ハンガリー最後の栄光

ハンガリー最後の栄光(1) - フニャディ

後から見て歴史には大きな転換点が存在することがある。もちろん、その転換点が存在しなくとも結局、その後に別の転換点が生じて同じ結果になる可能性もあるが、少なくともifのテーマにはなる。

現代ではハンガリーはハプスブルク帝国の一部だったという印象が強いのか、とある国擬人化漫画でハンガリーが清楚な女性になっていて面食らったことがあるが、優雅なハプスブルク家の伴侶的印象から来ているのだろう。本来、ハンガリーはフン族の再来と恐れられた精悍な遊牧民族マジャール人*1の国なのだが・・・

*1 ハンガリーはフン族の国という意味。マジャールとフンに直接的な関係はないが、フン族の後継者を称していたこともあったようだ。

ハンガリーは浮き沈みはあっても中世を通して中欧の大国として君臨し、オスマン帝国がバルカンを席巻しても、これを撃退し、むしろ最盛期を迎えていたのである。

ハンガリー最後の栄光を輝かせた王で、外国人王*2が続いた後の150年ぶりのハンガリー人の王で、王家の血統ではない初めてのハンガリー王であったマチアス・コルウヌスはオスマン帝国、そしてハプスブルク家の天敵であった。彼が長生きして、成人した嫡男を得ていたら、16世紀にハプスブルク帝国とオスマン帝国に分割されたヨーロッパの歴史は大きく変わったかもしれない。

*2 14世紀初頭からボヘミアのプシェミスル家、ナポリ・アンジュー家、ルクセンブルク家、ハプスブルク家、ポーランドのヤギェウォ家と続いた。

マチアスは、対オスマン戦で活躍したハンガリー摂政ヤノーシュ・フニャディ*3の次男で、まずフニャディから語らなければならない。

*3 ハンガリーは、東アジアと同じく姓名の順であるが、ここでは他のヨーロッパ人と同じく名姓の順で表記する。

フニャディ家の出自は明確ではないが、ルーマニア系の小貴族*4だったと思われるワイクが1409年にハンガリーの辺境だったトランシルバニアのフニャド城を与えられたことによって世に知られるようになった。

*4 当時のハンガリー王国は多くの民族を含んでいたため、出自の民族には諸説あるが、いずれにしても、フニャディが自らをハンガリー貴族と見なしていたことに変わりはない。

ワイクの子であるヤノーシュ・フニャディにはハンガリー王であったルクセンブルク家の皇帝ジギスムントの落胤という伝説がある。比較的低い身分だったフニャディがジギスムントに気に入られて出世したことによって生まれた噂をマチアス・コルウヌスが王位を正当化するために広めたものと思われるが*5、同時に誇れるような家柄でなかったことを表してもいる。

*5 子供である証拠としてジギスムントから指輪を与えられていたが、それをカラス(ラテン語:コルウス)が盗もうとしたという伝説もあり、フニャディの事柄であるに係わらず、マチアスのサーネーム(仇名、苗字)となったのは落胤伝説を意識してのことだろう。

フニャディはボヘミアのフス戦争や南部の対オスマン戦などで経験を積む一方、ミラノに派遣されジャン・ガレッツォ・ヴィスコンティやフランチェスコ・スフォルツァ*6と知己になり、当時のイタリア傭兵の戦争技術を学んだようである。とんとん拍子に出世し、1438年にジギスムントが死去しハプスブルク家のアルブレヒトがハンガリー王になった時には、地方総督(バン)に任命されるまでになっている。

*6 前者は積極的に領土拡大を図ったミラノ公、後者は代表的な傭兵でスフォルツァ家ミラノ公の初代。

アルブレヒトの死後に赤子のラジスロー遺腹王とポーランド王ヴワディスワフ3世が後継争いした際には、ハンガリーは戦士王により率いられるべきとして、1440年の後者の即位に大いに貢献し、その功績により、28の城を所有するハンガリー最大の大領主となり、王の相談役、そして対オスマン戦の責任者となった。

ハンガリー最後の栄光(2) - ヴァルナ十字軍

フニャディの名を歴史に残したのは対オスマン戦の奮戦であり、当時の十字軍的風潮*7の中で全ヨーロッパに知られることになり、現在まで続くキリスト教世界の英雄のイメージを残した。もっともキリスト教の代表戦士として利他的*8に戦ったわけではなく、1438年にオスマン・トルコが再度、セルビアを占領してハンガリーの国境にまで迫ったからである(コソボの悲劇 参照)。

