以前、王に成れなかった男としてシャルル・ド・バロワを紹介したが、王に成れなかった王家*1が彼の子孫でもあるバロワ・アンジュー家である。
*1 王を名乗っており短期的に実効支配もしているが、継続していないため
歴史上、アンジュー家と呼ばれる家は3系統あり、一つはヘンリー2世がアンジュー伯からイングランド王となってアンジュー帝国を築き、その後もイングランド王家として続いたプランタジネット家である。ヘンリー2世の祖父フルクはエルサレム女王メリザンドと結婚して王となっており、エルサレム陥落までのエルサレム王家は彼の子孫のエルサレム・アンジュー朝である。
プランタジネット朝のジョン王が大陸領土を失った後、ルイ9世の弟シャルルがアンジュー伯を与えられ、シチリア王国を征服したが、シチリアの晩鐘の後にナポリ王となったのがカペー・アンジュー家で、そこからハンガリー王(ハンガリー・アンジュー朝)も出している。シャルルは名前だけになったエルサレム王位を入手しており、ナポリ王家ではエルサレム王も名乗っていた。
ナポリ王家は本家のフランス王家とローマ教皇を巻き込み、アラゴン十字軍を起こしたが成功せず、その和睦の際に代償としてアンジュー伯領をシャルル・ド・バロワに譲渡しており、その息子フィリップ6世がバロワ朝を開いてからは王領となっていたが、ジャン2世が次男のルイに親王領としてアンジュー公を与えたのがバロワ・アンジュー家である。
面白いことに、これらのアンジュー家はいずれも諸侯から王になっており、三代目とも言えるアンジュー公ルイもナポリ女王ジョヴァンナ1世の継承者となってナポリ王を称している。
ナポリ女王ジョヴァンナ1世は即位時から男長系であるハンガリー・アンジュー家と揉めており(哀愁のナポリ王国)、さらには教会大分裂のとばっちりを受けてローマ教皇ウルバヌス6世から廃位され、親族のドゥラッツォ・アンジュー家のカルロ(3世)がハンガリーの支援により王位を受けていた。
子供のいないジョヴァンナ1世はアンジュー公ルイを養子として対抗したが*2、ルイが、シャルル5世の死後、幼年のシャルル6世の後見のためにフランスを離れられない間にカルロ3世はジョヴァンナ1世を幽閉して後に殺害しており、ルイはアヴィニョン教皇クレメンス7世からナポリ王冠を受けてナポリに侵攻したが、1384年に病死したため王位を確保することはできなかった。アンジュー公位とナポリ王の権利は息子のルイ2世が継承し、1389年に戴冠してカルロ3世の息子ラジスローとナポリ王位を争ったが勝利することはできず、1399年に撤退している。
*2 ナポリ王カルロ2世の娘マルグリットとシャルル・ド・バロワの子がフィリップ6世で、ドゥラッツォ家の祖ジョヴァンニはマルグリットの弟であるため、男女同等であればバロワ家が優先する。
ここで登場するのが、1400年にアンジュー公ルイ2世と結婚したアラゴン王フアン1世の王女ヨランド・ダラゴンである。フアン1世が亡くなった後、その弟のマルティン1世がアラゴン王位に就いていたが、1410年に嫡出の子孫なく死去した。ヨランドは息子ルイ(3世)の王位を主張したが、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの代表により決定された「カスペの妥協」では、マルティン1世の姉の子であるトラスタマラ家のカスティラ王子フェルディナンド(1世)がアラゴン王に選出された。
しかしヨランドはアラゴン王位の主張を捨てず、ルイ2世はナポリ王、エルサレム王、ヨランドはアラゴン王、シチリア王*3を主張していたため、2人合わせて四カ国の(女)王と呼ばれたが、実効支配している国は1つもなく、嘲笑的に呼ばれていたようだ*4。
*3 シチリアの晩鐘以降、シチリア王はアラゴン分家だったが、マルティン1世の時にアラゴン王家に再統合された。
