東方見聞録 - ちびマルコのハーンを訪ねて三千里

マルコ・ポーロがヨーロッパ人として初めてモンゴル、中国に行ったと思っている人がいるが、言うまでもなく彼の父(ニコロ)と叔父(マフィオ)がその前に行っており、また以前に述べたように何人かの使節が少なくともモンゴルの首都カラコルムまでは行っているのである。

ポーロたちの事蹟は全て、マルコから聞いたとするピサのロマンス作家ルスティケロの「東方見聞録(世界の記述)」によっており、他の信頼できる資料には出てこないのである。まあ、13世紀のことで、複数の資料で確認できる事柄の方が少ないため、これをもって信用できないとも言えないが、1300年と言えば既に東西の交流は相当活発になっており、中東や黒海付近で商売するベネチア、ジェノバ、ピサ人*1ならある程度、中国やモンゴルの情報を得ることは可能だっただろうと思う。

*1 当時、既に下り坂とは言え、イタリアを代表する海運国家である。

そのため、マルコは実際には中国に行っていないという説、そもそもマルコ・ポーロと言う人物はルスティケロの創作、あるいは実在だが名前を借りただけといった説も存在し、それなりに説得力がある。

東方見聞録にざっと目を通した印象では、マルコの人間としての個性や彼自身が体験したと思われるエピソードは出てこず、東洋のルポタージュに徹している。ルスティケロがそういう話を省いたかもしれず、マルコがプライベートな部分の公表を拒んだのかもしれないが、これであれば、元で色目人と呼ばれた、元朝に仕えたことがあるイスラム商人で、その後、フラグのイル汗国のレヴァント方面かキプチャク汗国の黒海方面で活動して、ベネチア商人と知り合った人の話であっても同じものが書けると思う。

東方見聞録によれば、ニコロ・ポーロと弟のマフィオはコンスタンチノープルで商売を行っていたが、1260年頃に黒海付近のベネチア居住地に移住し、さらにキプチャク汗国のサライに行ったところで、キプチャク汗国のベルケ・ハンとイル汗国のフラグの争いが始まり戻れなくなったため、さらに進んで中央アジアのブハラ(ボハラ)で3年滞在していたところ、フラグからフビライへの使節がブハラに到着し、西欧(ラテン)人が居ることに非常に驚き、一緒にきてフビライに面会するよう提案したということだ。

使節一行との同行であれば安全であり、冒険商人としては魅力のある話であるため、彼らは同行し1年をかけて大都(北京)に到着した。フビライは非常に喜び、彼らを歓待し、色々、西欧の事情を質問した後、彼の使いとしてローマ教皇への手紙を預け、帰りにエルサレムの聖油を持ってくるよう依頼して、使者のモンゴル貴族を同行させた。

そのモンゴル貴族が病気で途中の街に残ったため、旅は困難になり、2人は往路以上に時間をかけ、約3年後の1269年にレヴァントのアッコンに到着したが、丁度、ローマ教皇が亡くなったことを知り、一旦、ベネチアに戻ったところ、ニコロの妻は既になくなっており、15歳の息子マルコが残されていた*2。

*2 初めてマルコに会ったように思われ、ひょっとして存在も知らなかったのかもしれない。当時の15歳は成人ではあるが、やはりまだ子供である。

1271年にグレゴリウス10世がローマ教皇に選出され、ニコロ、マフィオ、マルコの3人は教皇に面会し返書を受け取り、教皇の使者である修道士たちと共に、再び、元へと旅だったが、途中で、修道士たちが怖気づき、引き返してしまったため、ニコロら3人で再び3年近い時間をかけて、フビライの夏の都、上都に到達した。

フビライはマルコを気に入り、各地への使者や地誌の調査者として用い、17年間にわたってマルコはモンゴル帝国内の多くの地域を旅行した。ベネチアに戻りたくなった3人は何度も願い出たが、なかなか許しが出なかったが、折よくイル汗国に嫁ぐモンゴルの姫の一行に加わり、1295年にベネチアに戻った。

その後、マルコはベネチアとジェノバの戦争で捕虜になり、やはり捕虜となっていたピサのルスティケロに自分の体験談を話して、1300年頃に「世界の記述」として本となり、各国語に翻訳され評判を呼んだ。

全体として、所々に都合の良い展開など作り物臭さがあり、当時の人が信用しなかったのも無理はないと思う。ルスティケロがロマンス作家らしく誇張や想像を加えたのか、マルコがホラ吹きなのか、世に広まっているダイジェスト版は比較的、信憑性のある話が選ばれているが、チパングにまつわる話や山を動かした話やケレイトのワン・ハンをプレスター・ジョンと呼んでいたりトンデモ話も多いのだ。

驚くべきはマルコよりもむしろニコロたちで、この時代にニコロとマフィオはヨーロッパと中国を2往復しているのである。行きはフラグの使節と共だったため、旅は順調で約1年で着いているが、帰りはモンゴルの使者が病気になり、彼らだけで苦労して3年間かかっている。普通、もう1往復しようと思うだろうか?確かに、ローマ教皇からの返書とエルサレムの聖油をフビライに渡す必要はあるが、それはローマ教皇の使者やイル汗国やキプチャク汗国のしかるべき筋に託せば良いだろうと思う。彼らの間では定期的な通信が存在するし、遊牧民を使ったリレー式なら1ヶ月もかからないだろう。

考えるとすれば、彼らは商人としてあまり成功しておらず、ベネチアに居ても儲からないが、既にコンスタンチノープルでのベネチアの利権は大幅に失われており、以前のように、あてもなくチャンスを求めて中央アジアを彷徨うくらいならフビライの下で歓待された方が良いと考えたのかもしれない。

17年もの間、ニコロとマフィオは何をしてたのだろう?商人として活動したなら、ベネチア商人とも定期的に連絡を取っていても良さそうだが、この2人が何をしていたのかは全く触れられていない。マルコの働きだけで楽に食ってはいけただろうが、ベネチア商人としては少し情けないのではなかろうか?

マルコの役割は公式な使者というよりは、各地の状況の調査であろう。モンゴル人や漢人が調査に来れば現地人は警戒するだろうが、まったく珍しい西欧人であれば、興味の方が先立ち、会話も弾むことだろうと思う。この時代に情報を得るということは情報の交換であるが、マルコの西欧の情報は最高のネタであったろう。ただ、これと全く同じ役割を色目人*3が果たすことはできる。マルコの役割をした人物が色目人であってもおかしくないのである。

色々、謎はあるが、しかし、重要なのは、当時の西欧の上層部やベネチア、ジェノバ商人は、そのような情報を知っていたということであり、東方見聞録はそれを世に知らしめたという点である。商人たちは自分たちの情報をトレードシークレットとしたため、そのような情報が後世に残ることは少ないのだが、マルコは商人というより旅行者・地誌調査者であったため、暇つぶしに同房の者に語り、それがたまたま作家*4であったため世に残ったのであろう。

*3 まあ、当地ではマルコも色目人と呼ばれただろうが、一般的にはテュルク系・イラン系のイスラム教徒のことである。
*4 当時は、字が書ける人、特に本となるくらいの量を書ける人間は珍しかった。

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