*7 教会大分裂により失った権威を取り戻すべく、ローマ教皇は盛んにオスマン・トルコの脅威を宣伝し十字軍を呼びかけていた。
*8 中世の騎士はどのような規模の戦争でも常に自己のために戦っていた。宗教的な動機ですら自分が天国へ行くためなのである。

フニャディの戦術はボヘミアのフス派のワゴン(戦車)*9を採用しており、オスマン軍には未経験の物だったため非常に効果を挙げ、数度のオスマン軍の侵攻を撃退している。1443年には攻勢に出て、王と共に「長征」を行い、トラキアから侵入してスルタン、ムラト2世の軍を数度に亘り打ち破り、ソフィアを奪取するなど大きな戦果を挙げた。

Wagenburg.jpg*9 壁に囲まれた車両の中に銃兵や弓兵を配置し攻撃に使うと共に、車両で外壁を作り臨時の野戦陣地を形成することができた。図参照

フニャディの奮戦により、ローマ教皇エウゲニウス4世が音頭を取り、セルビアのデュラド専制侯、アルバニアのスカンデルベグ等と共に(ヴァルナ)十字軍が結成されたが、引退を考えていたムラト2世が大幅に譲歩した講和案を提示したため、デュラド専制侯の斡旋で10年間の休戦協定が結ばれた。しかし、十字軍側はこれを守る気はなかった*10。

*10 基本的にローマ教会は異教徒との約束は守る必要がないという立場で、歴史的に十字軍はしばしば協定を破っている。もっとも、イスラム教徒も似たようなものであった。

十字軍を名乗るだけあって、ヴァルナ十字軍には東欧の多くの国や修道騎士団からの参加者がいたが、主力はヴワディスワフ3世の支配下にあるハンガリー、ポーランド、ボヘミア兵であり、それにワラキア兵が加わり*11、ヴワディスワフ3世とフニャディが指揮を取っていた。

*11 ワラキアのヴラド2世はオスマンに従っていたが、その長子ミルチャがヴァルナ十字軍に参加しており、両天秤をかけていたようである。なお次男のヴラド(串刺し公)と三男のラドゥはオスマンに人質として滞在していた。

ベネチア艦隊がボスポラス海峡を封鎖し、オスマン軍の主力をアジアに足止めする予定だったが、十字軍がブルガリアのヴァルナに到着する頃にはオスマンの大軍が接近していた*12。十字軍は混成軍で数的劣勢ながらフニャディの指揮下で善戦しており、フニャディは勝機を見出すまで自重を王に求めていたが、決着を逸ったヴワディスワフ3世は手勢を率いてムラト2世の本陣に突撃をかけ*13、親衛隊イエニチェリにより討ち取られて勝負が決してしまった。

*12 ジェノヴァが手助けしたとも言う。また斡旋した和平を破られたデュラド専制侯はムラト2世に情報を流していたらしい。
*13 必ずしも無謀で自暴自棄な行動ではなくチャンスはあったようだが、王自らの突撃は褒められたものではない。まあ、成功していれば果敢な決断と賞賛されるわけだが・・・

ヴワディスワフ3世の戦死により、ハンガリー王は改めてラジスロー遺腹王となったが、当人はわずか4歳で分家の皇帝フリードリヒ3世に保護・監禁されており、ハンガリーでは臨時体制が作られ、フニャディは5人の大将軍の1人としてトランシルヴァニア公(ヴォイヴォダ)になった。しかし国内では混乱状態が続いたため、下級貴族や庶民に人気があったフニャディが1446年に摂政に選ばれハンガリーを統治することになった。

ハンガリー最後の栄光(3) - キリスト教世界の英雄

摂政になってすぐにフニャディはラジスロー遺腹王の返還をフリードリヒ3世に要求し、拒否されるとオーストリアに侵攻したが2年間の休戦を結んで引き上げている。

1448年には対オスマン戦を再開し、ハンガリー、ワラキア*14の兵を率いてアルバニアのスカンデルベグにも呼びかけセルビアに入ったが、デュラド専制侯は既に半ばオスマン側であり、領内の通過は認めたが参加は拒否し、オスマン側に内通すると共にスカンデルベグを足止めした。