*4 しかし主張はしておいて損なことはなく、情勢が変化すれば棚ボタということもあり得るし、何らかの代償を得られることも多い。
バロワ・アンジュー家 - 四カ国の王
バロワ・アンジュー家(1) - 四カ国の王
バロワ・アンジュー家(2) - ヨランド・ダラゴン
アンジュー公家はナポリの争いに注力していたため百年戦争やブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いにはあまり関わっていなかったが、ヨランドは積極的にフランス政治に関わるようになった。
アンジュー公家は、その立場上、ブルゴーニュ公とオルレアン公の仲裁に入ることが多かったが、1413年のパリの反乱(カボシェの乱)を煽動したジャン無怖公の強引なやり口に反発してアルマニャック派を支持するようになった。
両派の対立は内戦に進展し、王(シャルル6世)、王妃(イザボー)、王子(ルイ、ジャン、シャルル)の取り合いとなり、ヨランドは当時三男だったシャルルを確保した。ところが、1415年に長男ルイ王太子、次いで1417年に次男のジャンが亡くなると末子だったシャルルが王太子となり、ジャックポットを引き当てた形になった*5。王妃イザボーから王太子になったシャルルの返還を要求されたが、「兄2人のように死なせたり、父のように狂わされたり、貴方のようにイングランド人にするために、シャルルを育て可愛がったのではない。私自身で確保します。奪えるものなら、やってみなさい!」と拒否し、1420年に長女マリーと結婚させた。
*5 ルイ王太子の妻は無怖公の娘であるが、必ずしもブルゴーニュ公を支持していなかった。ジャンの妻はエノー伯の女相続人ジャクリーヌでブルゴーニュ派だった。彼等の相次ぐ死には当然、疑惑が存在する。余談だがジャクリーヌはホラント、ゼーラントの領主でもあり、後に彼女の領土を併せてブルゴーニュ公国のネーデルラント領が形成される。また、イングランドとの揉め事の原因にもなった。
実はヨランドとイザボーの女の戦いの面もある。ヨランドはアラゴン王女に生まれ、四カ国の女王を称しながらもその実体はアンジュー公夫人にすぎないのに対して、イザボーの父は名門ヴィッテルスバッハ家とは言え、分割相続でバイエルンの一部しか領有しておらず、明らかにフランス王家にとっては格下だったが、イザボーはシャルル6世の精神疾患により国王の権力をしばしば代行しており、フランス王妃としてヨランドの上に立っているため対抗意識があったと思われる。
シャルル王太子は1419年にジャン無怖公を和睦の席で暗殺し、廃嫡されブルージュに逃れていたが、ヨランドは政治、財政の両面から彼を支援し続け、ブルターニュ公と和解してリシュモンを登用したり、ジャンヌ・ダルクが現れた際も、最初に彼女の利用価値を見出した1人である*6。シャルル7世の愛妾アニエス・ソレルも元はルネ・ダンジューの妻の侍女だったのをヨランドが王妃マリーの侍女にしたため見初められたものである。ヨランドは非常な美貌だったともいわれるが、孫のルイ11世は「女性の身体に男性の心を持っていた」と述べており女丈夫だったらしい。百年戦争でのフランスの勝利に大きく寄与したと考えられている。
*6 ヨランドの息子ルネ・ダンジューはロレーヌ公の女相続人と結婚していたため、早くからジャンヌの存在を知っており、ジャンヌの劇的な登場はヨランドの演出とも言われる。
一方、ナポリと教皇の関係は再び変化しており、教会大分裂の後の新教皇マルティヌス5世は1420年にアンジュー公ルイ3世にナポリ王位を与えたが、ナポリ女王ジョヴァンナ2世はこれに対抗してアラゴン王アルフォンソ5世*7を後継者として1421年にナポリに迎え入れた。しかし、アルフォンソ5世がジョヴァンナの寵臣を逮捕するなどしたため関係は悪化し、1423年にこれを破棄してアンジュー公ルイ3世を後継者に指名している*8。
*7 二代目ナポリ王カルロ2世の娘ブランカはアラゴン王家に嫁いでおり、バロワ・アンジュー家と同等の継承権があった。
