中欧三国志

中欧三国志(1)

三国志といってもおマヌケ三義兄弟や天才軍師が活躍する話ではなく、中世における中欧三国、ボヘミア、ハンガリー、ポーランドの物語である。これらの3つの国はカトリック圏ではあるが、西欧主流のゲルマン、ラテン系ではなく、無視されがちなスラブ系とマジャール人の国であり、また後者の2国はカトリック圏の最果てであるため、カトリック域外との交流があり、外部からの侵入を真っ先に受けるという特徴がある。

この三国は中世終期(14~15世紀)に共通の王を擁するなど、相互に深い関連を持っており、これらに、ドイツの皇帝家であるルクセンブルク家とハプスブルク家も絡んで複雑な相互関係を示すことになる。

ボヘミアはスラブ系チェック人の国であり、かってはスロバキアなども含めて大モラビア王国*1を作っていたが、マジャール人が東方から侵入してきた際に滅ばされ、その一部がボヘミア(チェコ)で国家を作り、神聖ローマ帝国に臣従して部族大公となり、後に神聖ローマ帝国内でありながら王国に昇格しており、選帝侯でもあった。

*1 統合性を持った王国だったのか、緩やかな部族連合だったのか、その規模も含めて実態ははっきりしない。

ハンガリーは、かってヨーロッパ中を荒らしまわった中央アジア出身の遊牧民族マジャール人がパンノニア平原に定住し、キリスト教(カトリック)に改宗して建てた国で、現在のスロバキア、ルーマニア、クロアチア、北セルビアなどを領有する中欧の大国であり、ビザンティン帝国と接して、しばしば争うが深い関係も有していた。

ポーランドはスラブ系ポール人の国で、キリスト教に改宗して王号を受けたが、1138年、ボレスワフ3世の時に王国は分割相続され、その後、求心力を失い、各公国が割拠して、実質、王のいない状態が続いていた。

これらの三国はいずれも当初はその民族の王家であるプシェミスル家、アールパード家、ピャスト家が世襲していた。

第1の波が押し寄せたのは、1240年のモンゴルの侵入である。これによりポーランドは当時最有力の公でポーランド王を目指していたシロンスク公が敗死し、一層、求心力を失い、ボヘミアに近い領主たちはボヘミア王に依存するようになった。ハンガリーでは国内は荒廃し、人口は減少し、侵入を食い止められなかった王権の権威が低下した。再度の侵入に備えて、国中に城塞を築いたため、大領主の力が一層増大して割拠化を促すことになり、それに対抗するため王がクマン族やドイツ人などの移民を推進したため、さらに王と貴族層の対立が激しくなった。一方、ボヘミア王は分遣隊とはいえ、侵入してきたモンゴルの1隊を破って、その権威を高めており、ポーランドとハンガリーへの影響力を強めていた。

第2の波は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がローマ教皇と激しく対立し、結果として、ホーヘンシュタウフェン家は滅亡し、1250年以降、神聖ローマ帝国に実効支配する皇帝がいなくなったことである。

中欧三国志(2)

ボヘミア王オトカル2世(大王)は、男系の絶えたオーストリアを所有下に入れ、婚姻などでポーランドのかなりの部分、そしてハンガリーの一部を含めた大勢力となり、さらに神聖ローマ皇帝位も目指したが、1278年にハプスブルク家のルドルフ皇帝に破れて戦死し、オーストリアも奪われている。

一方、ハンガリーでは、1290年にクマン人優遇に怒った貴族にクマン人を母に持つ国王ラースロー4世が暗殺され、直系男子が断絶した。これに応じて女系のナポリ・アンジュー家のカルロ・マルテルとボヘミア王ヴァーツラフ2世(オトカル2世の子)が継承に名乗りを上げた。ベネチアで生まれ育った傍系のエンドレ3世*2が王位を継いだが、当初から安定しておらず、ライバルたちが虎視眈々と王位を狙っている状態で1301年に死去し、アールパード朝は断絶した。

*2 エンドレ2世の死後に生まれた男子が認知されず、ベネチアに移ってモロシーニ家の娘と結婚しており、その息子がエンドレ3世である。

ポーランドでは、1295年に216年ぶりにピャスト家のプシェミスウ2世が王位に就くが、わずか1年で男子がないまま、暗殺された。

ボヘミア王ヴァーツラフ2世は、父王敗死後のボヘミアを立て直し、ポーランドとの関係を強めていたが、プシェミスウ2世暗殺後、ローマ教皇などの支持を得て、ピャスト家のヴワディスワフ1世を差しおいてポーランド王位に就いた。さらに、ハンガリー王エンドレ3世が男子継承者なしで亡くなると、息子のヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させたが、ナポリ・アンジュー家のカーロイ・ロベルトを押す勢力も強く、北部を実効支配するのみだった。ともあれ、ここにボヘミア、ハンガリー、ポーランドは同一王家の下に入る。しかし、1305年にヴァーツラフ2世が亡くなると、ヴァーツラフ3世はハンガリー王位を放棄して、ポーランドに入ったが暗殺され、プシェミスル家は断絶した。

