チューダー - 逆玉の王朝

チューダー家の台頭はオーエン・チューダーが前ヘンリー5世妃キャサリンと秘密結婚し、息子のエドマンド、ジャスパーが誕生したことから始まる。

オーエン・チューダーはウェールズ大公家/デハイバーズ王家の末裔とされるが、これは日本の源平橘が天皇の子孫なのと同じように、ウェールズの豪族はほとんどウェールズ公家の末裔であるため特筆するようなことではない。

オーエンの父のメレディス・アップ・チューダーの代まで、ウェールズの中堅豪族としていくらかの所領を有しており、リチャード2世の廃位*1とランカスター朝の成立の混乱に乗じてウェールズでオワイン・グリンドゥール*2が反乱を起こした際に、その従兄弟(母同士が姉妹)であったため一族を挙げて腹心として反乱に参加した。

*1 リチャード2世はウェールズを重視して保護策を取っていたため、ランカスター朝の政策変更に強い不満が生じた。
*2 オワイン・グリンドゥールの反乱の直接の理由はイングランド人領主との揉め事であるが、その反乱が一気に広がったのはウェールズに満ちていた不満が原因である。

反乱はフランスの支援を得て、オワインは一時期ウェールズの大半を支配下に収めてウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を名乗ったが、やがて劣勢になるとチューダー一族もイングランド軍に降伏し、命は助けられたが所領の大部分を没収されてしまい、メレディス・アップ・チューダーは遠戚を頼ってロンドンに住んだが、その際に息子をオーエン・アップ・メレディス*3ではなく、イングランド風にオーエン・チューダーと呼ばせたことから、家名がチューダーと見なされるようになった。

*3 ウェールズではまだ家名はなく、父親の名前をアップの後に付けて呼ばれるのが普通だった。

オーエン・チューダーはイングランド宮廷に仕えて、1415年のアジャンクールの戦いにも参加して、スクワイア(郷士)となりイングランド人としての権利も与えられ、1422年のヘンリー5世の死後にキャサリン前王妃の納戸役人となった。

2人が関係を持ったのが何時頃かは明らかではないが、1429年頃に最初の子*4が生まれており、また1428年に議会でキャサリンの再婚を禁じる法案*5が通って、当初、希望していたサマセット公ジョン・ボフォートとの再婚が不可能となっているため、1428-1429頃に秘密結婚したと推測できる。

*4 修道院で生まれて、そのまま修道士となっている。
*5 正確には再婚には成人した王の許可が必要と定めたものだが、この時点でヘンリー6世は6歳だったため、後9年間、再婚することを禁じられたことになる。

彼等の結婚の正統性には若干、疑問*6があるが、エドマンドとジャスパーの兄弟はそれぞれリッチモンド伯とペンブローク伯を与えられ、国王ヘンリー6世の異父弟として公認され、フランスの王位継承権*7を持つ者として上級貴族の仲間入りをした。

*6 記録が残っていないこと、再婚が議会で禁止されていること、及び2人の身分差のため。ドイツならば貴賎結婚と見なされるだろう。
*7 イングランドにおいてはヘンリー6世がフランス王であり、王太子エドワードが生まれるまでは、その継承権がエドマンドとジャスパーの兄弟にあったとも考えられる。むろん、フランスにおいては論外の話であり、またイングランドにおいても公式にはエドワード3世のフランス王位継承権を受け継いでいるとしており、後のヨーク朝もフランス王位を主張していた。

さらにエドマンドがジョン・ボフォートの娘マーガレットと結婚したことにより、彼等の子のヘンリー・チューダーは怪しげながらランカスター系の王位継承権を得ることになる。

1455年の時点では、ヘンリー6世の子のエドワード王太子が存在し、ジョン・ボフォートの弟エドマンド・ボフォートやその子ヘンリーなどもおり、またランカスター家ではその正統性のために男系継承を基本としていたため*8、王位継承権は特に意識されず、結婚は単に薔薇戦争を控えてランカスター派の有力者同士の結びつきを深めるためのものだっただろう。

*8 女系継承を認めるとランカスター朝よりモーティマ家とそれを継承したヨーク家が正統ということになる(薔薇戦争参照)。

しかし、同年から始まった薔薇戦争はランカスター系の男系継承者を失わせ、ヘンリー・チューダーがランカスター系の王位継承権の最上位に来ることになった。

ヘンリー・チューダーが生まれたのは1457年で、父エドマンドが薔薇戦争の中で捕虜のまま死去した3ヵ月後で、叔父のペンブローク伯ジャスパーと母マーガレット・ボフォートの後見を受けたが、1461年にヨーク朝のエドワード4世が即位しジャスパーが追放されると、代わってペンブローク伯となったウイリアム・ハーバートの元で1469年まで過ごした。1470年のウオーリック伯リチャード・ネヴィルの反乱時にジャスパーと共に復位したヘンリー6世の元に馳せ参じたが、エドワード4世が復位するとブルターニュに逃れ、1485年まで亡命生活を送ることになる。

この間、母のマーガレット・ボフォートはヨーク派のスタッフォードやスタンレーと再婚*9していたが、エドワード4世が死去しリチャード3世がエドワード5世から王位を簒奪すると、エドワード4世妃だったエリザベス・ウッドヴィルと図って、エドワード4世の長女エリザベスをヘンリー・チューダーと婚約させたため、ヘンリー・チューダーはリチャード3世の対抗馬として浮上することになった。

*9 中世欧州の女性は子供が産める年齢であれば、夫の死後に再婚することが多かった。

1485年のボスワースの戦いではマーガレットの夫であるトーマス・スタンレーが寝返ったことにより、継子であるヘンリー・チューダーに勝利を与え、さらにトーマスが戦場でリチャード3世の王冠を見つけてヘンリーに臨時の戴冠をさせたという伝承がある。

イングランド王によって無一文にされたウェールズからの亡命者が、前イングランド王妃のフランス王女と秘密結婚し、その子がランカスター朝系だが王位継承権が無かったボフォート家の娘と結婚し、薔薇戦争で多くの王位継承権者が殺された上にヨーク朝の内紛の結果として、孫がイングランド王にまで成り上がったのは何やら皮肉である。人間万事塞翁が馬ということか。

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