ビザンティン帝国の逆襲

ビザンティン帝国の逆襲(1) - アレクシオス1世

ビザンティン帝国は衰退しました。

ビザンティン帝国がゆるやかな衰退を迎えて、はや数世紀。すでにアナトリアは「セルジューク・トルコさん」のものだったりします。

と書きたかったのだが、ビザンティン帝国の長い歴史は、「ローマ帝国衰亡史」*1のタイトルから想像するような緩やかな衰退ではなく、急激な衰退と緩やかな復興の繰り返しであり、ササン朝べルシア、イスラム帝国、第一ブルガリア帝国の脅威を受けながらも、その度に跳ね返してきたのである。

マケドニア朝のバレイオシス2世の時に第一ブルガリア帝国を滅ぼして最盛期を迎えたが、その死(1025年)以降の帝国は、凡庸な皇帝、宮廷内陰謀、内乱、国家システムの疲弊などの内憂と外患により衰える一方で、特に1071年にドーカス朝のロマノス4世が「マンジケルトの戦い」でセルジューク・トルコに大敗してからは、東からはトルコがアナトリアに、西からは南イタリアのノルマン人がギリシアに、北からはペチェネグ*2の攻撃により「帝国は息を引き取ろうとしていた」*3。

*1 ギボンが書いたローマ帝国最盛期からビザンティン帝国の衰亡までを記述した歴史書の古典大作。
*2 トルコ系遊牧民の部族連合
*3 アンナ・コムネナの「アレクシオス1世伝」での表現。彼女はアレクシオス1世の娘であるため、若干、それを差し引いて読まねばならない。

1081年に軍事貴族であったコムネノス家のアレクシオス1世が即位した時点では、ビザンティンの軍事力は極めて脆弱であり、ロベール・ジスカール*4やその息子ボエモンらのノルマン勢に戦場では敵わず、マケドニア、テッサロニキを占領された。

*4 南イタリアを征服したノルマン人のオートヴィル一族の長でプーリア公。弟のルッジェーロ(1世)がシチリア王国の祖となる。

そこでアレクシオス1世は外交戦略をフルに活用した。折りしも神聖ローマ帝国では叙任権問題で皇帝ハインリッヒ4世と教皇グレゴリウス7世が対立しており、アレクシオス1世はハインリッヒ4世に資金援助を行い、ローマを攻撃させた*5。グレゴリウス7世は、南イタリアの支配と引き替えに味方に付けていたノルマン勢に救援を求め、ロベール・ジスカールはイタリアに引き返しハインリッヒ4世と戦わねばならなかった。残されたボエモンはアレクシオス1世の攻勢の前に占領地を維持できず、1085年のロベール・ジスカールの死去を受けて撤退した。

*5 資金援助が無くともハインリッヒ4世はいずれローマを攻撃したであろうが、その資金により兵力を整えることができ、絶好のタイミングで攻撃することができた。

次いで、1090年にペチェネグがセルジューク・トルコと呼応してトラキアに侵攻してきたが、アレクシオス1世は東の草原に居住するクマン人と同盟を結び、ペチェネグを挟撃して打ち破ることに成功した。

こうしてバルカン方面に小康を得たアレクシオス1世は、東のセルジューク・トルコに対処することを考えた。セルジューク・トルコは既にアナトリアの大部分を占領しており、中東一帯に版図が広がる大勢力であり、現在のビザンティンには手の余る相手だった。しかし、幸い1092年に宰相ニザーム・ルムルクとスルタンのマリク・シャーが相次いで亡くなり、後継スルタンの短命や継承争いにより分裂し各地で一族や実力者が自立・割拠しており、アナトリア地方もルーム*6・セルジューク朝と呼ばれる地方政権となっていた。

