使用されており、飛び道具の主力はクロスボウだった。
基本戦術は、前述の方形陣を組んで敵の攻撃を待ち受け、騎士の突撃に対して、火器・クロスボウの射撃で打撃を与え、それに耐えて接近してきた敵に対しては、ワゴンで半身を防護されたハルバート兵とフレイル兵で追い払い、敵の被害が増えて混乱が生じると、ワゴン方陣の内側に待機していた歩兵部隊が飛び出して騎士を馬から落とし、軽騎兵は側面に回り込んで攻撃を加えた。フス派は当時の慣習と異なり、騎士を捕虜にせずに屠殺したため怖れられた*28。
*28 もっともスイス兵も同じで、歩兵は騎士道に従う必要はなかった。
この防御陣形が基本形であるが、状況によってはワゴンに馬を付けて移動させ、敵の部隊の一部をワゴンで包囲して殲滅する作戦が取られることもあったが、走りながら攻撃するといった後のタンク(戦車)のような使い方はしなかった*29。
*29 馬は馬鎧を着けず無防備のため攻撃されると脆く、あくまで移動用だった。
このワゴン戦術は、後にハンガリーの他、ポーランド、ドイツ、オスマン帝国などでも採用された。西欧に広まらなかったのは、平坦な地形でなければ利用できないためであるが、既にスイス歩兵などの歩兵戦術は各国でも研究されており、ハルバートやパイクを使用する規律ある歩兵隊の育成*30が始まっていたため、隠れながら敵を撃つという、およそ騎士道と正反対の戦法の採用が嫌われたせいもあるだろう。
*30 歩兵戦術は基本的に騎士道に反するが、それでも白兵戦を主とするスイス歩兵方式の方が抵抗が少なかった。
軍事的天才ヤン・ジシュカが工夫したワゴン戦術は、フス派の特性やボヘミアの地形、当時の最新技術を考慮したもので極めて合理的であり、ヤン・ジシュカの死後もフス派が無敵を誇ったことが、この戦術の効果を証明している。敵として体験したハンガリーでは、後にフニャディやマチアスが採用して高い戦果を得ている。
フス派の特性として、女性を含む民衆レベルの参加があり、諸国から大軍を集めた十字軍に対して数で対抗することが可能であり、また、その革命的、宗教的性格は、士気が高く、勇猛な戦いが期待できる。その一方で、まともに対戦すれば、軍事的素人の寄せ集めの烏合の衆で簡単に騎士隊に蹴散らされる可能性は高く、革命的、宗教的性格は神頼みの無鉄砲な攻撃に繋がり易い。しかし、このような庶民兵でも都市の城壁防衛なら役に立つのである。
歩兵が騎士に勝つ方法は、既にイングランドのロングボウが14世紀半ばに確立しており、また15世紀初頭のスイス歩兵が規律ある集団戦術により騎士に打ち勝つようになっていたが*23、前者はロングボウを操るための長期間の訓練が必要であり、後者は山岳地で鍛えられた体力と密接なコミュニティにおける協力関係に支えられていた。
*23 騎士と歩兵 参照
ボヘミアのフス派は、市民、農民、女性を含む寄せ集めであり、少々訓練した程度では、とてもロングボウに習熟したり、集団歩兵戦術を身につけることはできない。
そこで素人でも扱い易く、重装の騎士に対して離れて攻撃できる火器・クロスボウを採用したが、これらは射撃間隔が長いという欠点があり、その間の防御のために、鉄板や厚い板で側面を補強し、銃眼を空け、車輪にも鉄の輪をつけた大型のワゴン(戦車)*24の中に隠れ、ハルバート(長槍斧)兵*25とフレイル(連接棍棒)兵*26で防衛するのである。
*24 大型の荷車を改造しただけの粗末なものだが、大量に用意でき実用的だった。
*25 突く、叩くの両用に使える歩兵武器で、スイス歩兵も使用したが、ボヘミアでは主に馬の脚を払ったり、騎士を引っ掛けて落すために用いた。
*26 これは脱穀に使う農具を改造したもので、農民が使い慣れており、騎士の甲冑を通して衝撃を与える効果があった。
標準的なワゴンは、10-20人で構成され、2人の重装の御者、2人のハンドガン、6人のクロスボウ、4人のフレイル、4人のハルバート、2人の大盾持ちから構成される(20人の場合)。戦術単位は10台で、戦線は50〜100台のワゴンから形成される。
このワゴンの車輪同士を鎖で連結するか、並べて大盾を隙間に配置するかして、円形や方形の陣を組み、(時間があれば)周りに溝を掘り、中に軽騎兵、歩兵部隊、及び非戦闘員、馬、荷駄を置いて野戦陣地・臨時要塞とするのである*27。
*27 当時の絵は遠近感が無く分かり辛く、このページの模型が分かり易い。
携帯火器は2種類あり、1つは口径2インチで、長さ4-5フィートの細長い「笛」と呼ばれたハンドガン、もう1つは口径8-12インチでずんぐりとした全長の短い臼砲(ハンドキャノン)で手で運べるがワゴンに取り付けて使用し、取り付けるワゴンは振動に耐えるように補強されていた。他にも様々なサイズの砲がワゴンに設置され移動砲台のように使用された。ワゴンには小石を積んでおり、弾や矢が切れた際の投擲用にすると共に、重しとしてワゴンを安定させ敵にひっくり返され難くしている。
火器の利用が注目されがちだが、当時の火器の威力はクロスボウとそう変わらず、その音で騎士の馬を驚かせる効果や散弾の利用などの為に使用されており、飛び道具の主力はクロスボウだった。
基本戦術は、前述の方形陣を組んで敵の攻撃を待ち受け、騎士の突撃に対して、火器・クロスボウの射撃で打撃を与え、それに耐えて接近してきた敵に対しては、ワゴンで半身を防護されたハルバート兵とフレイル兵で追い払い、敵の被害が増えて混乱が生じると、ワゴン方陣の内側に待機していた歩兵部隊が飛び出して騎士を馬から落とし、軽騎兵は側面に回り込んで攻撃を加えた。フス派は当時の慣習と異なり、騎士を捕虜にせずに屠殺したため怖れられた*28。
*28 もっともスイス兵も同じで、歩兵は騎士道に従う必要はなかった。
この防御陣形が基本形であるが、状況によってはワゴンに馬を付けて移動させ、敵の部隊の一部をワゴンで包囲して殲滅する作戦が取られることもあったが、走りながら攻撃するといった後のタンク(戦車)のような使い方はしなかった*29。
*29 馬は馬鎧を着けず無防備のため攻撃されると脆く、あくまで移動用だった。
このワゴン戦術は、後にハンガリーの他、ポーランド、ドイツ、オスマン帝国などでも採用された。西欧に広まらなかったのは、平坦な地形でなければ利用できないためであるが、既にスイス歩兵などの歩兵戦術は各国でも研究されており、ハルバートやパイクを使用する規律ある歩兵隊の育成*30が始まっていたため、隠れながら敵を撃つという、およそ騎士道と正反対の戦法の採用が嫌われたせいもあるだろう。
*30 歩兵戦術は基本的に騎士道に反するが、それでも白兵戦を主とするスイス歩兵方式の方が抵抗が少なかった。