コソボの悲劇

コソボの悲劇(1)

コソボ紛争で一躍有名になったコソボの戦いは、中世末期のセルビアとオスマントルコとの戦いである。これに大敗したセルビアはその後オスマン帝国に支配されることになり、独立を失ったセルビアの民族的悲劇の場として様々な伝説や文芸作品が作られ、その地は聖地と見なされているため、セルビア人はコソボを失うことを認めることができないと言われた。

ただ、少し違和感を感じたのは、コソボの戦いは1389年であるが、オスマントルコは1402年にチムール帝国に決定的敗北を喫して、一旦、崩壊しているため、セルビアも独立を回復しているはずで、この戦いがその後、長くオスマン帝国の支配下に入った直接の原因ではないはずなのだ。

セルビアの歴史を紐解いてみると、第4回十字軍によるラテン帝国が存在している1217年に、どさくさに紛れて正教国ながらローマ教皇の承認を得てセルビア王国*1となっている。その後、多少の浮き沈みはありながらも、ラテン帝国、ビザンティン帝国の衰退に伴い、現在のマケドニア、アルバニア方面に勢力を拡大し、1346年にはギリシア北部までを版図に入れ、国王ステファン・ドゥシャンは「セルビアおよびギリシア皇帝」を称している。この時点が、栄光のセルビア時代の頂点であるが、衰退は意外に早かった。1355年に心身共に弱かったと言われる息子のステファン・ウロシュ5世が跡を継ぐと急速に帝国は分裂し、ステファンは1371年に子供を残さずに若年で亡くなってしまった。

*1 たぶんカトリックへの改宗が期待されていたと思うが、ラテン帝国も衰退する一方で、うやむやになったと思われる。

オスマントルコは、1354年にビザンティン帝国からガリポリを奪ってから急速にバルカン半島に進出し、1370年頃にはセルビア領内に侵攻するようになった。1371年に南部(マケドニア)を領有して王を称していたムルニャヴチェヴィッチがオスマントルコ軍に大敗し戦死した。その後、割拠した各勢力の中で最有力となったのがハンガリーに接するセルビア北部を領有するラザルで、彼が1389年に、コソボのブランコヴィチなどのセルビア各勢力を率いてボスニア王の兵と連合し、コソボ平原でムラト1世とバヤジット(1世)率いるオスマントルコ軍を迎え撃ったのがコソボの戦いである。戦闘の被害自体は互角とも言われ、ラザル、ムラト1世共に死亡*2しているが、これによりセルビア側の組織的抵抗は失われ、1392年までにセルビアはオスマントルコの支配下に入った。

*2 ラザルは捕虜になり、ムラト1世は投降に見せかけたセルビア貴族に暗殺され、その報復としてラザルも殺されたという。

ラザルの息子ステファンは、オスマントルコの臣下として1396年の西欧十字軍に対するニコポリスの戦いや1402年のチムールに対するアンカラの戦いに参加したが、オスマントルコの崩壊によりセルビアに戻り、ビザンティンから専制公の称号を受け、神聖ローマ皇帝ジギスムントのハンガリーと同盟してドラゴン騎士団の一員ともなった。この間はかなり繁栄し、西欧の文化も受け入れて、セルビアルネッサンスとも呼ばれるようだ。しかし、1427年に急死して、甥でブランコヴィチの息子のデュラド・ブランコヴィチが跡を継いだ。

1438年にムラト2世の侵攻によりセルビアの大部分を占領され、デュラドはハンガリーに逃れた。トルコがハンガリー国境にまで迫ったため、ハンガリー摂政ヤーノシュ・フニャディは対トルコ戦を開始し、教皇の呼びかけにより1443年に反トルコのバルナ十字軍が結成された。戦闘が何回か行われ、それぞれ勝敗があったが、隠居を望んでいたムラト2世の意向もあり、1444年に10年間の和平条約が結ばれた。これにはムラト2世の妻の1人であるセルビア王女マーラ*3の斡旋があったとされ、これによりデュラドはセルビア領の大部分を回復したが、この調停のため、ハンガリー内に領有していた所領をフニャディに割譲したという。

*3 デュラド・ブランコヴィチの娘で、メフメト2世の母と言われることもあるが違うようである。

コソボの悲劇(2)