ハンガリーではカーロイ・ロベルトがカーロイ1世として王位を確保し、ポーランドでは、混乱の後、1320年にピャスト家のヴワディスワフ1世が念願の王に就いた。ボヘミアではハプスブルク家などの何人かの女婿が争った後、当時の皇帝家であるルクセンブルク家ハインリヒ7世の息子ヨハン(盲目王)が王位に就き、以降、ルクセンブルク家の牙城となった。

1333年にカジミェシュ3世が父の跡を継いでポーランド王となり、内政に力を注ぎ名君と呼ばれたが、男子がおらず、1370年に女系のスウプスク公カジミェシュ4世とハンガリー王ラヨシュ1世とで分割相続を遺言したが、ポーランド貴族の支持により、ラヨシュ1世(カーロイ1世の子)がポーランド王を兼ねることになった。

ラヨシュ1世(大王)は、ナポリ王国の王位も主張し、ハンガリー南部でも勢力を拡大し、大王と呼ばれたが、男子継承者がなく、1382年に亡くなると、ハンガリーは長女のマーリアがその夫、ルクセンブルク家のジギスムント(神聖ローマ皇帝カール4世の次男)と共に継承し、ポーランド王国は次女のヤドヴィガがリトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)と共に継承した*3。

*3 本来はどちらもマーリアが継ぐはずだったが、ポーランド貴族達はハンガリーとは別の君主を望み、かつ強力な隣国であるリトアニアとの連合を望んだ。

中欧三国志(3)

ハンガリーでは、ナポリ・アンジュー家のカルロ3世がハンガリー王位を主張したが、マーリアの母に暗殺された。ジギスムント王は、兄のボヘミア王ヴェンツェルが神聖ローマ皇帝を廃位された後に神聖ローマ皇帝となり、1414年にコンスタンツ公会議で西方教会大分裂を終了させたが、1396年のニコポリス十字軍での大敗やボヘミアのフスの処刑などにより、その評判は芳しくなく、1419年のヴェンツェルの死後にボヘミア王位も継いだが、ボヘミアではフス派の反乱(フス戦争)が発生した。

マーリアとの間には子がなく*4、その後に結婚したバルバラとの間には、娘のエリザベトのみ*5であり、エリザベトはハプスブルク家のアルブレヒトと結婚し、ジギスムントが1437年に死去した際にボヘミア、ハンガリーを継承したが、1439年にアルブレヒトは急死した。

*4 ここで、ハンガリー王家の血統が途絶えたことになるが、バルバラはハンガリー王イシュトーヴァン5世の血統を受け継いでいる。
*5 ルクセンブルク家の男系もここで断絶した。

この時点でエリザベトは妊娠しており、アルブレヒトの死後に生まれたラジスローは、オーストリア公(在位:1440年 - 1457年)、ハンガリー王(在位:1444年 - 1457年)、ボヘミア王(在位:1453年 - 1457年)を継承し、ドイツ王/神聖ローマ皇帝にもなるはずだったが、死後に生まれた子供が相続人の場合、混乱の元となる。

第1にその子がいなければ相続人だった者が夢を見てしまう。その子が流産、死産したり、あるいはオーストリア公、ドイツ王/神聖ローマ皇帝のように男子限定継承の場合、女子であれば自分たちが相続できると夢を見た者たちにとって現実との落差は絶え難いものになり、現実を夢に合わせようと陰謀を企むことになる。第2に、成人して統治に携わるまで最低でも15年はかかり、その期間中、誰かが実質上の国王の権力を振るうことになるため、実力者が相争うことになり易い。第3に幼児死亡率が非常に高いため、陰謀による毒殺、暗殺を含めると無事に成人する可能性は半分くらいと言って過言ではなく、常に不安定要素を抱えることになる。

オスマン・トルコの脅威を感じていたハンガリー貴族はエリザベトと赤子のラジスローの統治に不安を持ち、ポーランド王ヴワディスワフ3世*6とエリザベトが結婚して統治することを提案したが、エリザベトはこれを拒否し、ヴワディスワフ3世との間で内戦を続けたが、2年後に死去した。