*14 ハンガリーの傀儡とも言えるダネシュティ家が公位にあった。ヴラドのドラクル家は、概ね反ハンガリー、親オスマンである。

第二次コソボの戦いはハンガリー連合軍の完敗であり、逃げるフニャディはセルビア軍に捕らえられ、100,000フローリン*15の身代金とヴァルナ十字軍の講和の際に譲渡した領地の返還を求められた*16。フニャディは解放された後にセルビアに報復している。

この敗戦により彼の威光は低下し、セルビアやワラキアはオスマンの従属国となり、またラジスロー遺腹王の側近のツィレイ伯ウルリク2世*17の画策もあり、1450年にはハンガリー摂政も辞任している。1453年にラジスロー遺腹王はハンガリーに入って親政を始め、ツィレイ伯の影響が強かったが、フニャディも大将軍の地位を維持していた。

*15 フローリン金貨はフィレンツェの金貨だが、金の産地であるハンガリーでも同型の物が作られている。1枚に金約3.5gが含まれている。
*16 セルビアはこれ以降、オスマンの従属国として行動しており、1453年のコンスタンティノープル攻撃にも参加している。
*17 スロベニアの伯。妻がデュラド専制侯の娘でフニャディとは対立していた。もっとも、1455年に彼の娘がマチアスと結婚している(結婚完了前に死去)。

1453年にコンスタンティノープルを陥落させると、オスマン帝国のメフメト2世の攻勢は一層激しくなり、1456年にはハンガリーの入り口に当たる要塞都市ベルグラード*18を包囲した。フニャディは救援に向かい、長男ラスローを守備隊と共にベルグラードに入れた。

*18 長らくビザンティンとハンガリーの間で争われていたが、当時はハンガリー領。セルビアはそれより南部のコソボが中心だった。そのためコソボに対する執着が強い。

一方、教皇庁から派遣された修道士ジョヴァンニ・カピストラーノは農民達に十字軍に加わるよう説教しており、未経験の雑軍ながらかなりの数の軍を従えて加わっていた。

ベルグラードはドナウ川やサーバ川に面しており、これらの制水権が攻防の要となった。当初はオスマンの艦隊が封鎖していたが、フニャディは河川の船を集めて艦隊を組織しオスマン艦隊を打ち破ったため、城壁内への部隊の移動や食料の搬送が可能となった。

しかしメフメト2世は諦めずに大砲による攻撃を続け、城壁の弱い部分が破損し始めると総攻撃を命じた。城壁内にオスマン軍が侵入し始めたが、それを予期していた守備側が建物を利用して激しく抵抗したため追い払うことに成功している。

翌日、自然発生的に農民達の雑軍がオスマン軍と交戦を始め、当初は止めようとしたカピストラーノも兵達に促されてオスマン軍に突撃をかけ、これを見たフニャディはオスマン軍の大砲陣地に攻撃をかけた。

虚を突かれたオスマン軍は混乱し、メフメト2世は自ら戦闘に参加したが負傷し後送された。日暮れになりハンガリー軍は城内に引き上げたが、その夜の内にオスマン軍は密かに陣を引き払ってコンスタンティノープルに向かって撤退していた。

ベルグラードは歓喜し、勝利の報はヨーロッパ中に送られたが、ハンガリー陣内では疫病が流行り2週間後にフニャディは罹患して死去した。ちなみに2ヶ月後にカピストラーノも罹患して死亡している。

ベルグラード攻防戦の間、教皇カリストゥス3世はヨーロッパ中の教会に、正午に鐘を鳴らし異教徒に対する勝利を祈るように要請していたが、この勝利を記念して、これ以降、現在にいたるまで、カトリック(一部のプロテスタント、正教でも)では正午の鐘が続いているという。

第二次コソボの戦いやコンスタンティノープル陥落などキリスト教勢力の敗北が続いていただけに、久しぶりの勝利には象徴的な意味はあったが、現実的に考えればベルグラードが落ちなかっただけで、オスマン軍に大打撃を与えたわけではなく、この後もオスマン帝国の拡大は続くのである。

とは言え、フニャディの政略と勝利により、ワラキアのヴラド串刺し公、モルダビアのステファン、アルバニアのスカンデルベグの抵抗が続き、ハンガリーがしばらくオスマンの脅威から逃れて内戦したり、ボヘミアやオーストリアを征服する余裕を与えたのである。

