検地と言えば、日本では太閤検地、ヨーロッパでは中世初の包括的な検地帳であるイングランドのドームズディ・ブックが有名である。豊臣秀吉は天下統一の後に、ウィリアム征服王はノルマン・コンクエストからイングランドが安定した後に検地を実施しており、権力者が自分の征服地を詳細に知りたいのは洋の東西を問わないようだ。
本来、封建制では各領地は領主に委託されており、それを詳細に調べるというのは領主の特権の侵害に近い*1。封主と封臣が封建関係を結んだ時点で、軍役が定められているはずで、その後、封臣が工夫により土地の収益を増加しても、それは封主には関係のないことのはずなのだ*2。
*1 従って、新たに征服した後でないとできない。
*2 荘園領主と農奴の関係は違い、農奴の収穫量は領主にはガラス張りである。
封臣の義務は基本的には軍役だけで、何かある時に援助を求められたのが*3、14世紀頃から封建制の衰退と共にそれらが定常化して恒久的な税に変わっていくが、11世紀においては、封臣から君主への金の流れは限定されたものだった。
*3 主君の身代金、跡継ぎの結婚、騎士叙任、その他、戦争時の物資の供出など。
しかし、イングランドではデーン人への貢納金のためにデーン・ゲルドという土地税を課しており、デーン人の脅威が少なくなってからも、デーン人の襲撃からの防衛の為として依然として土地税が課されていたため、ウィリアム征服王は封建制を導入したにも係わらず、直接、土地から税を得られるのである。
これが11世紀に、おそらく中世初の大規模な検地をウィリアム征服王が実施した動機である。
ウィリアム征服王は1066年にイングランドを征服しているが、検地を開始したのは1085年で翌年の1086年に完了している。ウィリアム征服王は1087年に亡くなっており、まるで検地完了に満足して、この世を去ったように見えるが、死因は戦争中の病死であり、別にこの世に思い残すことが無くなったからではないようだ。
ドームズディ(Domesday)という語は「最後の審判(Doomsday)」から来ており、生前の全ての善行と悪行を審査するように、全ての所有物を明らかにする、あるいは、最終決定であり変更は無いという意味で12世紀頃から呼ばれたもので、それまでは単にザ・ブック(本)やロール(巻物)と呼ばれていたようだ。スペルが違うのは歴史的文書のため、中期英語の表記がそのまま使われているからである*4。
*4 domeは家を表し、家レベルで調査したからという説もあるが、違うようだ。
最初にノフォーク、サフォーク、エセックス地域で詳細な検地が行なわれており、これらは小検地帳(Little Domesday)と呼ばれている*5。これがテストケースとなり、この精度で全国を検地するのは無理だと判断して、より簡略化した検地をいくつかの地域*6を除いた全土に行った結果が大検地帳(Great Domesday)である。
*5 家畜の数まで記載されており、1件当たりの記述量は大きいが、範囲が少ないためボリュームは小さい。
*6 征服王の統治が未だ行き届いてない場所、古来からの権利を持つ司教/教会領、都市などで、これらも後に個別に検地されている。
記載された内容は、1066年(ノルマン・コンクエスト以前)、1086年(調査時)における荘園領主名、直接受封者名(諸侯:Tenant-in-chief)*7、課税土地の広さ*8、領主の収入、戸数*9、農耕地*10、その他の資産*11、家畜数*12で、アングロ・サクソン年代記では、「1ハイドも1ヤードの土地も(言うも恥ずかしいが、彼(征服王)はちっとも恥ずかしいことではないと思っている)、1匹の雄牛も牝牛も豚も検地帳に記載されないものはなかった。」と述べている*13。
*7 王から直接に封土を受ける諸侯/バロンで、荘園領主に貸与して封建関係を結ぶ。もちろん、バロンがそのまま荘園領主のこともある。
*8 geld unit=課税土地単位で表され、たぶん面積単位ハイド(hide)に相当する。ハイドは大雑把に言えば、大家族が生活できる広さの農地だが、地域によって面積は異なる。
