公式の歴史において語られることは少ないが、このスキャンダルがカペー朝の王位継承を混乱させ、百年戦争の原因の1つとなっている。
フランス王フィリップ4世の晩年に起きたこの事件当時において、フランス王国は前途洋々としていた。フィリップ4世は世俗の法律家の登用により国内の体制を整備し、三部会により国家的求心力を高め、アヴィニョン教皇庁を影響下におくことで欧州における国際的影響力を強めていた。戦争による勢力拡大は必ずしも成功していないが、ナポリ王国やハンガリー王国はフランス王家分家のカペー・アンジュー朝であり、神聖ローマ帝国も親フランスのルクセンブルク家のハインリヒ7世であり、イングランドのエドワード2世とは王女イザベルとの婚姻により和睦しており、西欧の頂点に立っているといって過言ではなかった。息子はルイ(10世)、フィリップ(5世)、シャルル(4世)の3人がおり、後継者が断絶する心配も少なかった。
フランス王家の婚姻は明確な意図をもって行われる。フィリップ4世自身はナバラ女王ジャンヌ・ド・ナバール*1と結婚しており、ルイをマルグリッド・ド・ブルゴーニュ、フィリップをジャンヌ・ド・ブルゴーニュ、シャルルをブランシェ・ド・ブルゴーニュと結婚させている。全てブルゴーニュであるが、マルグリッドはブルゴーニュ公、ジャンヌとブランシェはブルゴーニュ伯の娘であり、これらとの婚姻によってブルゴーニュへの影響力を高め、将来的にブルゴーニュ全体をフランス王家の支配下に入れることを目論んでいた*2。
*1 数代前にシャンパーニュ伯がナバラ王となっており、女性相続人であるジャンヌは、フランスに隣接するナバラ王国だけでなく、フランス王の本領であるイル・ド・フランスに隣接するシャンパーニュ伯領の所有者であり、フランス王にとって極めて魅力的であった。
*2 ブルゴーニュ公は元々カペー分家であり、頻繁な婚姻によりフランス王家との繋がりは強かった。この後も何重もの婚姻によって、最終的にはフランス王ジャン2世の末子フィリップ豪胆公がブルゴーニュ公となってバロワ・ブルゴーニュ家を開き、その意図は結実するが、フランス王家にとっては喉元のトゲとなったのは歴史の皮肉である。
事の顛末は、イングランド王エドワード2世に嫁いだイザベルが1313年に里がえりした際、兄弟とその妻に刺繍入りの小物入れをプレゼントしたが、その年の末にロンドンで盛大なパーティを行った際に、ゴーティエとフィリップ・ドーネイという2人のノルマン系の騎士がその小物入れを持っていたことに気づき、翌年、再びフランスに行った際に、父王フィリップ4世にそのことを告げたことにより発覚した。
2人の騎士は厳しい拷問による取り調べで、パリにあるネールの塔においてマルグリッドやブランシュと飲食を共にし不貞に及んだことを白状した。また、ジャンヌにはこの事実を知っていたのに黙っていた、あるいは彼女も参加していたとの疑いが懸けられた。この事件は公にされ、パリの高等法院で、2人の騎士は有罪になり残忍な方法で処刑され、マルグリッドとブランシュは終身刑となりガイヤール城に幽閉された。ジャンヌは夫のフィリップが積極的に弁護に動いたこともあり、無罪となった。
事実関係自体は、おそらく不貞は事実であったろうと思われるが、むしろ、これが公に裁かれたことに疑惑が存在する。実のところ、中世の上流階級において妻が愛人を持つことは珍しくなかった。結婚はビジネスであることは双方が承知しているため、子供さえ作らないように注意すれば、宮廷愛*3という名目で愛人を持つことは黙認されていた。イザベル自身、後にマーチ伯ロジャー・モーティマを愛人にしている。
*3 貴婦人に対して、崇拝し、奉仕することを建前に、恋歌の交換などプラトニックな恋愛を楽しむものだが、実際には精神的だけでなく肉体的関係になることも多かったと見られている。
考えられる理由の1つとしては、ブルゴーニュとの結婚があまり利益を生まなかったため、これを口実に離婚(婚姻の無効)して別の結婚をしたかったからかもしれない*4。確かにジャンヌがブルゴーニュ伯領の相続人である*5だけで、他の2人は相続人ではなく、国王クラスの娘か、より相続に近い貴族の娘と結婚する方が利益が大きいだろう。実際、ルイ10世は後にハンガリー王女クレマンス(ハンガリー・アンジュー家)とシャルルは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の娘マリーと結婚している。
しかし、フランス王家はアヴィニョン教皇に強い影響力をもっているため、他の理由でも婚姻の無効を得るのは困難だったとは思えず、このような醜聞を公にする必要があっただろうかとの疑問は残る。
*4 離婚するには教会と妻の実家に承知される必要がある。妻の不倫は婚姻の無効の公式な理由にはならないが、実際の理由としては了承され易い。
*5 フィリップが彼女をかばったのは、ブルゴーニュ伯領のためとも考えられる。まあ、子供の数も多く夫婦仲が良かった、不倫していない確信があったといった理由が一般的である。
