騎士道と武士道

時には武士道のバイブルのように扱われる「葉隠」では、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と述べているが、むろん戦国期には無かった概念で*1、元和偃武により戦うことを禁じられ官僚となった武士が、武士らしくあるにはどうしたら良いかと考えた結果だろう。

*1 「死を怖れず死に物狂いに」という概念はあっただろうが、勝って生き残ることが重要であり、「頭で考えずに、まず命を捨てろ」という発想は無かった。

「葉隠」も作者山本常朝の個人的見解であって、百家争鳴のように人の数だけ様々な流派の武士道があっただろう。彼が批判した山鹿素行など儒学者は当然、儒教を全面的に取り入れた士道を提案しているが、それに反発する人々も大なり小なり儒教の影響を受けている*2。

*2 本来の武士の規範を武士道、儒教の影響を受けたのを士道と区別する人もいるが、明確に区別できるものでもない。

武士道も騎士道も、悲惨な殺し合いに、ある程度の秩序を与える戦士のコード(規範)が彼等の間で自然に生じ、一方、宗教家や思想家が机上で、それらの野蛮な暴力にタガを嵌めるため道徳・徳目を付け加えたと言う点と武士や騎士が「戦士」としての機能を失った後に、もて囃され完成した点で似ている。

騎士道では、戦士的規範、宗教/封建道徳的規範に加えて、ロマンス的規範が加わっていることが特徴である。

11世紀の騎士は戦いを生業とする一人一党の乱暴なゲルマン戦士であり、教会は神の平和を提唱し、皇帝・王は神に賦与された権威を主張して騎士を制御しようとしたが、成功したとは言い難かった。

十字軍も敬虔に教会の指示に従ったというより、異教徒相手なら上記の道徳を押し付けられずに好きに振舞えると言う理由が大きく、教会・君主から見ると乱暴者を外地に送って排除するという意味合いもあった。

しかし、それまでは、平和を提唱し殺人を禁忌とする教会と「戦う人」*3である騎士の相性は良くなかったが、十字軍により「正義の戦争」という概念ができ、騎士にキリスト・神の戦士と言う特性が付加され、騎士叙任も従来の現場での簡便なものからキリスト教に基づいた荘厳な儀式が加わるようになった。

*3 中世は、祈る人(聖職者)、戦う人(騎士・貴族)、働く人(商人、職人、農民)で構成されていた。中世ヨーロッパの身分と称号 参照

しばしば騎士の徳目・規範が十戒という形で紹介されるが、これは19世紀の騎士道研究者のレオン・ゴーティエ等が提唱したもので*4、当時、言われたものではなく内容は人により異なる。

・教会の教えを信じ、その指示に従う ・教会を守る ・弱者を敬愛し守る ・国と仲間を愛する ・敵から逃げない ・異教徒への無慈悲な戦い ・封建義務の実行 ・嘘をつかず自分の言葉を翻さない ・気前が良く惜しみなく与える ・悪と不正に対して常に善と正義を実行する

*4 モーゼの十戒にちなんで、色々な分野で十の掟が定められているが、無理矢理に10項目にするため、重複や言わずもがなが含まれることが多い。

これらの規範は大きく分けると、戦士的規範は「勇敢で、名誉を重んじ、敵から逃げないこと」であり、宗教的規範は「神を敬い、教会を守り、異教徒と戦うこと」であり、封建道徳的規範は「主君に忠実で、封建義務を守ること」であり、ロマンス的規範が「気前が良く、女性を敬愛し、弱者を守ること」と言える。

しかし、実際の騎士は戦士的規範以外は騎士叙任の題目程度にしか見ていなかったようだ。当初の十字軍も残虐で殺伐としたものだったが、帰還した十字軍士は脚色して語り、人づてで理想化されて広まり、吟遊詩人のロマンティックな想像力を描き立て、従来の英雄譚や武勲詩に宗教/道徳的徳目を加えた騎士道物語(ロマンス)が作られるようになった。

騎士道物語の題材は、シャルルマーニュなどのフランス物、ヘクトル、アレキサンダー、カエサルの出るローマ物、アーサー王伝説のブリテン物が中心だが、特にアーサー王物語に女性との宮廷的恋愛の要素が強く含まれるようになった。

典型的なストーリは、遍歴の騎士が、捕らえられた貴婦人を助け、住民を苦しめる強大な敵を倒し、王に認められると言ったもので、現在の物語にも影響を与えている。

14世紀に入ると、低い出自の歩兵が騎士よりも重要な戦力になり始め*5、騎士たちは自分達の差別化として、騎士道の規範を実践し始めたのだが、戦場では戦術や臨機応変が重要であり、どんな時でも「勇敢で、名誉を重んじ、敵から逃げない」のは、むしろマイナスで、騎士道物語の影響を受けたフランス騎士はクレシー、ポワティエ、ニコポリス十字軍、アジャンクール*6で記録的大敗を続けることになり、一層、戦士としての役割を失って行った。

戦士としての役割を失って騎士道精神は完成し、宮廷人的礼儀作法を加えて、紳士に受け継がれていく。

*5 騎士と歩兵 参照、*6 百年戦争とは何だったか 参照

一方、武士ではロマンスは軽視され始める。平安以前の王朝時代は恋愛だらけであるが、室町時代の太平記になると新田義貞と勾当内侍の関係は尊氏追討が遅れた理由にされており、武士の時代では、色に溺れて軍事を疎かにしたり、愛妾の子を跡継ぎにしようと家政を乱したり、色恋は否定的なニュアンスとなっている。

遍歴の騎士のような冒険譚も岩見重太郎など講談や芝居の世界でこそ人気があったが、儒学者や軍学者、国学者の考える武士道の理想に含まれたことは無いようである。

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