*6 ローマという意味で、トルコ人の東ローマ帝国といった名前である。

そこでアレクシオス1世は西欧から援軍を引き出そうと考えたが、直接、セルジューク朝の脅威を受けていない西欧がすんなり援軍を出すはずはなく、傭兵として多数の兵をまともに雇う金はなく、そこでイスラム教徒による聖地巡礼の妨害や聖墳墓の破壊*7を訴え、東西教会の再合同をチラつかせて、キリスト教徒の大義としてイスラム教徒との戦いをローマ教皇*8に呼びかけたのである。

*7 いずれも11世紀の初頭の遠い昔に起きた出来事であり、近年のことではなかった。
*8 先年は自分の都合で教皇への攻撃を神聖ローマ皇帝に依頼しているのである。こういう所が、陰謀、裏切りをもってビザンティン的と言われる由縁だろう。

このアレクシオス1世の行動には賛否がある。これまで、ハンガリーや南イタリアのノルマン人としか利害が衝突していなかった西欧人を東方に引き入れて長い対立を引き起こし、やがて第4回十字軍による滅亡を招いたと言う点と、何はともあれ、西欧の力を利用してアナトリアの多くの部分を回復し、イスラム勢力によるビザンティンへの脅威を長期間に渡り軽減させたという点である。

ビザンティン帝国の逆襲(2) - 十字軍

ところがローマ教皇ウルバヌス2世も一筋縄では行かない相手だった。この要請を利用して、1095年に神聖ローマ皇帝の力を抑え、ローマ教皇の権威を高めることを意図して、聖地エルサレム奪還を目指す一大遠征軍 - つまり十字軍を呼びかけたのである。

アレクシオス1世は援軍を期待していただけに、流民の群である民衆十字軍の到着には困惑し、コンスタンティノープルには入れず、早々にアナトリアに送り出している。

また、諸侯十字軍の中に、つい先日までギリシアで戦っていたボエモン率いるノルマン勢がいたことに驚いたとも言われるが、これによりギリシアへの攻撃が無くなった訳で、警戒しながらも、案外、彼等が来ることを期待していたのかもしれない。

マキャベリは「援軍は、これを招いた側に必ず災難を及ぼす。なぜなら、負ければ貴方は滅び、勝てば貴方はその虜になるからである。」と述べるが、アレクシオス1世もそれを承知の上で、背に腹は替えられず、一応、対策は取ったのである。

アレクシオス1世は十字軍諸侯に臣従(オマージュ)を要求し、占領した土地のビザンティンへの引渡しを誓わせた。これは前述の危険を予防しようとした訳だが、対等な同盟者と思っていた十字軍諸侯は憤慨し、裏切られたとすら感じる者も多かったが、ビザンティンの案内や補給・支援は不可欠だったため止むを得ず誓ったが、心中では承服していなかったようだ。

十字軍諸侯にとっては、ビザンティン軍が少数の道案内に付いただけで共には戦わず、十字軍に戦わせて、その後にビザンティン軍の主力がやってきて都市や領土を占領することに不満であり、特にルーム・セルジューク朝の首都ニカイアの占領をビザンティンが横取りしたことは裏切りとすら感じられた。

アンティオキア攻防戦における劣勢の中で案内役のビザンティン部隊が引き上げたことが決定打となり、以降、十字軍はビザンティンに頼らず独自行動を取り、ボエモンはアンティオキアを自分の所領にしてアンティオキア公国を建ててしまった。ブローニュのボードウィンもエデッサ伯領を建て、エルサレム占領後はカトリックのエルサレム王国が創設され、ギリシア正教の大主教は追放されている*9。

*9 トリポリ伯領はボエモンの牽制のために、レーモン・サンジルがアレクシオス1世の承認を受けて建てたものである。

ビザンティン側からすれば、これらの行動は破誓であり、言ってみれば泥棒退治の協力を頼んだら取り戻した盗品を私有されたようなものである。この後のビザンティン皇帝は、これらの土地の回復を目指すことになる。

十字軍側は、キリスト教の大義のために聖地を維持しイスラム教徒と戦うのが目的であり、十分な支援を行わず、時にはイスラム教徒と同盟するビザンティンに不信感を持っていたが、ビザンティン側にすれば、イスラム教徒の討滅など不可能で、その時々の情勢に応じて遠交近攻を用いるのは当然のことであり、見境なく戦争を吹っかける十字軍は厄介な存在だった。

