教皇の三重冠

ikaicon.jpg
教皇冠といえば、卵型というか、弾丸型といった形の背の高い白い帽子*1であるが、それに3つの冠が装着されているため、俗に三重冠と呼ばれる。紋章にも使用され、ペテロが預かったとされる天国の鍵と並んでローマ教皇のシンボルと見られることが多いが、三重冠が使用されたのは初代アヴィニョン教皇クレメンス5世(在位:1305-1314)からで、ローマ教皇の歴史においてはそう古いことではない。

*1 ちょっと見るとローマ教皇が忌み嫌ったトルコ人のターバンのように見えるのが面白い。

元々、ローマ教皇というか、ローマ総司教も他の司教と同じく、ミトラ (司教冠)をかぶっていたのであるが、10世紀頃から他の司教との違いを明確にするためか、卵型の布でできた帽子を被るようになった。そして、同時に第1層に王冠と同様の宝石、金銀で装飾された冠を付けるようになった。一説によると教皇領における君主権を象徴しているとのことである。

それが、ボニファティウス8世(在位:1294-1303)の時に冠が付け加えられて2つになる。既に何度も書いているが、彼は世俗王権に対する教皇の優位性を主張したウナム・サンクタムを発布した人で、2つの冠は世俗王の1つの王冠より優位にあることを主張すると共に、俗権と教権の両面における最高権威を主張したものと思われる。

しかし、彼の強硬策はフランス王フィリップ4世が反撃したアナーニ事件によって潰え、彼の後継者であるベネディクトゥス11世(在位:1303-1304)*2かアヴィニョンに移ったクレメンス5世(在位:1305-1314)の時に、さらに一つ加えて三重冠になっている。

*2 クレメンス5世の時に確実に三重冠になっているが、ベネディクトゥス11世の時からという説もある。

教皇権が敗北を喫した後であるから、これは、さらに教皇の権威を主張したと言うより、ボニファティウス8世の主張を取り消す形で、しかし1つに戻すのは体裁が悪いため、逆に3つに増やしたと思われる。キリスト教においては三位一体など3は聖的な数であり、改めて3つの冠に従来とは別の意味を与えたのだろう。

そのため、この3つの冠の意味についての公式見解はなく、いくつかの解釈が世に喧伝されている。

「世界の牧師、世界の宗教的管轄権、世界の世俗権」や「王達の父(司祭)、地上の支配者、イエス・キリストの代理人」などは、アヴィニョン時代に提唱したとは考えられず、ボニファティウス8世の意図を延長して、後世に考えられたのだろう。

別の方向性としては、キリストの役割である「預言者、救世主、王」「教導、立法、司法」、あるいは「地上、煉獄、天国」の教会であるとか色々あるようだ。皇帝がドイツ王、イタリア王、ローマ皇帝として3つの冠を受けるのに対抗して3つとしたと言う説などは、中々、面白い。教皇が皇帝と張り合う分にはフランス王にとっても問題ないため、案外、当時としてはこれが正解なのかもしれない。

これらの教皇冠は当初はミトラや単なる布だったためか、多くの教皇の代に作成されている。全ての教皇が作った訳ではなく、以前の物をそのまま使うこともあったようだが、教皇就任時に、出身地や司教だった都市や王侯から贈られることが多かった。

そのため各教皇冠はそれほど重要な物とは考えられておらず*3、1527年のローマ劫略時に占領軍への補償金として40万ダカットを支払う際に、時の教皇クレメンス7世はそれまで保管されていた歴代の教皇冠を宝石を取り出して鋳潰したため、それ以前の教皇冠は残っていない。また、1800年にナポレオンがローマを占領した際にも、それまでの教皇冠は略奪され鋳潰されたため、グレゴリウス13世(在位:1572年-1585年)の教皇冠を除いて、1800年以前の物も残っていない。

*3 但し、ボニファティウス8世の作った教皇冠は豪華絢爛なもので、その後三重冠となり、1446年まで使用された。「コンスタンティヌスの寄進状」と関連づけられて聖遺物と誤解され、聖シルベストロ冠と呼ばれたが、1485年に盗難にあっている。

現在残っているのは、グレゴリウス13世の物と1800年以降のものが20数個で、そのうち11個はバチカンに保管されている。また最後に教皇冠を使用した教皇であるパウロ6世(在位:1963-1978)の教皇冠はワシントンD.C.の「無原罪の御宿りの聖母教会」で展示されている。

パウロ6世より後の教皇は就任時に教皇冠による戴冠を行っておらず、現教皇のベネディクト16世は紋章からも教皇冠を外し、代わりに司教のミトラを使用している。10世紀以前の本来の姿に戻ったということだろうか。

最新

ページのトップへ戻る