近代のロマン主義的ナショナリズムの影響で、フニャディはハンガリーだけでなく、ルーマニアやセルビア*19などでも民族的英雄とされており、欧米においてはキリスト教世界の英雄と見なされることも多い。

*19 フニャディの出自がおそらくルーマニア系で所領もトランシルバニアが中心であること、ベルグラードが現在はセルビアの首都であるため、それぞれ自国の歴史として捉えているようである。特にハンガリーとルーマニアは歴史的な経緯もあって確執があるようだ。

ハンガリー最後の栄光(4) - マチアス王

フニャディの死後まもなく、ツィレイ伯ウルリク2世が大将軍に任じられ、ラジスロー遺腹王と共にベルグラードに入城したが、これに不満を持っていたフニャディの長子ラスローはツィレイ伯を暗殺した。ラジスロー遺腹王は一旦はラスローを許し、大将軍、財務長官としたが、反対派大貴族の指嗾もあり、1457年にラスローを逮捕して処刑してしまった。

一方、次男のマチアス(マチャーシュ)(b.1443-d.1490)も捕らえられ処刑されそうになったが助命され、その後、ボヘミアでラジスロー遺腹王と対立しているフス派のイジー・ス・ポジェブラトの保護を受け、イジーの娘カテジナと婚約している。

まもなくラジスロー遺腹王が死去*20するとハンガリーでは、国民的人気の高かったフニャディの息子マチアスを望む声が強くなったが、ガライ家やイロツキー家などの大貴族は成り上がり者のフニャディ家を嫌い強く反対していた。しかし、母方のシラージ家の支援を受けて1458年1月にマチアスはわずか15歳でハンガリー王に選出された。

*20 当然、毒殺の噂があったが、近年の調査では白血病による病死のようである。

マチアスは年少ながら優れた政治感覚を持っていたようで、カテジナ(d.1464)との結婚でボヘミア王に選出されていたイジー・ス・ポジェブラトとの同盟を強固にすると共に傭兵を主体とした直属軍を強化し、政治への介入の強かったガライ家とシラージ家を排除し中下級貴族から有能な人物を役人に就けて親政体制を強めた。そして、オスマン帝国との戦争を大義名分としてローマ教皇の支持を受け、ハンガリー王位を狙うハプスブルク家のフリードリヒ3世の企みを牽制している。

国内がある程度、落ち着いた1464年頃から、マチアスはオスマン、オーストリア、ボヘミアの三方面で阿修羅のごとく戦い続けるのであるが、それを支えたのが黒軍と呼ばれた直属軍だった。

元々、遊牧民出身でフランク王国の版図ではなかったハンガリーは他の西欧諸国とは違い、重装騎士はそれほど重要ではなく、軽騎兵、弓歩兵が重要な戦力を構成していたが、彼等は地域の領主の指揮下にあった。

マチアスは莫大な資金を費やして定常的に傭兵を雇い、それを中核として徴収兵を組み合わせ、王の任命した隊長に指揮をとらせることで国王の統制下に置いた。定常的に戦争を行っていたため、黒軍は実質的に常備軍化していた。

傭兵は当初はフス戦争で鍛えられたボヘミア傭兵が中心であり、さらにドイツ、セルビア、ポーランド傭兵が加わり、当初は6千人程度だったのが1480年代には2万人近くに増加している。これらの傭兵を中核として、20戸に1人徴兵される弓(弩、火縄銃)歩兵を組み合わせ、これに従属国(ワラキア、モルダヴィア等)の兵を合わせると9万人を動員することが可能だった。

それを賄う資金としては、課税の強化と豊富に産出する金であり、年収は650,000フローリン*21程度あったが、これに加えてオスマン帝国との聖戦/十字軍を標榜していたため、教皇庁を通じて全ヨーロッパから援助を受けることができた*22。

*21 オスマン帝国の1,800,000フローリンと比べてもそう少なくはない。
*22 オスマンの矢面に立つことが多かったベネチアの援助が最も大きいのであるが、ハンガリーはダルマチアの所有を巡る敵でもあり、その軍備増強の資金援助をすることはベネチアにとっては複雑だった。

