ヨーロッパの大きな国

ヨーロッパの大きな国(1)

ヨーロッパでは大きな国といってもたかが知れており、日本より人口の多い国はなく、面積でもフランス、スペインくらいである。しかし、当然ながら、ヨーロッパの歴史の中で大きな役割を果たしており、以下に簡単にその歴史を述べてみる。

フランス

ケルト系のガリア人が住む地域だったが、ローマ帝国に組み込まれ、住民はラテン化した。ローマ帝国の衰退に応じて、フランク族が侵入しフランク王国をたて、カロリング朝で、その版図はドイツ、北イタリアに及ぶが、カール大帝の死後、東、西、中の3つに分割された。西フランク国王がイル・ド・フランスの領主でフランス公だったカペー家に交代するとフランスと呼ばれるようになり、そのカペー家の男系の庶系がバロワ、ブルボンと続き、フランス革命で共和国となり、ナポレオンの帝政や王政復古がありながらも、現在に至る。

ドイツ

ゲルマニアはローマ帝国に組み込まれず、ゲルマン系諸族がそのまま住んでいたが、カール大帝の時にフランク王国に組み込まれ、分割後は東フランク王国となり、ザクセン家が王となると、オットー大帝の時にイタリア、ブルグンドなども組み込んだ神聖ローマ帝国となる。大空位時代、選出皇帝を経て、ハプスブルク家が世襲皇帝となるが、各領邦国家に事実上分裂し、ブランデンブルク選帝侯は東部に勢力を伸ばしプロシア王国を作り上げる。ナポレオンの侵入により神聖ローマ帝国は消滅し、オーストリア帝国、プロシア王国、その他の領邦国家となるが、やがてドイツ統一の機運の中でプロシアがオーストリアを破りドイツ帝国を建てる。第一次大戦で敗れワイマール共和国*1となるが、ヒトラーが台頭し、第二次大戦にも敗れ、かってのプロシア王国部分を失い、東西ドイツに分裂する。しかし、ベルリンの壁が崩れ、再統一したドイツ連邦共和国となる。

*1 国号はドイツのままだが、正式名称がなかったため、便宜上、憲法発布の地により、こう呼ばれることが多い。

イタリア

西ローマ帝国を消滅した後、オドアケルの王国を東ゴート王国が征服するが、ユスチニアヌスに再征服される。北部にゲルマン系のランゴバルド族が侵入し、南部はイスラム教徒のアラブ人が征服する。以降、イタリアの歴史は再統一されるまで、北部と南部に分かれる。

北部
フランク王国がランゴバルド王国を征服する。この時、ローマを中心とする中部イタリアは教皇領となり、以降、再統一まで継続する。フランク王国の分裂後、中フランク王国がさらにネーデルラントを失ってイタリア王国となるが、まもなく神聖ローマ帝国に組み込まれる。皇帝派と教皇派の争いの中で、都市国家が発展し、中でもベネチア、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァなどが有力となり、ルネッサンスが花咲くが、フランス、スペインが争ったイタリア戦争で荒廃する。その後は、トスカナ大公国、ベネチア、諸公国が割拠するが、オーストリアの影響力が強くなり、一方、西部ではサボア家がサルディニア王国となり有力になる。イタリア統一運動ではガルバリディなどの活躍もあったが、サルディニア王国が中心となって南北を統一しイタリア王国となる。ムッソリーニが台頭し、第二次大戦で敗戦国となり、戦後、国民投票により王政を廃止し、共和制となる。

南部
ノルマンディのノルマン人ロベール・ジスカール等のオートヴィル家がシチリア王国を建国する。女系継承により神聖ローマ皇帝のホーエンシュタウフェン家の王国となるが、フランス王族シャルル・ダンジューが征服する。しかしシチリアの晩鐘で、シチリア島にはアラゴン系の王が立ち、シャルルのアンジュー家は半島南部を支配してナポリ王国と呼ばれる。やがて、アラゴン系の王が両方の王となり、その後、一緒になったり、分かれたりし、前者の時は両シチリア王国、後者の時はシチリア王国とナポリ王国と呼ばれた。アラゴン/スペイン王家と同じく、王家はハプスブルク家からブルボン家となり、ガルバリディに征服され統一される。

ヨーロッパの大きな国(2)

イギリス(ブリテン諸島)

正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国で、海外では、通称、連合王国(UK)で、日本では本来、イングランドを指すイギリスが一般的に使用されている。

イングランド

ケルト人の居住地域だったが、ローマ帝国に征服されラテン化する。しかし、ローマ帝国の衰退に伴い、ゲルマン系のアングル、サクソン、ユート人などが侵入、定住し、やがて融合して、アングロ・サクソン人となる。一方、西部にはアイルランドからケルト系が移住し、両者のせめぎ合いの結果、ウェールズはケルト地域として残り、コーンウェルのケルト系は大陸のブルターニュ(小ブリトン)に移住する。9世紀にヴァイキングの侵入も盛んになり、北東部にはデーン人が定住する(デーンロウ)。七王国からデーン人をくい止めたアルフレッド大王の後に統一イングランド王国となるが、クヌート大王の下でデーン人の王国となり、その後アングロ・サクソン王朝に戻るが、ノルマンコンクエストでノルマン王朝が始まり、フランスとの文化的・政治的繋がりが強くなる。特にプランタジネット朝ヘンリー2世は広大な大陸領土を持ち、ジョン王の時に大部分を失うが、百年戦争の終わりまでフランスとの争いと関係は継続した。ブリテン諸島の他の地域に対する影響力も強まり、13世紀後半にウエールズを併合し、スコットランドも併合しかけたが果たせなかった。また、アイルランドは緩やかな宗主下にあった。チューダー朝でアイルランド王を兼ね、スチュアート朝でスコットランドと同君連合となり、ハノーバ朝で連合王国となり、大英帝国と呼ばれる広大な植民地を領有する。第二次大戦後、植民地は独立し、アイルランドは北部を残して独立する。

ウェールズ

アングロ・サクソン人に征服されず、ケルト系が残った地域。ノルマンコンクエスト後、イングランドの宗主下に入りながらも、独立色は強く統一国家も作りかけたが、エドワード1世に征服され、以後イングランド王国の一部(そしてイングランド王太子領)となる。

スコットランド

ローマ帝国に征服されなかった地域で、ピクト人が居住していたが、5世紀以降、アイルランドからケルト系のスコット族が侵入し、やがて融合して、9世紀にアルバ王国、そしてスコットランド王国となる。ノルマンコンクエスト以降、しばしばイングランド王朝の宗主下に入り、イングランドに騒乱があると、それに付け入ってイングランドに侵入するが、イングランド王権が回復すると押し返されることを繰り返す。13世紀末に王家の血統が絶え、一旦、イングランドに併合される。しかし、ロバート1世が独立を回復し、以降、フランスと同盟を組みながらイングランドと対抗し、ブルース朝、スチュアート朝と続き、ジェームズ王の時に女系継承でエリザベス1世死後のイングランド王位を得て同君連合となり、その後、連合王国となり現在に至る。

アイルランド

イングランドはヘンリー2世の頃、アイルランドの宗主権を持ち、以降、イングランド貴族による支配が進むが、彼らもケルト系アイルランド人と融合して、イングランドの完全な支配には反抗した。チューダー朝のヘンリー8世の時にアイルランド王を名乗ったが実効支配は、イギリス革命以降で、ハノーバ朝で連合王国となる。しかし、カトリックが支配的なアイルランドの独立指向は強く、第一次大戦後にアイルランド自由国となり、その後、完全独立するが、プロテスタントの多い北アイルランドは分離して連合王国に残った。

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