*6 ヴワディスワフ2世の子だが、ヤドヴィガの子ではない。こちらもポーランド王家の血統が途絶え、リトアニア系の血統になっている。

幼児のラジスローは分家のフリードリヒ(3世)に預けられたが、実質上、監禁され、フリードリヒ3世が神聖ローマ皇帝となり、オーストリアを支配した。また、ボヘミアはフス戦争により王不在の状態が続いていた。

1444年11月にヴァルナ十字軍*7でヴワディスワフ3世が戦死し、ラジスローが王位に就いたが、ヤノシュ・フニャディが摂政としてハンガリーを統治しており、またボヘミアではフス派のイジー・ス・ポジェブラトが摂政を務めた。

*7 ハンガリー、ポーランド、モルダヴィア、ワラキアなどがオスマン・トルコと戦った。ヴワディスワフ3世は密かに生き延びたが、国に戻ることを恥じて、ポルトガルで隠遁生活を送ったという伝説がある。

1453年にラジスローは解放され、ボヘミア王にも即位するが、ハンガリーでは1456年のヤノシュ・フニャディの死後に混乱が起こり、その長子ラースロー・フニャディも処刑される。

しかし、ラジスローは1457年に急死し、ハンガリーではヤノシュ・フニャディの次男マチアス・コルウスが、ボヘミアではイジー・ス・ポジェブラトがそれぞれ王家の血筋ではないにも係わらず王として選出された。オーストリアはフリードリヒ3世が名実共に支配することになった。

中欧三国志(4)

ハンガリー王マチアス・コルウス(在位:1458年 - 1490年)は野心家であり、オーストリアと戦い、ハプスブルク家のフリードリヒ3世を追放してウイーンを占領し手中に収め、ボヘミアでは当初はイジー・ス・ポジェブラトと協力関係にあったが、その後に対立しボヘミア王を名乗った。

ポーランドではヴワディスワフ3世の死後、弟のカジミェシュ4世(在位:1447年 - 1492年)が即位し、ハプスブルク家のエリザベト(ラジスローの姉)と結婚して、その長子がウラースロー(2世)だった。このため、ボヘミアでは1471年のイジー・ス・ポジェブラトの死後、このウラースロー2世を王に選出した。

マチアス・コルウスは軍事的には非常に成功し、ハンガリー、オーストリア、ボヘミアの大部分を支配しハンガリーの最盛期を作り出したが、嫡出子がいなかった。庶子ヤノシュ・コルウスを後継者に指名していたが、1490年に彼が死去するとハンガリーの大部分はボヘミア王ウラースロー2世を王に迎えた。

これによりこの3国は、ポーランド王家であるヤギェウォ家の支配下に入ったことになる。ポーランドでは1492年にカジミェシュ4世が死去するとウラースロー2世の弟にあたるヤン1世が即位している。この頃のポーランド・リトアニア連合国は、ベラルーシ、ウクライナまで支配下に収めた大国として繁栄していた。

1516年にウラースロー2世が亡くなると息子のラヨシュ2世がハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、1514年のドージャの乱や豪族の割拠で国内はバラバラであり、1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国スレイマン1世(大帝)が率いるオスマン軍に大敗し、ラヨシュ2世は敗死した*8。

*8 あまりのハンガリー軍の脆さに、スレイマン大帝は当初、これは罠で伏兵がいるのではないかとしばらく警戒を解かなかった。

嫡出子はなく、姉アンナとその夫ハプスブルク家のフェルディナント(1世)*9がハンガリーとボヘミアの王位を継ぐが、ハンガリーではトランシルバニア公ヤノシュ・サポヤイがオスマン帝国やハンガリー貴族の支持を受けて王位を称した。中欧の大国ハンガリーは解体され、大部分がオスマン帝国の直接、間接支配下に入り、ハプスブルク家の王領ハンガリーはオーストリアに面したわずかな地域のみで、ハンガリーが回復するのは、1683年の第二次ウィーン包囲後である。

*9 神聖ローマ皇帝、スペイン王カール5世の弟。後のハプスブルク分割で神聖ローマ皇帝、オーストリア大公となる。

ボヘミアも後に宗教戦争の中で、1620年の白山の戦いの後、チェック人貴族が没落し、ドイツ人/ハプスブルク家の支配が強まった。ハンガリーとボヘミアはハプスブルク家の重要な基盤になるが、国際的にはハプスブルク/オーストリア帝国の一部と見なされることになった。

ポーランドではヤギェウォ家が1572年まで続いた後に、男系断絶により選挙王制に移行し、やがてロシア、プロシア、スウェーデンの台頭や国内の混乱により、分割され(ポーランド分割)消失することになる。

近代初頭の地図からこれらの三国の国名は消えており、再び地図に蘇るのは第一次大戦後である*10。

*10 ハンガリーはそれ以前にオーストリア・ハンガリー二重帝国としては復活しているが。

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