ところが、ボスポラス海峡を封鎖するためにベネチア艦隊が出撃したと聞くと、トルコの主力をアジアに足止めした間にヨーロッパ部分を奪い返す絶好のチャンスとして、すぐに十字軍は和平を破り*4、ブルガリアに進撃してバルナの戦いとなった。デュラドの立場は微妙であり、これに参加せず中立を保ったが、オスマン側に情報を流したとされ*5、フニャディの憤慨を買うことになったが、デュラドの方も違約を咎めて、フニャディに割譲した領土の返還を求めたが拒否され、両者の仲は険悪になったようだ。

*4 基本的に教会は異教徒との約束は守る必要がないという立場で、歴史的に十字軍はしばしば協定を破っている。もっとも、イスラム教徒も似たようなものである。
*5 マーラを通してだろう。

この敗北の後、ハンガリーの混乱を立て直し、1448年にフニャディは再びハンガリーを中心としたキリスト教連合軍を率いて、第2次コソボの戦いでトルコ軍と戦ったが、デュラドは連合軍がセルビアを通過することは認めたが参加はせず、一応中立を保ったが、アルバニアのスカンデルベグを足止めし、ムラト2世に情報を流して、両天秤をかけたようである。さらに敗戦のフニャディを捕らえ、一時期拘束したという。

その後、デュラドはオスマン帝国の従属国として国を保ち、1453年のコンスタンチノープル攻城戦でもオスマン側に兵を出しているが、1458年の彼の死後に後継争いが起こり、まもなくオスマン帝国に併合されてしまう。

こう書いてみると何故、セルビアの歴史の中でコソボの戦いが重視され、1438年の占領や1458年の併合が軽視されているのかが分かると思う。バルナ十字軍での和平条約以降、セルビアはキリスト教徒対イスラム教徒の戦いとされるバルナの戦いにも第2次コソボの戦いにも参加しないどころか、おおよそオスマン側だったのであり、1453年のコンスタンチノープル攻城戦においては本意ではないにしろ、参戦しているのである。

西欧の十字軍的観点においても、外敵と華々しく戦うことを尊しとするナショナリズム的観点からも、とても誇れたものではない*6。そこで、1389年のコソボの戦いで全てが決し、以降、セルビアはトルコの支配下で苦しんでおり、トルコ側に参戦していても属国として否応なくのことであるということにしたいのだろう。

*6 同時期に似た立場でトルコと戦ったモルダビアのステファン、アルバニアのスカンデルベグが有名で英雄とされている。ワラキアのヴラド串刺し公は少し微妙だがルーマニアでは英雄とされているそうだ。セルビアが対抗するには遡ってラザルを挙げるしかない。

しかし、上記のデュラドの行動をそういう観点を除いて見ると、和平条約を結んだ直後にそれを破る連中と行動を共にしないのは正当な行為であり、第2次コソボの戦いでは、既にフニャディとは激しい対立関係にあり、ハンガリーが勝っていれば、ハンガリーの宗主下に入れられただろう。結局の所、ヴラド・ドラキュラの項で述べたように、大国に挟まれた正教徒の1君主としてはハンガリーとトルコのどちらがマシかの問題になるのである。

近代においては、ナショナリズム的観点が強くなる。例えば、セルビアの歴史において、興味のある人はWikipediaの「セルビアの歴史」の「オスマン帝国の征服」*7を見てもらいたい。そこでは、ムルニャヴチェヴィッチが単なる諸侯(バロン)とされているが、彼はセルビア王であり、一応、正式な皇帝の共同統治者だったのである。この敗戦の後、彼らの所領を奪って最有力になったのがラザルであるが、ラザルはコソボの戦いの悲劇の英雄でなければならないため、他の人間の重要度は低くされるのである。そして専制公時代を単に「乱世だった」と片付け、いきなり1459年に首都攻略とニベもない。

*7 日本語訳に少し難点があるが、概ね英語版の忠実な翻訳である。

実のところフニャディも十字軍観点、及びハンガリー・ナショナリズム観点ではイスラム教徒の外敵オスマントルコと戦った英雄だが、それを外してみると随分、傲慢で権力指向の成り上がり者で、周りからの評判は良くなかったようである。

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