*8 カスペの妥協の際にアンジュー公ルイ3世は候補者の1人であり、選ばれたのはアルフォンソ5世の父フェルディナンド1世で、そちらの面でも遺恨がある。
アンジュー公はジョヴァンナ2世の死を待っていたが、1434年に先に亡くなり、その弟のルネがアンジュー公と後継者の地位を継承した。ジョヴァンナ2世は1435年に亡くなり、ナポリ王位はルネが継承したが、1441年にアルフォンソ5世がナポリに再び来襲するとルネは追い払われている。
しかしフランスにおけるルネの立場は悪くなかった。ヨランドは1442年に亡くなっているが、姉のマリーはフランス王妃で、彼女の子がルイ11世であり、彼はロレーヌ、アンジュー、プロバンスを有する大諸侯であった。イングランドとの和平では、娘のマーガレット*9が1445年にイングランド王ヘンリー6世と結婚しており、その子がエドワード王太子である。
*9 薔薇戦争の一方の主役となる。
さらに1466年からのアラゴン王フアン2世と息子カルロスの争いからカタルーニャの反乱が起こり、ここでアラゴン王位の主張が生きることになり、ルネの長男ジャンはアラゴン王位を主張してバルセロナに入った。
しかし、幸運だったのはここまでで、ジャンは1470年にバルセロナで暗殺され、ジャンの息子のニコラも1473年に暗殺されてバロワ・アンジュー家の男系は断絶した。
イングランド王妃マーガレットは1471年に最終的に薔薇戦争で敗れ、息子エドワード王太子は戦死し、自らは幽閉されており、1475年のピッキーニ条約の際にフランス側に引き渡されている。ルネは1480年まで生きたが、男系の断絶は確定しており、しかも彼の甥であるフランス王ルイ11世は女系相続を認めず、アンジューやプロバンスを王領に接収しようとしていた*10。失意の内にルネは亡くなり、アンジュー公家は断絶し、その王位主張はフランス王家に継承され、シャルル8世のナポリ侵攻、イタリア戦争に繋がる。
*10 親王領だったアンジューはともかく、ナポリ・アンジュー家から譲渡されたプロバンスを回収するのは不当だった。もっとも母マリー・ダンジューを通した自分の継承権を主張したとも言える。
アンジュー公家は、その立場上、ブルゴーニュ公とオルレアン公の仲裁に入ることが多かったが、1413年のパリの反乱(カボシェの乱)を煽動したジャン無怖公の強引なやり口に反発してアルマニャック派を支持するようになった。
両派の対立は内戦に進展し、王(シャルル6世)、王妃(イザボー)、王子(ルイ、ジャン、シャルル)の取り合いとなり、ヨランドは当時三男だったシャルルを確保した。ところが、1415年に長男ルイ王太子、次いで1417年に次男のジャンが亡くなると末子だったシャルルが王太子となり、ジャックポットを引き当てた形になった*5。王妃イザボーから王太子になったシャルルの返還を要求されたが、「兄2人のように死なせたり、父のように狂わされたり、貴方のようにイングランド人にするために、シャルルを育て可愛がったのではない。私自身で確保します。奪えるものなら、やってみなさい!」と拒否し、1420年に長女マリーと結婚させた。
*5 ルイ王太子の妻は無怖公の娘であるが、必ずしもブルゴーニュ公を支持していなかった。ジャンの妻はエノー伯の女相続人ジャクリーヌでブルゴーニュ派だった。彼等の相次ぐ死には当然、疑惑が存在する。余談だがジャクリーヌはホラント、ゼーラントの領主でもあり、後に彼女の領土を併せてブルゴーニュ公国のネーデルラント領が形成される。また、イングランドとの揉め事の原因にもなった。
実はヨランドとイザボーの女の戦いの面もある。ヨランドはアラゴン王女に生まれ、四カ国の女王を称しながらもその実体はアンジュー公夫人にすぎないのに対して、イザボーの父は名門ヴィッテルスバッハ家とは言え、分割相続でバイエルンの一部しか領有しておらず、明らかにフランス王家にとっては格下だったが、イザボーはシャルル6世の精神疾患により国王の権力をしばしば代行しており、フランス王妃としてヨランドの上に立っているため対抗意識があったと思われる。