別の理由として、イザベルが自分と息子のエドワード(3世)の相続可能性を高めるために、既に誕生していたルイやフィリップの娘を不貞の子として相続から外し、加えて、裁判中や次の結婚までの期間中に子供が作れず、嫡出子が生まれないことを期待した可能性はある。しかし、3人の成人男性継承権者がいて、まだ十分に若かった*6ことを考慮すると、イザベル母子に回ってくる確率は依然としてかなり低い。さらに結果論で、イザベルは予想できなかったのかもしれないが、ルイ10世の娘ジャンヌを相続から外すためにサリカ法が利用されたため、却ってイザベルたちの可能性が低くなってしまっている。
*6 ルイが25歳、シャルルが20歳である。
ネールの塔
ネールの塔(1) - フランス王家の醜聞
ネールの塔(2) - サリカ法
この事件の後、まもなくフィリップ4世は死去し、ルイ10世が即位したが、マルグリッドはそのまま幽閉された後に死去(おそらく殺害)し、ルイ10世は速やかにハンガリー王女クレマンスと結婚している。在位わずか2年で亡くなったが、その時点でクレマンスは妊娠していた。
王弟フィリップが摂政となり、出産を待ち受けたが、生まれた子供は男子だった。直ちにジャン1世として即位したが、生後1週間で死去した*7。
*7 当然ながら殺害が噂されたが、証拠もなく、容疑者であるフィリップ達が権力を握っていたため不問となっている。
ここで、ルイ10世の娘ジャンヌと王弟フィリップのどちらが継承するかが問題となった。この時点でのフランス貴族の常識では直系の娘には十分に相続権があり、王族であるバロワ伯シャルルやマルグリッドの弟のブルゴーニュ公はジャンヌを支持していた。しかし、ネールの塔の事件により、フランス貴族の大半はジャンヌの血統に不安を感じており、それに乗じて、王弟フィリップはフランス王家の継承はサリカ法に従っており、女子の相続は禁止されていると主張した。
サリカ法典はフランク・サリカ支族の法典だったが、フランク王国の法として採用されていた。サリカ法典では女性の土地の相続を禁じているが、それ以外の相続や女系相続については特に規定していない。中世の法は慣習法であり、何か事件があった際に、過去の事例や法が調査されことになる。カペー家は直系男子の相続が続いていたため、過去の例はなく、サリカ法典に行き着いた訳だが、当時のフランス貴族は相続人の娘を早々と結婚させ、夫と共に相続させていたため、ジャンヌの血統疑惑が無ければ、この主張は通らなかっただろう。
この主張は既に3人の娘がいるフィリップにとっても諸刃の剣だったが、当時の技術では、ジャンヌがルイ10世の娘でないことを証明することも不可能だったため、やむを得なかったものと思われる。こうしてフィリップ5世として即位したが、皮肉なことに6年間の在位の間に男子は生まれず、4人の女子がいたにも係わらず、1322年の彼の死後、王弟がシャルル4世として即位することになった。
この時点でシャルル4世には子供がおらず、推定相続人*8が問題とされた。女子を禁じても女系の男子は禁止されていないという見方が一般的だったが、それでは、ギエンヌを巡って対立していたイングランドの王太子エドワード(3世)になってしまうため、ここで、女子には継承権がなく、従ってその子孫にも継承権はないとの新たな法解釈を導入し、バロワ伯シャルルが推定相続人となった。
*8 現時点で相続人であるが、今後の状況により代わる可能性がある相続人を推定相続人という。それに対して、どんな場合でも相続人であれば確定相続人または法定相続人と呼ぶ。
もはや、汚名を着せられた女性達の怨念としか思えないが、6年間の在位の後、1328年にシャルル4世が死去した際には2人の女子しかいなかった。しかし、王妃は妊娠しており、推定相続人であるバロワ伯フィリップ(シャルルの息子)が摂政となって、これを待ち構えた。バロワ伯フィリップにとって幸い*9なことに生まれた赤子は女子であり、ここにカペー本家は断絶し、傍系であるバロワ伯がフィリップ6世としてバロワ朝を開始することになった。
*9 ジャン1世の事例を考えると、生まれた子供にとっても幸いだったかもしれない。
イングランドでは1327年にエドワード2世が廃されてエドワード3世が即位したばかりで国内が混乱しており、強い異議を示すことができなかったが不満は残っており、1334年に亡命したスコットランド王デイヴィッド2世をフィリップ6世が保護したことにより、それが一気に吹き出した。
また、バロワ家はナバラ王国の継承権がないため、ナバラはジャンヌが継承したが、その息子シャルル(悪王)が1332年に誕生しており、こちらもバロワ家の王位に不満を抱いており、そのため、1337年にエドワード3世がフランス王位を主張して開戦した後には、複雑な態度を示すことになる。
結果的には、ネールの塔事件はフランスの王位継承を男系限定にし、百年戦争の原因*10となり、また、遠い昔に分家したブルボン家*11に後に王位をもたらすことに繋がったことになる。
*10 もっとも、この事件がなければルイ10世の娘ジャンヌがすんなりと女王になれたかというと、女王の前例がないため、それも疑問で、王弟フィリップ及びシャルルと継承争いになった可能性は十分にある。
