ハンザ同盟 - 中世商業ネットワーク

ハンザとは交易商人のギルドであり、当初は状況に応じて個々のハンザが提携や取引を行っていたのだが、やがてリューベック・ハンブルク同盟を中核にしてネットワーク(連盟)を組んだのが、所謂、ハンザ同盟*1である。

*1 軍事同盟を思わせる同盟という言葉より連盟の方が相応しい気がする。

ハンザ同盟を一目で理解するには、この図を見ると早いと思う。要するにバルト海から北海にかけての交易路を防衛・互助し、他者を排除して独占する為の一種のカルテルである。

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この交易路を通じて、東欧から木材、毛皮、樹脂、蜂蜜、穀物、イングランド、フランドルから織物、北欧から鉄、銅、ニシンが運ばれた。

リューベック - ハンブルク同盟の陸路*2が要となり、海賊やデンマーク海軍*3が出没する海峡を通ってユトランド半島を遠回りせずに物品を運べるのである。

加盟都市には内陸部の都市も多いが、ドイツにはライン川を始め河川・運河の水路が多く、直接、船で行ける為で、また、このカルテルに加入しないと交易に参加できないからである。

*2 塩の道と言われ、バルト海で捕れるニシンと内陸部の岩塩を使って塩漬けニシンを生産する為に交通が盛んだった。
*3 歴史的に海軍と海賊は大義名分の有無によるだけで、似たようなものである。

商人ギルドと都市間のネットワークという2つの性格の為に、ハンザ同盟がいつ成立し、いつまで続いたかを明確に言うことは難しい。ハンザという言葉が使用される前から同様の性格のものは存在しており、少なくとも11世紀ごろまで遡れる。

しかし、リューベックが創設されたのが1159年、自由都市になったのが1227年、ハンブルクと同盟したのが1241年で、これ以降、ハンザ同盟らしき物が発達するが、最初のハンザ同盟会議が開かれたのは1356年で、これにより正式な組織となったと言える。15世紀が最盛期とされるが、既に様々な問題が生じており、16世紀から衰退したと書かれるが、これも地域により差があり、ハンザ同盟全体の連帯感は薄れても個別の都市(特に西部)は繁栄している所も多かった。

一般的にはハンザ同盟は13世紀から17世紀とされているようである。

ハンザ同盟は都市同盟のような政治・軍事同盟ではなく商業カルテルで、軍事力は商業ネットワークの自由や特権を守る為にのみ使われた事に注意すべきである。と言うのも、最盛期には200近いと言われた参加都市の内、政治・軍事的に独立した帝国自由都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメン、ケルンなど一部に過ぎず、大部分は領邦に属する自治都市で政治的な独自性は無く、交易ネットワークの自衛という面でのみハンザ諸都市は協力できたのである。

尤も思惑は様々で、リューベックはウェンディッシュ地域の諸都市と都市同盟を結んでおり、いずれハンザ同盟を古のデロス同盟のような都市同盟にして、盟主として君臨したいと考えていたようだが、多くの都市は交易による利益が得られれば良く、ハンザ会議への出席に興味を持たない都市も多かった。

ハンザ・ネットワークの範囲は広く、現在のロシアからイングランドまで数カ国に跨っているが、ハンザはドイツ人商人のネットワークだった。この場合、ドイツ人というのはゲルマン諸語を話し、ドイツ都市法に従っている人々であり、東欧や北欧で加盟している都市はドイツ人が中心の街である*4。

*4 当時は民族という概念はあったが、民族国家という概念はなく、ポーランドや北欧の王国の下にドイツ人の都市が散在することに不思議はなかった。また、血統的にドイツを起源とする必要はなかった。

外国人の都市には交易所(Kontor)を置き、ハンザ商人が常駐することによりネットワークの一部を構成した。主要な4つ(ロンドン、ブリュージュ、ベンゲン、ノブゴロド)は独自の居住区を持っていたが、小さい所は単にハンザ商人が普通に住んでいたようだ。

神聖ローマ帝国は領邦に分かれており、またハンザ同盟も政治・軍事同盟ではなかった為、さほどトラブルは起きなかったが、バルト海、北海の交易に強い利害を持ち*5、南下政策を打ち出していたデンマークとは衝突することになった。

*5 デンマークから見れば、自分の所をバイパスされ、経済的に疎外されることになる。

デンマークの南下に対する1361年からの戦争では、ケルン同盟を結成して戦った。大部分がハンザ都市とは言え、それ以外も加わっており、ハンザ同盟が軍事同盟でないことが分かるだろう。1370年のシュトラールズント条約を有利な条件で締結しており、1426年から1435年にかけたデンマークとホルシュタイン公の争いでも後者に加担して勝利を得ている*6。

*6 但し、カルマル同盟の中心となったデンマークとは友好関係の状態の方が多い。

海賊*7退治は最も重要な同盟の活動であり、バルト海では1393年からヴィタリエン兄弟団がゴットランド島のヴィスビューを根城に荒らし回り、ハンザ同盟やデンマークも協力して討伐に当たったが効果は上がらず、1398年にドイツ騎士団を呼び込むことで兄弟団をゴットランド島から追い出したが、その残党の活動は1440年まで続いた。

*7 この時代の海賊は海の傭兵団、海軍勢力と言い換えても良く、単なる無法者の集まりではない。

ハンザ同盟の衰退は、領域国家が中央集権化を進め、都市を支配下に入れ始めたことも大きいが、商業的には、プロシア、ポーランドが穀物の一大生産地となり*8、その需要が高いネーデルラントと直接取引きを望むようになった為、ハンザ同盟の中心都市リューベックなどのウェンディッシュ都市とネーデルラント、東欧の都市の利害が対立するようになったことが大きい。

もう一度、上図を見てもらえば分かるが、リューベック - ハンブルクの陸路がネットワークの要でハンザ同盟の成立の原動力だったのが、政治情勢の変化と海運技術の発達により、迂回することが容易になった訳である。

*8 ドイツ騎士団との抗争が終結し、ポーランド=リトアニアによる支配が確立した為。

また陸上交通が発展したせいもあり、ドイツの内陸部の都市は海まで運ぶより、陸路を通じて運送する方が効率的になったようだ。

さらにドイツ商人の独占に不満な各国の商人が、強力になった自国の王権に働きかけた為、ロンドンやノブゴロドではハンザ商人の特権が失われていった。

1669年にわずか9の都市が参加したのを最後にハンザ会議は開かれなくなり、ドイツ統一目前の1862年の正式な解散時には、リューベック、ハンブルク、ブレーメンの三都市が残っているだけだった。

しかし、ハンザ同盟の概念は良き遺産と見なされており、現在でもドイツのフラッグキャリアであるルフトハンザ航空やリューベック、ハンブルク、ブレーメンの正式名称に残っている。

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