アンティオキア公国を建てたボエモンはダニシュメント朝*10との戦いで捕虜となったが、その甥タンクレートはしばしばビザンティン領に侵攻した。ボエモンはエデッサ伯ボードウィンが身代金を支払って解放され、共にアレッポやルーム朝と戦ったが敗北したため、ヨーロッパに一旦、戻り、フランス王フィリップ1世の娘と結婚して資金と兵を集め、今度はビザンティンに侵攻してきた。アレクシオス1世はベネチアの協力を得て防衛に成功し、1108年にアンティオキア公国に宗主権を認めさせた。

*10 セルジューク朝の一族がアナトリア東北部に建てた国で、ルーム朝とも敵対関係にあった。

国内での抜本的対策としては、官僚と市民兵・傭兵からなる帝国のシステムを西欧の封建制にも似た軍事貴族の連合体に替え*11、軍事貴族同士が皇帝を中心に婚姻関係を結び皇帝を支えるシステムに変え、軍事力を整え、財政を再建した。

*11 プロノイア制の端緒でもあるが、これが広く適用されたのはマヌエル1世以降である。

さらに、ほとんど消滅していた海軍力を補うために、ベネチアに交易上の特権を与える代わりに海軍力を提供させた。これにより交易は盛んになったが、ベネチア、ジェノヴァなどのイタリア海運都市が利益を独占したため、地元の商人の憤慨を買うことになり、後のベネチア人の追放やラテン人の虐殺に繋がった。

数々の外敵や陰謀・反乱と内憂外患にありながら、良くこれを抑えて領土を拡張したため、1117年にアレクシオス1世が亡くなった時には、帝国は一応の安定を取り戻していた。

ビザンティン帝国の逆襲(3) - ヨハネス2世

息子のヨハネス(2世)は以前から後継者と定められていたが、有力な対抗者として姉のアンナ・コムネナ*12とその夫ニケフォロス・ブリュエンニオスがおり、父の死後、ほとんどクーデター同然に帝位に就いた。その後、アンナと母エイレーネが陰謀を企んだとされるが、ブリュエンニオスは加わらずヨハネス2世を支え続けた。アンナは父の伝記を書き始め、後に歴史家として知られるようになる。

*12 ヨハネス2世が誕生するまでは、アンナが後継者とされており、母のエイレーネの支持も得ていた。この頃の帝位継承は女性を中心にその夫が皇帝となるパターンが多く、アレクシオス1世自身、ドゥーカス朝の一員のエイレーネ・ドゥーカイナを妻とすることで皇帝となっている。

ヨハネス2世の役割は新王朝の二代目で、父の改革を安定させると共に十字軍諸国への対処が中心となった。初代、三代目と比べると地味で、詳しい伝記もないが名君と評価されることも多い。

*13 新興の家は最初の三代で決まる。初代が蛮勇を振るって創業・拡大し、二代目が安定させ、三代目が飛躍させる。上手くいけば長期的に続き、いかなければ「売り家と唐様で書く三代目」になる。

即位して早々に、ベネチアとの対立が生じ、ヨハネス2世はベネチア人の特権を剥奪して追放したが、ベネチア海軍の反撃を受け、これを撤回しなければならなかった。この経験が、ビザンティン海軍の復興とマヌエル1世によるベネチア人の追放に繋がったと思われる。

次いでルーム・セルジューク朝を破り、1122年にはペネチェクを滅亡させトラキアを領土に加えた。

ヨハネス2世の妻はハンガリー王女ピロシュカで、王位争いに破れた王族アールモシュ*14が亡命してきたため、しばしばハンガリー王イシュトヴァーン2世と争った。その中でハンガリーと同盟したセルビアを屈服させ、改めて宗主権を認めさせた。1129年にアールモシュが死去しハンガリーと講和した。