シャルル王太子は1419年にジャン無怖公を和睦の席で暗殺し、廃嫡されブルージュに逃れていたが、ヨランドは政治、財政の両面から彼を支援し続け、ブルターニュ公と和解してリシュモンを登用したり、ジャンヌ・ダルクが現れた際も、最初に彼女の利用価値を見出した1人である*6。シャルル7世の愛妾アニエス・ソレルも元はルネ・ダンジューの妻の侍女だったのをヨランドが王妃マリーの侍女にしたため見初められたものである。ヨランドは非常な美貌だったともいわれるが、孫のルイ11世は「女性の身体に男性の心を持っていた」と述べており女丈夫だったらしい。百年戦争でのフランスの勝利に大きく寄与したと考えられている。
*6 ヨランドの息子ルネ・ダンジューはロレーヌ公の女相続人と結婚していたため、早くからジャンヌの存在を知っており、ジャンヌの劇的な登場はヨランドの演出とも言われる。
一方、ナポリと教皇の関係は再び変化しており、教会大分裂の後の新教皇マルティヌス5世は1420年にアンジュー公ルイ3世にナポリ王位を与えたが、ナポリ女王ジョヴァンナ2世はこれに対抗してアラゴン王アルフォンソ5世*7を後継者として1421年にナポリに迎え入れた。しかし、アルフォンソ5世がジョヴァンナの寵臣を逮捕するなどしたため関係は悪化し、1423年にこれを破棄してアンジュー公ルイ3世を後継者に指名している*8。
*7 二代目ナポリ王カルロ2世の娘ブランカはアラゴン王家に嫁いでおり、バロワ・アンジュー家と同等の継承権があった。
*8 カスペの妥協の際にアンジュー公ルイ3世は候補者の1人であり、選ばれたのはアルフォンソ5世の父フェルディナンド1世で、そちらの面でも遺恨がある。
アンジュー公はジョヴァンナ2世の死を待っていたが、1434年に先に亡くなり、その弟のルネがアンジュー公と後継者の地位を継承した。ジョヴァンナ2世は1435年に亡くなり、ナポリ王位はルネが継承したが、1441年にアルフォンソ5世がナポリに再び来襲するとルネは追い払われている。
しかしフランスにおけるルネの立場は悪くなかった。ヨランドは1442年に亡くなっているが、姉のマリーはフランス王妃で、彼女の子がルイ11世であり、彼はロレーヌ、アンジュー、プロバンスを有する大諸侯であった。イングランドとの和平では、娘のマーガレット*9が1445年にイングランド王ヘンリー6世と結婚しており、その子がエドワード王太子である。
*9 薔薇戦争の一方の主役となる。
さらに1466年からのアラゴン王フアン2世と息子カルロスの争いからカタルーニャの反乱が起こり、ここでアラゴン王位の主張が生きることになり、ルネの長男ジャンはアラゴン王位を主張してバルセロナに入った。
しかし、幸運だったのはここまでで、ジャンは1470年にバルセロナで暗殺され、ジャンの息子のニコラも1473年に暗殺されてバロワ・アンジュー家の男系は断絶した。
イングランド王妃マーガレットは1471年に最終的に薔薇戦争で敗れ、息子エドワード王太子は戦死し、自らは幽閉されており、1475年のピッキーニ条約の際にフランス側に引き渡されている。ルネは1480年まで生きたが、男系の断絶は確定しており、しかも彼の甥であるフランス王ルイ11世は女系相続を認めず、アンジューやプロバンスを王領に接収しようとしていた*10。失意の内にルネは亡くなり、アンジュー公家は断絶し、その王位主張はフランス王家に継承され、シャルル8世のナポリ侵攻、イタリア戦争に繋がる。
*10 親王領だったアンジューはともかく、ナポリ・アンジュー家から譲渡されたプロバンスを回収するのは不当だった。もっとも母マリー・ダンジューを通した自分の継承権を主張したとも言える。