父のフニャディは主にハンガリーのためとは言え、長征やヴァルナ十字軍、コソボ十字軍などオスマンへの攻勢に熱心だったが*23、狡猾なマチアスにとってオスマン戦は、教皇の政治的支持*24や資金援助を受けるための大義名分であるため長引くのが望ましく、ハンガリーとその同盟国の勢力維持が中心であり、狙いはボヘミア、オーストリア、ポーランドだった。

*23 仕えていた王がポーランド=リトアニアのヤギェウォ家やオーストリア、ボヘミアのハプスブルク家だったため、主にオスマンを敵にしたとも言えるが。
*24 彼は通常の君主よりローマ教皇の支持を必要としていた。多くの王侯は互いに親族であり、それが外交ネットワークになっているが、王家の出自ではないマチアスは教皇の影響力を利用する必要があった。

ハンガリーは長期に亘ってカトリック圏の防壁*25として機能してきたのであるが、マチアスは利用されるだけでは物足りなかっただろうし*26、拡張期にある強力なオスマン帝国と戦うより、血統のみを頼りに防壁の中でヌクヌクとしてきた旧勢力と戦う方が有利と判断したのだろう。

また、ハプスブルク家やヤギェウォ家を差し置いて王になったため、周りは全て潜在的な敵でもあった。そのため当初は同じ立場のボヘミアのイジーと同盟したが、教皇の支持を得るにはフス派と結ぶのは得策でなく、またボヘミアは最も狙い易い相手だった。

*25 ビザンティン帝国やモンゴルなどの遊牧民族の侵入からカトリック圏を守ってきた。
*26 もっともハンガリーも同様にワラキア、モルダヴィア、セルビア、ボスニアなどの正教の小国を防壁として利用していた。

1465年に教皇パウロ2世はフス派のボヘミア王であるイジーを破門し、周辺の君主が取って代わることを認めた。これを受けて、マチアスはボヘミアに出兵し、1469年にはボヘミアのカトリックによりボヘミア王に選出された。イジーは息子の継承を諦め、ポーランド王カジミェシュ4世の長子ウラースロー(2世)*27を継承者に指名し、ポーランドの支援を受けて対抗したが1471年に急死した。

*27 カジミェシュ4世の王妃エリザベトはラジスロー遺腹王の姉であり、ボヘミア、ハンガリーの継承権があった。

ボヘミア支配を確保する好機だったが、同時にハンガリーでも、大貴族によりカジミェシュ4世の次男カジミェシュ*28を王に推戴する陰謀が企てられ、マチアスはこれに対応しなければならず、カジミェシュを追い返すことには成功したが、1474年にはポーランドの大軍がボヘミアに侵攻しヴロツワフ*29を包囲し、マチアスは防衛に専念しなければならなかった。その後もウラースロー2世と戦い、モラヴィア、シュレジア等を占領したが、プラハは得ることができず、1479年にオロモウツで和平条約を結んだ。

・ウラースロー2世とマチアスは共にボヘミア王位を名乗れる。モラヴィア、シュレジア、ルサチア等のボヘミアの一部はマチアスが支配する。但し、ウラースロー2世はマチアスの死後に400,000フローリンで買い戻す権利がある。

*28 ウラースロー2世がボヘミア王と見なされていたため、ポーランド王太子とされていた。王になる前に25歳で若死にしたが、非常に信仰深く、後に列聖されている。
*29 元々、ポーランド領だったが、ポーランドの混乱期にボヘミアに割譲されていた。現在はポーランド領である。

1480年にオスマン軍がイタリアの踵部分にあるオトラントを占領し*30、狼狽した教皇はマチアスに救援を頼んだ。ナポリ王フェランテは舅*31でもあるため、マチアスは将軍を派遣し、1481年にナポリ軍と共にオトラントを包囲した。折よく、まもなくメフメト2世が死去したためオスマン軍は撤退し奪回することができた。

*30 この時にイスラムへの改宗を拒否して殺された800人余の市民が、先日(2013年5月)殉教者として列聖されている。
*31 1476年にナポリ王女ベアトリーチェと結婚している。

マチアスはボヘミアの戦いでウラースロー2世を支援するフリードリヒ3世を攻め、一旦、和睦したが、フリードリヒ3世が約束の賠償金を支払わなかったため、1481年からオーストリアを攻撃した。皇帝の権威で外交や婚姻に強いが軍事力の弱いオーストリアは歴戦の黒軍の敵ではなく、1485年にはウイーンを包囲し、半年の包囲の後に陥落させた。マチアスは略奪や処刑などはせず、そのままウィーンを彼の首都として上オーストリアを支配し、ザクセン公、バイエルン公、スイス、ザルツブルク大司教と同盟を結んでその地位を確保した。

