イタリア傭兵 - コンドッティエーレ

ルネサンス期のイタリアでは、コンドッティエーレ*1と呼ばれる傭兵が戦争の中心だった。

都市国家は主に商人・職人の市民により構成されるため、13世紀までの教皇派と皇帝派(ゲルフとギベリン)の争いにおいては自警団的市民兵を用いていたが、14世紀に入って十字軍の終了百年戦争の休戦で余剰となった傭兵がイタリアに流れてくると市民兵では敵わず、また東方貿易や金融、そして毛織物などの工芸品で裕福になったイタリアの都市では、市民も自身の命を危険に晒すより金を払う方を好んだため、傭兵が盛んに使用されるようになった*2。

*1 隊長が率いる傭兵隊と期限付き契約(コンドッタ)を結ぶため、こう呼ばれた。
*2 イタリア五大国 - ローディの平和 参照

前述したように、当初は外国から流れてくる傭兵が中心だったが、1377年2月に教皇領の平定を行っていたジュネーヴ枢機卿(後のアヴィニョン教皇クレメンス7世)とイングランド人傭兵隊長ジョン・ホークウッドがチェゼーナの虐殺を行うと外国人傭兵への不信感が高まり、当時、ホークウッドの下にいたイタリア人アルベリーコ・バルビアーノ(c. 1344–1409) が聖ジョルジョ傭兵団を結成してから、イタリア人傭兵がコンドッティエーレの中心となっていく。

今も昔もイタリア人は戦争が上手いとは言えないが*3、イタリアに流れてきた外国人傭兵は兵としては二流であり*4、イタリアの内戦においては、イタリア人傭兵の方が都市国家の内情とイタリア人気質が分かっているため、より使い易く有用だったのだろう。

*3 マキャベリはフランスの将軍に「イタリア人は戦争を知らない」と言われてムッとして「フランス人は政治を知らない」と言い返したが、否定はしていない。
*4 町人(市民)相手の戦争ということで、あまり名誉とは思われておらず、他所で頭角を現せなかった兵が流れてきた。ジョン・ホークウッドは百年戦争で戦っているはずだが、どのような地位でどう戦っていたかは不明であり、現在、伝わっている話は後世の創作である。

しかし、当時のルネサンスの気風に合わせて、ローマ時代の兵法を研究し、用兵や戦略、策略を重視して、軍事科学に基づいて合理的に戦争を遂行することにより、15世紀前半においては、キリスト教・騎士道精神に基づき個人の武勇に頼る中世の騎士よりは優れた軍事力を示すことができた。

バルビアーノの聖ジョルジョ傭兵団はその後のイタリア人傭兵団のモデルとなり、その下からブラッチョ・ダ・モントーネ (1368 – 1424)、ムーツオ・アッテンドロ・スフォルツァ*5(1369 – 1424)と言ったイタリア人第一世代の傭兵隊長を輩出している。ファチーノ・カーネ(1360 – 1412)、ヤコポ・ダル・ヴェルメ(1350 - 1409)なども、それに倣ったようである。特にブラッチョスフォルツァは傭兵の二大流派となり、当人達もライバルとして所々で戦っている。

*5 スフォルツァは仇名で、子のフランチェスコの代から家名として用いられた。

ファチーノ・カーネからカルマニョーラ、ブラッチョからニコラ・ピッチニーノ、ガッタメラータ、スフォルツァからフランチェスコ・スフォルツァ、アレッサンドロ・スフォルツァと言った第二世代が出てくるが、この時代になるとリミニのマラテスタ、ウルビーノのモンテフェルトロ、マントヴァのゴンザーガ、フェラーラのエステ、ファエンツァのマンフレディ、ローマのコロンナとオルシーニなど各地の領主が傭兵市場に参入するようになる*6。

*6 名前だけ並べられてもピンとこないと思うが、記憶の端に留めておくと、ルネサンス関係の記事を読む時に馴染みができるだろう。

この15世紀前半は、ミラノ、フィレンツェ、ベネチアによるロンバルディア戦争アンジュー公家とアラゴン王家によるナポリ王国の跡目争い、教皇領内の僭主の討伐や教皇親族への領土の付与などで戦争が絶えず、力のある傭兵隊長は雇用主から与えれたり、自分の思惑により領土を広げ、下克上の様相を示していた。人文主義者で文学者だった教皇ピウス2世は「何一つ安定しておらず、変化を好むイタリアでは、奴隷でさえ難無く王になる」と評している。

友好・敵対関係が長期間持続しないこともイタリアの政情の特徴で、他の西欧諸国の場合、君主・領主の婚姻関係をベースに敵味方が決まり、婚姻が持続している間は同盟・友好関係も持続するものであるが、フィレンツェやベネチアのような共和国には婚姻関係がなく*7、商人の国だけに同盟も戦争も全て商業の一環のように見なされ、その時々の利益に応じて猫の目のように変化するのが普通だった。

*7 教皇国もそうである上、教皇が代わる毎に方針が変わる。

イタリア人傭兵も同じように考えて、高い値を付ける方、自分に利益のある方に容易に鞍替えした*8。戦争技術(art of war)が精妙になるに伴い、直接戦闘を避け、自分たちの被害を極力減らそうとし、また、雇用を維持し、雇用主から必要以上に警戒されないためには、勝ち過ぎないこと負けないことが重要になり、駆け引きや談合、八百長に近いことも行われ*9、マキャベリに言わせれば「傭兵は無統制で野心的で無規律で不忠実」だとボロクソである*10。15世紀後半は「ローディの平和」によりイタリアの戦争は減少して小競り合いと陰謀が中心となり、一層、政治的要素が強くなって戦争技術は停滞した。傭兵隊長の中には、人文主義者、芸術のパトロンとして有名な者も出てくるようになる*11。

*8 元々英語では、傭兵(mercenary)と商人(merchant)は語源が同じで、要するに武力を売買する商人である。
*9 考えてみれば、現代でも市場経済・自由競争の建前の下に、実際には価格協定やカルテルなどが存在することを思えば、いつの時代でも大差がないようである。
*10 マキャベリの傭兵への評価は極端であり、少し値引いて読まなければならない。
*11 芸術の振興と言う面では良いのかも知れないが、傭兵が文人として有名になってどうすると言った感がある。

ルネサンス期のイタリアの内戦は、小君主や大商人、ローマ教皇や傭兵隊長自身の利害や野望によって行われたものだから、戦争も「戦死者は落馬者一人」*12の戦争ゲームでも問題なかったが、他の西欧諸国では歩兵運用と火器の使用が工夫される中で、騎士中心のイタリア傭兵は時代遅れとなり、フランスのシャルル8世がフランス軍を率いてイタリアに侵入してくると「チョーク一本で征服された」と揶揄され*13、「シャルル(8世)には駆逐され、ルイ(12世)には略奪され、フェルナンド(1世)には乱暴され、スイス兵には辱めを受けた」*14と非難されるようになり、コンドッティエーレの時代は終わりを告げる。同時にイタリア諸国の繁栄も終焉し、イタリアはフランス、スペイン、オーストリアなどの地域大国の草刈場となってしまった。

*12 これもマキャベリの言だが少し大袈裟だろう。元々、他の西欧地域でも騎士の死亡率は低い。
*13 これは、むしろ分裂しているイタリアの政治的問題で傭兵のせいではない。少なくともシャルルの時は、イタリアが一致して反抗することで追い出すことができた。
*14 シャルルとルイはフランス王、フェルナンドはスペイン王、スイス傭兵と合わせてイタリア戦争の当事者たち。

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