*14 兄カールマーンにより息子のベーラ(2世)と共に盲目にさせれている。イシュトヴァーン2世はカールマーンの子。後に、ベーラはハンガリー王ベーラ2世(盲目王)となっている。

次いでトルコの1派であるアナトリア北東部のダニシュメント朝と戦って、1140年までに黒海南岸地域を回復している。

また、1137年からキリキア・アルメニア(小アルメニア)に侵攻し、これを一旦、滅亡させた*15。これにより十字軍国家までの道が開け、アンティオキア公国のレーモン・ド・ポワチエ*16、エデッサ伯ジョスリン、トリポリ伯レーモン2世に臣従を誓わせた。これらを率いてアレッポ攻略を目指したが、十字軍諸侯の利害は一致せず*17、やがて南イタリアのノルマン人の動きが不穏になり、大きな成果を挙げられずに引き上げることになった。

*15 まもなく生き残った息子トロス(2世)が再興しているが、ビザンティンに臣従している。
*16 アキテーヌ公の弟でアンティオキア女公と結婚した。アリエノール・ダキテーヌの叔父。
*17 アレッポを奪取した場合、それと交換にアンティオキアをビザンティンに引き渡すことを取り決めていたが、アンティオキア公は内心は不満だった。

1142年には、十字軍国家を糾合してシリア平定を目論んだが、エルサレム王フルク*18はビザンティンへの臣従を要求されることを恐れて難を示したため実現しなかった。レーモン・ド・ポワチエにアンティオキアを引き渡すよう要求し、従わない場合は攻撃すると宣言したが、1143年に狩猟中に毒矢が刺さり、まもなく死亡した*19。

*18 前アンジュー伯でエルサレム女王と結婚した。アンジュー帝国ヘンリー2世の祖父。
*19 親西欧である息子マヌエルを支持するラテン人による暗殺との説もある。

彼は派手さはないが、無理を避け着実に国力の充実と領土の拡大を両立させた。その結果、北はセルビア、トラキアまで広げ、ほぼビザンティンの最大限まで拡大し、東は内陸部を残してアナトリアの北岸、南岸を支配下に収め、十字軍国家を宗主下に入れ、ビザンティン帝国の威光を回復した。また、神聖ローマ帝国皇帝ロタールとの同盟により南イタリアのノルマン人を牽制して、ギリシアへの侵攻を防いでいる。

彼の代で、ビザンティン帝国は東ローマ帝国の名に相応しく復活したと言って良い。

ビザンティン帝国の逆襲(4) - イタリア遠征

マヌエル1世は4男だったが既に長兄2人は死去しており、死の床にいたヨハネス2世は色々問題のあった兄のイサキオスを差しおいて*20、弟のマヌエルを後継者に指名したとされるが、看取ったのはマヌエルであり、彼は迅速にコンスタンティノープルに戻り、イサキオスを拘束させ、即位した。2人の器量の差は明らかであり、以前から予想されていたため大きな混乱はなく、イサキオスも間もなく釈放された。

*20 イサキオスの子が、後に帝位を簒奪するアンドロニコス1世で、コムネノス朝最後の皇帝となった。

マヌエル1世はドイツのシュルツバッハ伯の娘ベルタを妻としており、早くから西欧の文化に親しみ、馬上槍試合を好むなど親西欧の武勇自慢であり、彼は欧州の東西においてビザンティン帝国の威光を取り戻すことに生涯をかけることになる。

1145年にモスルの太守ザンギーによってエデッサ伯領が奪われ、西欧からフランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世の第2回十字軍がやってきたのが、マヌエル1世の試金石となった。

今度は2回目であり、ビザンティン側も軍勢を整えて待ち構え十字軍に付き添ったため大きな混乱は起こらなかったが、既に土地に馴染んでいるレバントの十字軍国家の将兵とは違い、新来の十字軍士はビザンティン人にとっては野蛮なフランク人であり、何かと揉め事が絶えなかった。しかし、共通の敵であるシチリア王ルッジェーロ2世*21に対抗するために、コンラート3世とは同盟を結び関係は改善した。第2回十字軍自体は、1147年にダマスカスを攻めて失敗し、何の成果もなく終わっている。