*11 ブルボン家の始祖は13世紀のルイ9世の息子である。
なお、この事件は、伝承としては様々な尾鰭が付き、夜な夜な、ネールの塔から若い貴族の死体が投げ落とされるが、それは不貞の妃たちが楽しんだ後、口封じに始末されているといった話*12になり、後年、アレクサンドル・デュマにより戯曲化されている。
*12 日本でも淀君や千姫、大奥などを対象に似たような伝承が存在する。
王弟フィリップが摂政となり、出産を待ち受けたが、生まれた子供は男子だった。直ちにジャン1世として即位したが、生後1週間で死去した*7。
*7 当然ながら殺害が噂されたが、証拠もなく、容疑者であるフィリップ達が権力を握っていたため不問となっている。
ここで、ルイ10世の娘ジャンヌと王弟フィリップのどちらが継承するかが問題となった。この時点でのフランス貴族の常識では直系の娘には十分に相続権があり、王族であるバロワ伯シャルルやマルグリッドの弟のブルゴーニュ公はジャンヌを支持していた。しかし、ネールの塔の事件により、フランス貴族の大半はジャンヌの血統に不安を感じており、それに乗じて、王弟フィリップはフランス王家の継承はサリカ法に従っており、女子の相続は禁止されていると主張した。
サリカ法典はフランク・サリカ支族の法典だったが、フランク王国の法として採用されていた。サリカ法典では女性の土地の相続を禁じているが、それ以外の相続や女系相続については特に規定していない。中世の法は慣習法であり、何か事件があった際に、過去の事例や法が調査されことになる。カペー家は直系男子の相続が続いていたため、過去の例はなく、サリカ法典に行き着いた訳だが、当時のフランス貴族は相続人の娘を早々と結婚させ、夫と共に相続させていたため、ジャンヌの血統疑惑が無ければ、この主張は通らなかっただろう。
この主張は既に3人の娘がいるフィリップにとっても諸刃の剣だったが、当時の技術では、ジャンヌがルイ10世の娘でないことを証明することも不可能だったため、やむを得なかったものと思われる。こうしてフィリップ5世として即位したが、皮肉なことに6年間の在位の間に男子は生まれず、4人の女子がいたにも係わらず、1322年の彼の死後、王弟がシャルル4世として即位することになった。
この時点でシャルル4世には子供がおらず、推定相続人*8が問題とされた。女子を禁じても女系の男子は禁止されていないという見方が一般的だったが、それでは、ギエンヌを巡って対立していたイングランドの王太子エドワード(3世)になってしまうため、ここで、女子には継承権がなく、従ってその子孫にも継承権はないとの新たな法解釈を導入し、バロワ伯シャルルが推定相続人となった。
*8 現時点で相続人であるが、今後の状況により代わる可能性がある相続人を推定相続人という。それに対して、どんな場合でも相続人であれば確定相続人または法定相続人と呼ぶ。
もはや、汚名を着せられた女性達の怨念としか思えないが、6年間の在位の後、1328年にシャルル4世が死去した際には2人の女子しかいなかった。しかし、王妃は妊娠しており、推定相続人であるバロワ伯フィリップ(シャルルの息子)が摂政となって、これを待ち構えた。バロワ伯フィリップにとって幸い*9なことに生まれた赤子は女子であり、ここにカペー本家は断絶し、傍系であるバロワ伯がフィリップ6世としてバロワ朝を開始することになった。
*9 ジャン1世の事例を考えると、生まれた子供にとっても幸いだったかもしれない。
イングランドでは1327年にエドワード2世が廃されてエドワード3世が即位したばかりで国内が混乱しており、強い異議を示すことができなかったが不満は残っており、1334年に亡命したスコットランド王デイヴィッド2世をフィリップ6世が保護したことにより、それが一気に吹き出した。
また、バロワ家はナバラ王国の継承権がないため、ナバラはジャンヌが継承したが、その息子シャルル(悪王)が1332年に誕生しており、こちらもバロワ家の王位に不満を抱いており、そのため、1337年にエドワード3世がフランス王位を主張して開戦した後には、複雑な態度を示すことになる。
結果的には、ネールの塔事件はフランスの王位継承を男系限定にし、百年戦争の原因*10となり、また、遠い昔に分家したブルボン家*11に後に王位をもたらすことに繋がったことになる。
*10 もっとも、この事件がなければルイ10世の娘ジャンヌがすんなりと女王になれたかというと、女王の前例がないため、それも疑問で、王弟フィリップ及びシャルルと継承争いになった可能性は十分にある。
*11 ブルボン家の始祖は13世紀のルイ9世の息子である。
なお、この事件は、伝承としては様々な尾鰭が付き、夜な夜な、ネールの塔から若い貴族の死体が投げ落とされるが、それは不貞の妃たちが楽しんだ後、口封じに始末されているといった話*12になり、後年、アレクサンドル・デュマにより戯曲化されている。
*12 日本でも淀君や千姫、大奥などを対象に似たような伝承が存在する。