ハンガリー最後の栄光(5) - 落日

このように戦勝と栄光に包まれ、文化的にもイタリアとの交流によりルネッサンスを導入してハンガリー最盛期を築き、ハンガリー最高の王、英雄と称賛されるマチアスだが、嫡出子が1人もいなかった。王妃ベアトリーチェとは1476年から結婚していたが子供は生まれず、庶子*32のヤノーシュ・コルウヌス(b.1473-d.1504)がいるだけで、養子にするような親族すらいなかった*33。

*32 カトリックでは原則、庶子に継承権はないが、この時代になるとポルトガルやカスティラでアヴィス朝やトラスタマラ朝の例があり不可能ではなかった。しかし、元々、王の血筋でもなく、初代の王家で、当人が未だ若年と悪い条件が重なっていたため非常に難しかったと言える。
*33 フニャディにはラスローとマチアスしか子はおらず、兄弟がいたようだが、この時点で生存している親族はいないようである。

ヤノーシュには多くの所領と地位を与え、後継者として宣言もしたが、王妃ベアトリーチェは反対しており、重臣達の支持を得ているとも言えなかった。ローマ教皇や神聖ローマ皇帝との交渉で何とか後継問題を解決しようとしたが*34、1490年に急死した。死の床で重臣や黒軍の将軍達にヤノーシュへの忠誠を誓わせたが、それも虚しかった*35。

*34 フリードリヒ3世にはオーストリアの返還を条件に承認を求めていたようだ。
*35 何か秀吉の最期を思い出すが・・

マチアスが最期を向かえる前に、既に王妃ベアトリーチェは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の跡継ぎマクシミリアン1世やポーランド王カジミェシュ4世の三男ヤン(後にポーランド王ヤン1世)と交渉を行っており、一方、ハンガリー貴族はボヘミア王ウラースロー2世*36がベアトリーチェと結婚することを条件にハンガリー王に選出した。

*36 何でも「良きに計らえ」と答えたそうで、ハンガリー貴族には好ましい人物だった。

貴族達にとって有能な王は危機に直面した状況では望ましいが、直接的脅威のない状況では御し易い人物を望むのである。マチアスはハンガリーに栄光をもたらしたが、その重税に貴族たちは疲弊しており、オスマンのバヤジット2世が領土拡張に積極的で無かったこととマチアスの活躍によりオスマンの脅威が減少していたため、無能な王を選んだのだろう。

黒軍はこれらの動きの中で中立だった*37。彼等はマチアスを慕っていたが、有能な王を望んでおり、ヤノーシュ・コルウヌスには何の戦歴もなく、優柔不断で軟弱と見られており、あえて推戴したい対象ではなかった。

*37 基本的に傭兵であり、適切な人物が王にならなければ、それぞれの隊長が独自の行動を取るか、新しい雇用者を探し始めるだけである。

母親が平民(都市市民)であるヤノーシュには頼りになる親族もおらず、義母のベアトリーチェはヤノーシュの継承に反対で独自の思惑があり、この情勢に為す術もなく屈服し、ウラースロー2世を認めて忠誠を誓った。

マクシミリアン1世はハンガリーに奪われたオーストリア領土の奪回にかかり*38、ヤンはポーランド軍を率いて北部から侵攻してきた。給与の支払いが滞ったため、黒軍の一部は略奪を始め、一部はオーストリア軍に加わった。議会は資金を集めてポーランド軍を撃退し和睦したもののオーストリア領及びボヘミアは奪回されてしまった。

*38 この頃にはネーデルラントの資金で、ランツクネヒトを養成して使用できるようになり、以前と比べて格段に軍事力が向上している。

好機と見たオスマン帝国バヤジット2世は南部から侵攻し、南部でも未払いの黒軍が略奪を働きオスマンに寝返る動きも出て、1492年に金のかかる傭兵軍を維持できない議会は黒軍を解散してしまったが、これにより一層、元黒軍の脱走兵が領内を荒らしまわることになった。