*21 南イタリアのノルマン人は、ルッジェーロ2世により統一されてシチリア王国となり、神聖ローマ帝国、ビザンティン帝国の大きな脅威となっていた。

1147年にシチリア王ルッジェーロ2世がコルフ島を奪い、テーベ、コリントスなどを襲ったが、ドイツ王コンラート3世との同盟によりこれを牽制しながら、ベネチアの援助でシチリア艦隊を打ち破りコルフ島を奪回した。コンラート3世と共闘でシチリア征服も計画したが、1152年のコンラートの死により実現しなかった。

1154年にルッジェーロ2世が死去しグリエルモ1世が即位すると、シチリアとプーリヤで大規模な反乱が発生し、これを好機と見て、ミカエル・パレオロゴスとヨハネス・ドーカス*22を多額の金と共にイタリアに派遣した。同時期に南イタリアに遠征していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサとの共闘はならなかったが、反乱貴族の協力と金による買収により、南イタリアの征服は速やかに進み、バーリを始めとした主要地域を制圧した。

*22 どちらもコムネノス朝を支える有力な軍事貴族の一門

成功に気を良くしたマヌエル1世はローマ帝国の復活を夢見るようになり、東西教会合同をローマ教皇ハドリアヌス4世に持ちかけた。教皇としても東西教会合同は念願であり、南イタリアの支配は野蛮なノルマン人より陰険なビザンティン人の方がマシと考えて同盟が成立した。

しかし、まもなくミカエル・パレオロゴスと地元の貴族との軋轢が目立つようになり、パレオロゴスは解任され遠征軍の勢いは停まった。グリエルモ1世が海陸で本格的な反撃を開始すると、傭兵部隊は退去し始め、これを見て地元の貴族達も旗色を変え出したため、ビザンティン勢は数的に劣勢となった。ブリンディシュの戦いで敗れ、ヨハネス・ドーカスらの指揮官が捕虜となり、1158年までに全ての占領地を放棄しての撤退を余儀なくされた。イタリアには一定の影響力を残し、シチリア勢のギリシア遠征を阻むという効果はあったが、12トンとも言われる巨額の金を費やした割には些細な成果であり、金と外交の限界を示したといえる。

また東西教会合同も最初から無理な話だった。ローマ教皇は聖俗両面における最高権威であるという主張を東にも適用しようと考えていたが、ビザンティン皇帝は東西における世俗の最高権威として、東におけるコンスタンティノープル総主教との関係を西においてローマ教皇に適用しようと考えており、両者の考えは遠く隔たっていた。また神聖ローマ皇帝やコンスタンティノープル総主教の同意が得られる可能性も少なかった。

ビザンティン帝国の逆襲(5) - マヌエル1世

一方、アンティオキア公国では1149年にレーモン・ド・ポワチエがヌレディンに捕らえられた後に処刑され*23、第2回十字軍で到来したルノー・ド・シャティヨンが女公コンスタンスと結婚して公となるが、彼はキプロスを徹底的に略奪して廻ったため、マヌエル1世の怒りを買うことになった。

*23 ルイ7世に援助を請うたが得られず、第2回十字軍の失敗により情勢が一層悪化した。

まず1158年に、キプロスの略奪に加わったキリキアのトロス2世を大軍をもって攻めて屈服させたが、これを見たルノーは、その悪行からエルサレム王国の支援も得られず、敵わないと見て、首に処刑用の綱をつけてマヌエルの前に出頭して許しを請うた。最初は無視して許さなかったマヌエルだが、根負けして封臣となることを条件として許した*24。ルノーとエルサレム王を連れてシリアに侵攻したが、ヌレディンがキリスト教徒の捕虜6000人を釈放したのを受けて引き上げている。ルノーは1160年にヌレディンに捕われ、以降16年に渡り捕囚生活を送る*25。マヌエルは1161年にレーモン・ド・ポワチエの娘マリア*26と結婚し、アンティオキアへの影響力を維持している。

