ルーシの歴史 - 入門編

東欧の歴史を簡単に見てみると東欧のメインプレーヤはスラブ人で、これに触媒として機能したのが西からのドイツ騎士団と東からのモンゴルであり、さらに忘れられがちであるが、リトアニアは重要なプレーヤーであった。

10-11世紀は多神教徒への比較的平和的な布教活動が行われた時期*1で、北欧のノルト人(ヴァイキング)、ボヘミア、ポーランド、ハンガリーなどがカトリックに、ルーシーはギリシア正教*2に改宗している*3。

*1 というより武力的に優位な多神教徒を教化することにより手懐けようという意図だが
*2 東西教会大分裂以前は、カトリックとギリシア正教の表記は適切でないかもしれないが、便宜上こう表記する。
*3 彼らが改宗したのは、日本における仏教伝来のように、宗教的に感化されたというより、その付随する文明を欲したのである。特に一神教は異教徒には厳しいため、交流したければ改宗する必要があった。

ルーシーはヴァイキングのリューリク*4がスラブ人の要請によりノブゴロドの君主となり、その後、その一族がキエフを中心に勢力を広げ、分割相続により多くの公国が作られ、キエフ大公*5の下で緩やかなまとまりを持ってキエフ大公国やキエフ・ルーシと呼ばれた。

*4 半伝説的な人物だが、リューリク朝が当初はヴァイキングの言語・文化だったのが、その後、スラブ民族に同化したことはほぼ間違いない。
*5 大公の称号は西欧での呼び方で、現地語では上王とか王の中の王という意味だった。

11世紀半ばまでは、バルト海-黒海ルートの交易路を経由して毛皮や蜜蝋、蜂蜜*6やあるいは東方からの産物を東ローマ帝国と交易して栄えたが、十字軍の始まりにより新たに中東 - イタリアが東西交易の中心となり、通商ルートの重要性が減少し、その上、一族間の争いの中でキエフ大公の権威は低下し、ノブゴロド、ウラジミル・スズダリ、ハルーチ・ボルーニに力が移るようになった。

*6 そして奴隷も重要な輸出品だった。

分裂していたルーシに最終的に止めを刺したのが、1237年からのモンゴルの欧州侵攻とそれに続くタタールの軛だった。

ノブゴロドは直接的にはモンゴルの被害を受けず通商の中心地として繁栄したが、スカンジナビア諸国やドイツ騎士団が北方十字軍の名目で侵入してくるのに悩まされることになった。

ここで最初にロシア/ルーシの英雄として名前の出てくるのがアレクサンドル・ネフスキーなのだが、かなり怪しくもある。1240年のネヴァ河畔の戦いや1242年の氷上の戦いで大勝利し、スエーデンやドイツ騎士団/リヴァニア騎士団を撃退した英雄とのことだが、その信憑性*7もさることながら、1238年に伯父のウラジミル・スズダリ公(ウラジミル大公)がモンゴルの攻撃により家族ごと皆殺しされた時に何をしていたのか疑問が残る。

*7 信頼できる史料が少なく、その戦いの規模や存在自体に不明瞭な点がある。

伯父家族の壊滅により彼の父ヤロスラフ(2世)がウラジミル大公となり、彼自身、親モンゴル派として反モンゴルの態度を取った弟アンドレイを追放して、キプチャク汗国に臣従している*8。彼の行動は、ごく普通の武勇と政略に優れた君主として、自分の直接の敵を破り、強い者に臣従してライバルを倒しているだけで、特に民族的英雄の要素はない*9。彼がロシア史で英雄視されるのは、ロシアの母体であるモスクワ公国の初代ダニールが彼の末子であるためだろう。

*8 氷上の戦いではモンゴルの援軍を受けているとの説もある。
*9 というか、民族主義はこの時代にはなく、後世に作られた概念である。

ダニールの子孫のモスクワ公は、同じくネフスキーの子孫であるトヴェリ公とウラジミル大公位を争うが、どちらかと言えばトヴェリ公が反タタールで、モスクワ公がタタールと組んでトヴェリを討伐させて、タタールへの貢納金の徴税責任者*10として大公位を確保してルーシー支配を進めている。

*10 イヴァン1世はタタールの財布と仇名されている。

モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイが1380年にタタールの実力者ママイを破った「クリコボの戦い」もその後、タタールを統一したトクタミシュに屈服して元の木阿弥になっており、特筆すべきことかの疑問が残る。

この時代のタタールは既にかってのモンゴル帝国、キプチャク汗国の驚異的強さを誇る存在ではなく、1359年にウズベク・ハンの孫ベルディベク・ハンが亡くなって後は、タタールは分裂の時代となり、リトアニアやポーランドと争う諸勢力の1つに過ぎず*11、実際、「クリコボの戦」いもリトアニア大公ヨガイラとタタールのママイの同盟に対して、モスクワ大公を中心としたルーシー連合とリトアニアのアンドリュなどが戦ったもので、モスクワ大公国が有力勢力の域に達しつつあることを示しただけである。

*11 1362年「青水の戦い」でリトアニアはタタールに勝利している。

民族主義的歴史観では、「タタールの軛」は野蛮で後進的なモンゴルに支配された抑圧と屈辱の歴史として認識されているため、その相殺のために、モスクワ公の一族に民族的英雄を必要としたのだろう。

モンゴルの間接支配は「タタールの軛」として知られるが、確かに初期はサライに居住するタタールの汗(キプチャク汗)は意のままにルーシーの公を入れ替えることができ、貢納金を払わなかったり、反抗的態度を示せば容赦なく蹂躙したが、14世紀半ば以降は、貢納金さえ払っていれば干渉を受けることは無く、貢納金を払って不戦状態を享受するか、払わずに戦争するかの選択権はルーシー(モスクワ)側に存在するようになっていた。

モスクワ大公国はビザンティン帝国が1453年にオスマン帝国に滅ぼされた後には、その後継者としてツアーリ(皇帝)を称して既に列強となっており、15世紀末までモスクワ大公国(ツアーリ国)がタタールのサライ政権に貢納金を払い続けたのは、その損得を勘定してのことで、貢納金は保険のようなものに過ぎない。

教科書的には、タタールの軛からの解放は、1480年の「ウグラ河畔の対峙」の後ということになっているが、これはモスクワがタタールに貢納金を払う必要がないと判断して止めたのに対して、サライ政権が有効な報復ができないことを示したものである。サライ政権はこの後、ライバルのクリミア政権に滅ぼされるが、これもポーランド=リトアニアやモスクワが絡んだ結果である。

モスクワ大公国は、ルーシーを代表する国としてロシアと呼ばれるようになり、モンゴル勢力を征服して東に勢力を伸ばすが、西はポーランド=リトアニア、南はオスマン帝国に阻まれて、大帝国となるのは17世紀の終わりのピョートル大帝の頃からである。

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