*9 自由農民、非自由農民/農奴、零細農奴、奴隷に別けて記載されている。
*10 8頭の牛から構成される鋤で耕せる面積を単位としている。
*11 粉挽き、漁場、森林、牧草地など
*12 小検地帳のみ、牝牛、羊、豚、山羊、馬など。
*13 小検地帳の時に書かれたのだろう。
ドームズディ・ブックにより当時のイングランドの状況が色々に分析されている。
イングランド全ての土地のうち、17%が王と王族、26%が司教/大修道院長、54%がバロン(直接受封者:190人)が所有しており、土地の割合は農耕地が35%、牧草地が25%、森林が15%、その他*14が25%である。
*14 住居、荒地、沼地、荒廃しているなど、この時点で利用不能/困難な土地。
農民は次の4つの階層*15に分類されている。
12% 自由農民(freeholders)、35% 非自由農民/農奴(serfs or villeins)、30% 零細農奴(cotters and bordars)、9% 無土地労働者/奴隷(slaves)
結構、自由農民が多いが、デーンロウ地域とウェールズ辺境地域(マーチ)にデーン人やウェールズ人の自営農が残存しているためで、全土に均一に分布している訳ではない。villeinは農民人口の中で最も多くを占めており、零細農民は地域により色々な呼び方があり実態も様々だが、耕作する土地が少なくvilleinより下に扱われている。
*15 日本で言えば、それぞれ郷士、本百姓、水呑百姓、下人に近いが、下手に例えると却って誤解を生むかもしれない。
荘園には領主の直轄地と農奴の耕作地があり、農奴は労役として直轄地を耕す義務があった。一番、分かり易いのは、畝毎に農奴耕作地と直轄地が交互になっている形式で*16、農奴は自分が収穫できる土地の倍の面積を耕すことになる*17。直轄地が少ない場合は、農奴の耕作地の収穫の何割かを年貢として要求されるだろう。
*16 農奴は直轄地での労働の手を抜きたがるため、区別できないようにしている。しかし、分かれていると農繁期には直轄地の労働が優先されるため、農奴にとってもこの方式の方が好ましかっただろう。
*17 日本だと農民は自分の収穫の半分とかを領主に年貢として差し出す訳だが、欧州の荘園は最初から分かれている。
・自由農民は労役がなく、上級領主の裁判を受けるなどの権利がある。所有する土地面積は必ずしも農奴より大きくはないが、労役が無いため同じ大きさの土地なら生活は楽である。実際は弓兵などとして軍役に就くことも多く、郷士のイメージに近い。
・非自由農民/農奴は普通の村人で、大家族が生活できる広さの農地(平均30エーカー)を持っており*18、自由農民より広い土地を持つ者もいた。有力者は荘園管理人に抜擢または選出されたりし、裕福な者は領主から自由を買い戻して自由農民になることもあった。
・零細農奴は、小屋に住み、小家族が何とか暮らせる小さな土地(5エーカー以下)を持っており、足りない分は労働者として他人の土地を耕して生きていた。当初は農奴の次男以下が成ることが多かったようだ。
・奴隷は土地を持たず、領主の召使や農業労働者として働いたが、カトリックの浸透と共に奴隷の名称はなくなり、土地を持たない召使や農業労働者となった。
*18 農奴は土地を所有しておらず、あくまで耕すことを認められているだけであるが、実際には慣習的な権利はあった。
ドームズディブックは、中世を通して基本台帳として使用されると共に、土地の所有権争いの裁判で引用され、近世以降も時折、参照されることがあった。現在では貴重な史料として11世紀イングランドの経済、社会を調べる上で宝の山と言って良く、封建制の実態や当時の地理、人口の推定に用いられ、郷土史家にとっては当時の居住地域や地形の様子を調べたり、家系を推定するのに用いることができ非常に重要である。
現在だとオープン・ドームズディブックというオープンソース・プロジェクトで検索でき、英語ではあるが実物を見てみると興味深いだろう。