*24 ルノーは物笑いの種になりながらも公位を保った。マヌエルは育ちの良さや騎士道かぶれから残虐になれなかったのだろう。
*25 マヌエルにより釈放された後に暴れまわってエルサレム王国滅亡の原因となる。余談だが、彼の女系の孫がハンガリーで最悪の王とも言われるエンドレ2世である。
*26 マヌエルの死後、幼い息子アレクシオス3世の摂政となるが、その親西欧政策は反感を呼び、暴動とアンドロニコス(1世)による簒奪、そしてコムネノス朝の滅亡に繋がった。

ハンガリーのゲーザ2世は母方の親族のセルビアと同盟して、しばしばクロアチア、ダルマチアなどを巡ってビザンティンと争い、マヌエルはゲーザ2世の弟ラースロー(2世)とイシュトヴァーン(4世)を支援した。1162年にゲーザ2世が死去し、長男のイシュトヴァーン3世が即位したが、ラースロー2世もハンガリー貴族の支持を受けて*27即位し、その死後にはイシュトヴァーン4世が即位した。

*27 ハンガリーは一種の大兄制を取っており、王の長子より年長の弟の方が優先される伝統だったが、西欧化が進むにつれ、直系相続を望む者が増え、叔父・甥の継承争いは定常化していた。

1164年にイシュトヴァーン3世は弟のベーラ(3世)をビザンティンに送り、嫡男のいないマヌエルは娘と婚約させ、アレクシオスの名を与え専制公に任じ推定相続人とした。その後も、ベーラの相続領の引渡しを巡ってハンガリーとの争いは続いたが、1167年のジモニーの戦いに勝利し、クロアチア、ダルマチア、ボスニアを獲得し*28、さらにハンガリーに宗主権を認めさせた。1169年にマヌエルの妻マリアに息子アレクシオス(2世)が生まれため、ベーラは推定相続人から外れたが、マリアの妹アニエス*29と結婚して良好な関係を持続し、1172年に兄イシュトヴァーン3世が嫡男なく亡くなるとハンガリー王位を継いだ。

*28 本来はベーラの名義で獲得したのだが、ベーラが推定相続人でなくなった後もビザンティン領として保持した。ベーラ3世はマヌエル1世の死後にそれらを取り返している。
*29 ルノー・ド・シャティヨンとアンティオキア女公コンスタンスの娘。マリアは異父姉。

1167年にエルサレム王アモーリを兄の孫であるマリア・コムネナと結婚させ同盟を結び、1169年から合同で20隻の軍船、150隻のガレー船、60隻の輸送船からなる大艦隊をファティマ朝エジプトに派遣した。しかし両者の協力は不十分でダミエッタを攻略できず、エジプトはヌレディンが派遣したサラディンの手に落ちた。しかしエルサレム王国との同盟は維持され、聖地への影響力もある程度は維持された。

しかしベネチアとは対立し、1171年にビザンティン領内のベネチア人20,000人の逮捕と財産没収を命じ、その関係は一挙に悪化した。ベネチアは報復を企てたが、疫病の流行と復興したビザンティン海軍に阻まれている。神聖ローマ皇帝バルバロッサの北イタリアの戦いでは、マヌエルはロンバルディア都市同盟に資金援助をしており、1176年のレニャーノの戦いでロンバルディア側が勝利を収めたため、北イタリアにおけるビザンティンの影響力は強まった。

各地の戦いは必ずしも成功とは言えなかったが、ビザンティンの影響力は拡大しており、その国際的地位は時代のメインプレイヤーであり、覇者*30の名が相応しいかもしれない。