ウラースロー2世と大貴族達はフニャディ、マチアスの成果を台無しにしてしまった。ウラースロー2世は大貴族の言うがままであり、議会が国を統治すると言えば聞こえが良いが、実質的には大貴族の寡頭制であり、マチアスの中央集権的な体制は失われてしまった。大貴族は貴族の支持を得るために大幅な減税*39を行い、権力闘争に明け暮れ、辺境の守備隊の賃金は滞りがちで物資も不足していた。

*39 貴族の利益のためであり、領土を失い、別の収入の当てもなく減税を行えば、資金が不足するのは自明である。

王権が弱まり大貴族が強くなれば結局、農民への締め付けが強くなり、1514年にドージャの乱が起こった。

これは元々は、オスマン帝国の圧迫に王が打つ手を持たない中で、教皇から要請された王国宰相が歴戦の傭兵だったジェルジ・ドージャに、十字軍として農民を集めて組織するよう依頼したもので、募集に対して不満をもつ農民、遊学学生*40、托鉢修道士など10万人近く集まったが、必要な物資、食料は提供されず、不満が高まる中で、地元の地主達に戻るように言われて拒否したことから争いになり、一気に大規模な反乱となった。

*40 大学や高名な学者の塾に留まって学ぶのが留学で、各地の知識人や書籍・文献を訪ね歩いて学ぶのが遊学

反乱は一時的に成功したが、十分な訓練もなく、ドージャも十分な統率ができない状態に陥り、ヤノーシュ・サポヤイやイシュトーバン・バートリと言った大貴族が総力を上げて鎮圧に向かうと完敗し、ドージャは捕らえられ、非常に残酷な方法で処刑された。乱に参加した農民など70,000人が拷問を受け、これ以降、農民に対する締め付けは一層厳しくなり、オスマンの侵攻に対しても農民は協力せず、貴族側も農民に武器を持たせることを恐れて、マチアスの頃のような十分な動員を行えなくなってしまった。

1516年にウラースロー2世が亡くなり、10歳のラヨシュ2世が跡を継いでも状況は変わらず、国内は無政府状態に近かった。ハプスブルク家との二重結婚による同盟も有効な援助は得られず、1521年にはハンガリーの門と言える、以前、フニャディが死守したベルグラードが陥落し、ハンガリー中央部への道が開けてしまった。

1526年の「モハーチの戦い」はハンガリーの命運を賭けた決戦のはずだが、その動員数は3万人以下で、あまりの脆さに勝ったスレイマン大帝は、これは罠で伏兵が別にいるのではないかと疑ってしばらく警戒を解かなかったという。

ラヨシュ2世は戦死し、ハンガリー貴族が選出したトランシルバニア公ヤノーシュ・サポヤイとラヨシュ2世の姉婿であるハプスブルク家のフェルディナンド1世がハンガリー王を名乗るが、ハンガリーという国は存在しなくなった。マチアスの死から、わずか36年のことである。

その後のハンガリーは茨の道を歩むことになる。ハンガリー国土はオスマン帝国直轄領、オスマン属国領、ハプスブルク支配下の王領ハンガリーに分割され、ハンガリー中央部はハプスブルク、オスマンの2大帝国の戦場となり、国土は荒廃し人口は減少した。

第二次ウィーン包囲後のハプスブルクによるハンガリー回復も解放というよりハプスブルクによる征服であり、対抗宗教改革を掲げるハプスブルクの下では中小貴族に多かったプロテスタントは迫害された。さらにウィーン政府は減少した人口を回復させるために周辺民族の移民を奨励したため、マジャール人の人口は40%以下になり、第一次大戦後の大幅なハンガリー領土の喪失に繋がることになる。

とは言え、プロシアや革命の脅威の中でハプスブルク家はハンガリー人の支持を必要としており、オーストリア=ハンガリー二重帝国になるなど、ハプスブルク帝国内のハンガリー人の地位は向上したが、第一次大戦後には固有の領土(聖イシュトヴァーン王冠の地)の半分以上を失う悲劇に見舞われ、第二次大戦では領土回復のためにドイツの同盟国として戦って、再び敗戦を味わい共産圏となり、さらにハンガリー動乱でソ連とワルシャワ条約機構軍の侵攻を受けることになる。

しかし共産圏の崩壊に応じて一早く民主化し、「旧東欧の優等生」と呼ばれ、2004年にはEUに加盟している。

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