*30 中国の春秋戦国時代における盟主という意味の覇者。

ビザンティン帝国の逆襲(6) - 日はまた落ちる

ここにおいてマヌエル1世は宿敵ルーム・セルジューク朝を壊滅することを企図し、1176年に30,000人の大軍を擁して、ルーム朝の首都イコニウム(コンヤ)に迫った。ルーム側はビザンティンに有利な講和を持ちかけたが、大軍に自信を持つマヌエルはこれを拒否し進撃を続けた。しかし、峡谷の狭い隘路でルーム側の奇襲を受け、攻城兵器や物資を失って撤退を余儀なくされた(ミュリオケファロンの戦い)。

実際の被害はアンティオキア公国の部隊と物資の喪失であり、ビザンティン軍の本隊が壊滅的打撃を受けたわけではないが、この敗戦は100年前のマンジケルトの戦いに匹敵する影響をマヌエルとビザンティン帝国に与えた。強国として復活したかと思われていた帝国の権威は失墜し、西欧ではビザンティン皇帝からギリシア王に格下げになったと陰口を叩かれた。これ以降、マヌエルは体調を崩し1180年に亡くなっている。

彼はビザンティン帝国に栄光をもたらし、臣民や兵に愛され、西欧からも畏敬され、大帝と呼ばれることもあるが、相次ぐ戦争により国内は疲弊しており、彼の死後の急激なビザンティンの衰退の原因ともなっている。

跡を継いだアレクシオス2世は12歳と未成年であり、母マリアが摂政となった。アンティオキア公女だったマリアは親ラテン政策を引き継いだが、マヌエルの時に抑えられていたビザンティンの反ラテン感情が吹き出し、1182年の首都の蜂起に乗じて従兄弟のアンドロニコス(1世)が亡命先から帰還して実権を奪い、帝国内のラテン人80,000人の大虐殺を行った。マリアや一族・重臣の多くを処刑し共同皇帝となり、1183年にはアレクシオス2世も殺害して単独の帝位に就いた。

ハンガリーからはベーラ3世が侵攻しクロアチア、ボスニア、ダルマチアを取り返し、ルーム・セルジューク朝はアナトリアに侵攻し、1185年にはシチリア王国のグリエルモ2世が大軍を率いてエピロスに上陸して、テッサロニキに侵攻した。これに対してアンドロニコス1世が出陣したが、大量の皇族・貴族の処刑に警戒心を抱いたイサキオス(2世)・アンゲロスが首都で反乱を起こし帝位に就き、アンドロニコス1世は捕らえられて民衆の手で虐殺され、家族達も皆殺しにあったという。

アンゲロス朝を開いたイサキオス2世は即位すると間もなくグリエルモ2世に勝利してシチリア勢を追い払うことに成功し、またハンガリー王女マルギトと結婚してハンガリーと和解した。しかし、相次ぐ戦争で税負担が増えたことによりブルガリアで反乱が起き、第2ブルガリア帝国が独立する。各地で反乱が相次ぎ、第3回十字軍時にはサラディンと同盟しようとして、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの攻撃を受けた。第3回十字軍後はルーム朝がアナトリアの多くを奪回している。

1195年までブルガリアの拡大は続き、その遠征準備中に兄のアレクシオス(3世)が帝位を奪い、イサキオス2世は盲目にされ幽閉された。アレクシオス3世も第2ブルガリア帝国の侵攻に対して為す術がなく、自らの政権を維持するのに精一杯で、国庫は破産状態で使える兵も装備も録に無いという悲惨な状況に陥っていた。

イサキオス2世の子アレクシオス(4世)は当初は伯父に従っていたが、やがて姉婿のドイツ王フィリップの元に亡命し、彼の帝位奪回計画が第4回十字軍と結びつき、1204年のコンスタンティノープルの陥落とビザンティン帝国の滅亡に繋がっていく。

ニカイア帝国による再興後も、ビザンティンが帝国の名に相応しい威光を取り戻すことはなく、コンスタンティノープル周辺を保持する地方政権として命脈を保つも、1453年にオスマン帝国により地上から永遠に消滅することになる。

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